田沼 睦著『中世後期社会と公田体制』
評者:小原 嘉記
掲載誌:「日本歴史」721(2008.6)



 著者の論文はすでに中世後期研究の基礎文献として研究史上にしっかりと位置づけられており、その主要な論考が一書にまとめられたことは、研究の利便上でも大変喜ばしいことである。ただ何分古い研究でもあるので、現在では事実関係等で変更を要する箇所もある。が、ここでは個別的な点への言及は控え、大局的なことを述べさせていただきたい。

 第一部「室町幕府・守護支配と公田体制」は、本書の中核となる論文を発表順に収録する。第一章「寺社一円領における守護領国の展開」(初出一九五八年)は丹波国大山荘での段銭徴集と守護役賦課を検討し、一五世紀中葉における守護領国の経済基盤の確立を説く。前者は公権の私権化、後者は地侍層の把握=主従制支配の強化という文脈で読める。
 第二章「国衙領の領有形態と守護領国」(一九六五年)は尾張国を中心に国衙領と室町幕府守護の関係を考察し、西国では守護請や国衙代官職等の私的契約を媒介に、国衙領の守護領化が達成されたとする。石井進氏の国衙機能吸収論が基調になっている。
 第三章「公田段銭と守護領国」(一九六五年)では、守護が特殊段銭(一国平均役)徴収を根拠に守護段銭を成立させ、それを知行制の対象にしていたことなどを説く。一国の領域支配権(公権)を梃子に主従制支配の展開を見通す。
 第四章「中世的公田体制の成立と展開」(一九七〇年)では、大田文の国家的公田を基準にした段銭の確立と、その課徴を媒介に定田=領主的公田で私段銭=領主的収奪が成立することを説く。公田の重層性を指摘することで、領主支配の拡充という論点を引き出す。
 第五章「室町幕府と守護領国」(一九七〇年)・第六章「室町幕府・守護・国人」(一九七六年)はもと講座論文で、当時の研究状況と課題が集約的に示されている。守護領国制論への批判をうけて、守護の管国支配は統治権的支配の一環であるとの立場から、室町幕府−守護体制という図式を示し、それを領主階級が権益保障のために結集した権力構造として規定する。こうした理解は権門体制論の発想に近接するといえよう。また政治史の成果を取り入れ、義教期に直轄軍と直属官僚機構を基盤とする将軍権力の専制化のベクトルが強まる一方で、守護職・惣領職補任権に基づく守護層の将軍権力ヘの求心構造の存在を説く。室町幕府−守護体制の国家的統治権力としての性格をモチーフにこれまでの研究を総括する。
 第七章「室町幕府財政の一断面」(一九七七年)は、文正度大嘗会要脚の支出・下行面から幕府・朝廷の国家構成上の一体性を描き、さらに段銭守護請や守護出銭から公田支配の変質・崩壊を読み取る。段銭制度を動態的に捉えたもの。
 第八章「荘園領主段銭ノート」(一九九二年)は、九条家領で荘園領主段銭が幕命執行ルートで調達されていた実相を論じる。

 第二部「中世後期荘園制の諸相」は室町期荘園の実態に関する研究を収める。第一章「南北朝・室町期における荘園的収取機構」(一九五八年)では、大山荘の荘民の階層分化や武家代官の登用から荘園制崩壊過程を素描する。
 第二章「公家領荘園の研究」(一九六〇年)は日根野荘の直務支配の性格を、第三章「荘園体制の解体」(六六年)は垂水西牧内榎坂郷の名・番編成などの変遷を論じる。
 第四章「室町期荘園研究の一、二の視点」(一九七六年)では公用年貢・本役について述べる。また付編「史料の周辺」には史料解題や解説が付載されている。

