『群馬県被差別部落史料−小頭三郎右衛門家文書』−近代の文書について
評者:大串夏身
掲載誌:「明日を拓く」72(2008.2、東日本部落解放研究所)



 群馬県の被差別部落に残されていた家文書がこのたび岩田書院から史料集として刊行された。研究グループのご苦労に感謝するとともに、歴史に関する質の高い学術書を刊行する岩田書院から出版されたことも喜びたい。これは内容的にも質の高い学術書として遜色ないものであり、関東地方の被差別部落の研究が一定以上の内容を持って展開されていることも示している。
 本書は、被差別部落のまとまった文書であって、ひとつの家の文書を系統的に読むことができることは、被差別部落にとどまらず、地域の歴史を理解する上でも貴重なものといえよう。

 一、記録(文書)と教育について

 近代の部分にふれる前に、「文書」という記録についてひとこと述べておきたい。記録は、紙という記録するものがあり、記録するために人が文字を習得して自在に書くことができなければならない。日本の場合、書くという点では、鎌倉時代、宮中で発明されたひらがな、カタカナが全国に流布し識字率が飛躍的に向上し、すでに江戸時代初期には地域の中でもかなりの人が文字を書き、読むことができるようになっていたと考えられる。それは、日本では中国から六世紀頃伝来した紙の製造法が普及し、早くから紙に文字を書いて知識の蓄積と伝達を行っていた上に、ひらがな、カタカナという話し言葉をそのまま書き取る技術が普及したことによる。
 ひらがな、カタカナ五〇音を書き、読むことができれば、意志の疎通が手紙などでできるようになるし、自分の記録としても残すことができるようになる。これによって識字率が向上するとともに生活の質が向上し、農業や金属加工などの各種技術が向上、普及したと考えられている。今回の史料集の中にも手紙などのひな形と思われるものが入っているが、それはその習得と活用の一端を示すもので、ひらがな、カタカナを習得した後、漢字を順次習得して、活用するために手紙などのひな形(手本)で学んだ。
 こうしたことは西日本では中世にはすでに教育機関として寺に「寺子屋」が普及し、東日本ではやや遅れて近世になって手習いの師匠が教育にあたった。それだけでなく、自習用の教科書も江戸時代には普及している。それらがこのたびの文書の中に含まれていたかどうかはわからないが、あまりに当たり前の文書として、保存されないことが多いので、その実態はわからないことが多い。(本史料集には、三七二ページから三七四ぺージにかけてわずかに手習文と書上(たぶん教科書の写しの一部)が収録されているだけである。もっともこうした教科書的なものがあってもこうした史料集にそのまま収録するのがよいのかどうかは別の問題となろう。)ただ、被差別部落がこれらの事柄から別であったとは考えられない。むしろ早い段階で文字を書くことは可能であって、近世の弾左衛門の支配システムに組み込まれた段階から文書を作成・保管していたと考えるのが妥当だろう。
 教育の面では、巻末の「小頭三郎右衛門家文書目録」に、年月日不詳として「消息往来」(手紙の教科書であろう)、「世話千字文」「手習本」「習字手習本」などがあり、部落の中でも手習いなどの教育活動が行われていたことが推測できる。ただ、教育については、もっぱら部落の中で行われていたのか、一般の村の中にあった手習いの場に通うことができたのかは、史料からはわからない。史料集に収録されている江戸城の門一覧や大名家一覧の断片(三七三ページ、たぶんこれは江戸の町に関する地理の教科書(往来物)から写した(手習いした)ものだろう。)があるところから推測すると、教育活動は行われていたことは事実であろう。
 本史料では、確認できる最も古い文書は一七一八年(享保三)であるという。白山神社が勧請されたのが伝承では一六六三年(寛文三)ということなので、その年か、あるいはそれ以前からこの地に居住して、記録は残していたのであろう。ただ、家文書として保存するようになったのは、意識として地域の「公式」あるいは「公的」な記録、また家の記録として保存すべきという意識が芽生えた時期以降となると推測されるので、それが少なくとも享保期だったということになるのだろう。(したがって明治以降、世の中のシステムが変わり、残す意義が薄れてしまうと廃棄されたり、売却されたりした。これは一般の家文書にも言える。)ことにひらがなで書かれることが多かったと推測される私信、メモの類はほとんど廃棄されたと考えられる。
 かくて今回の史料集に収録された文書は、明治以前は四七五点、明治以降は一三〇点となっている。明治以降は明治期中心に収録したという。(松浦利貞「群馬県被差別部落史料−小頭三郎右衛門家文書の刊行について」)

 二、近代に関して

 さて、近代に関して、次の点について述べてみたいと思う。それは、一、生業・養蚕について、二、戒名について、三、金銭の出入り等についてである。もっともこれらはすでに松浦利貞氏が「群馬県被差別部落史料−小頭三郎右衛門家文書の刊行について」という論文のなかでふれておられる。重複をいとわず紹介しておきたい。

 (一)、生業・養蚕について

 「天狗岩堰見回り役廃止通知」が明治一七年四月二日天狗岩堰修繕所から「公印」が押された公文書として届けられている。これは近世以来続けられてきた部落の「見回り役」を「本年限り」で解くという通知である。近世から続けられてきた仕事の担い手が変わっていくことを示すもので、土地の所有関係などもこの時期大きく変わって、社会が近代的な方向へ変わっていく時期でもあった。
 筬(おさ)に関する金銭の出入りの帳面が収録されている。たとえば四五一ページ下段からはじまる「明治二七年正月 大宝恵」では、一月二八日から記載がはじまり四月一九日までで終わり(四五六ページ上段)、すぐに九月二一日からはじまり一二月二七日まで続いている(四六一ページ上投)。続いて明治二八年は、一月二四日から二月二七日までで、次は九月一四日(四六二ページ下段)からはじまり一一月二八日までで(四六三ページ下段)、そのあとすぐに二月八日からの記載があり五月七日まで続いている。(四六八ページ上段)。細かくみていくと、どうもあとで綴り込んだもののようでもあり、年と時期が前後しているところもある。明治二九年の記載は、金額も多くなっている。一月二五日にはじまり(四七二ページ下段)四月二二日までで、九月二五日に再びはじまり一一月一一日までとなつている(四七七ページ上段)。
 四七八ページ上段からはじまる「筬貸附記」は、明治二七年二月四日からはじまり五月二〇日まで続く。(四八五ページ下段)そして、九月一三日から再びはじまり一二月二七日まで続く。二八年は二月から五月一三日までで、再び一〇月一一日からはじまっている。こうしてみると、単にあとで綴ったために夏の時期が欠落したわけではなくて、何らかの理由で、夏はこうした筬に関わる活動が行われなかったと考えられる。農業の稲作で忙しかったのか、それともほかに働きに出たのかなどはこの文書だけではわからない。(三八四ページからはじまる近世の金銭の出入りの記録には、七月、八月の記載も見える。)
 養蚕日記は明治三四年のもので四月三〇日から五月二九日までの記録である。室内の温度を保つために徹夜の作業を続けていることがわかる。平井氏は養蚕教員の証書を取得しているので、かなり高い技術を習得して、教員となつてほかの人たちも教えていたものと思われる。記憶に間違いがなければ、群馬県富岡に最初に官製の製糸工場が開かれたとき、優秀な女工はほかの女工を教える教師となったが、その中に被差別部落出身の女工がいた。被差別部落の子女も製糸工場で働いていた。東京都八王子の場合は被差別部落の中に部落の資本で製糸工場が作られている。

 (二)、戒名について

 これは松浦氏が言及しておられる。史料は、四四五ページの「四七二 年月日不詳 系図」