 次に本書の中心である第一部について論評していきたい。著者の捉え方は守護領国制から室町幕府−守護体制へと変化するが、守護公権の重視はその間も一貫しており、それがこの転換をスムーズにしたといえる。また著者は将軍権力論や政治制度など、当時の新しい成果をうまく組み込む柔軟さを有しており、そのことは、主従制的支配と統治権的支配、権限吸収論・公権分有論、公田体制、段銭制度、守護請といった重要な概念・キーワードに即した議論が行われていることにも明らかである。その意味で本書は一九六〇〜七〇年代における室町期研究の良質な部分を示したものと評価できる。
 ただし著者以後の研究では、そのバックボーンをなす国衙・段銭・公田などの問題が積極的に論じられることはなく、半ば「いいとこどり」のように議論の大枠だけが継承されてきているように思える。以下ではそうした点に鑑み、現在にも通じる問題を主にみていくことにしたい。

 問題点の第一は、権限吸収・公権分有論の視角である。これは国衙機構吸収や大田文掌握による領域支配の実現という議論であるが、しかしこれでは室町幕府が支配制度を構築・整備・強化していくことの独自の意義が、公権の継承という抽象論に接小化されかねない。幕府支配の展開と特質を歴史的に跡付けるダイナミズムが欠如すると、新たな支配権力の形成は静的な捉え方になってしまう。守護役の分析が第一章以後にあまり深められなかったのも、公権吸収による領域支配を重視する姿勢に起因するのだと思われる。
 また公権分有が一五世紀中葉以降の領国制的展開の前提としてある点も問題だろう。これは「公権の私権化」論と同様のシェーマであるが、公権は守護支配の未成熟の補完物として位置づけられることになる。ただ未成熟との評価は、所詮国内勢力の統合の度合いの強弱といった類のもので、室町前期における幕府権力の支配系統の機能面を踏まえた議論に基づくわけではない。そのことで、幕府の支配体系が政策面や社会状況に即して多面的に展開する様態やその中での守護の位置、あるいは幕府による権力編成の質や実態がかえってぼやけてしまうのであれば、分析視角としては欠陥の方が大きくなるだろう。

 第二は公田体制・大田文である。これは著者の研究の基軸である。が、評者にはその評価が過大にも思えた。公田の重層性という指摘がある。しかしそれは言葉のレトリックではないか。公田とは要は段銭賦課の基準である。室町期の太良荘の徴符には、文永二年(一二六五)大田文の総田数と定田数の二様が任意にみえる。これは賦課の際に大田文に根拠をもつ数値を臨機に採っていたことを示している。そこでは総田数か定田数かは問題でなく、極論すれば何でもよいのである。大田文を引くのは、おそらく特権的な領主層との間で合意がとれる客観的な指数が他に求め難いことにあるのだろう。逆にいうと、そうした社会関係に腐心する必要のない所領の場合、公田数を大田文に求めずとも、守護がより直接的にそれを算定していくべクトルも存在したのではないか。この点で「郡散合」も著者とは違った評価は可能だと思う。大田文がすべてではないというくらいの発想があってもよいだろう。
 また大田文については、田数の固定性はよくいわれるが、問題はむしろ荘公の枠組みの固定性の方にこそあるだろう。尾張国妙輿寺領は国人層の所領の一部の寄進をうけて成立するが、この場合大田文から公田数を引き出すことなどは不可能だ。一四世紀の内乱を経て、当該期の所領体系や知行単位はより細分・分割的になり複雑化している。過去の荘公の枠が固定された帳簿のみでは、現実の知行秩序を捕捉することなどは土台無理な話だろう。大田文掌握による公田支配(領域支配)とは理念的な話の域を出ないように思う。

 このほか統治権的支配の権能の強調についても付言しておきたい。著者に限る話ではないが、主従制的支配と統治権的支配を対置させる議論はよくある。しかしこれらは支配という行為に内在する二つの要素というべきで、教条的な分別は観念論や形式論に陥りかねず、あまり意味はない。公田支配の意義を特に力説する論調にその辺りの危うさも感じた。
 以上、非礼を顧みず思いついたことをかなり奔放に書かせていただいた。浅学のため、評者の認識不足による誤解・誤読も多いかと思うが、その点は著者のご寛恕をお願いする次第である。

(こはら・よしき 日本学術振興会特別研究員)

 




詳細 注文へ 戻る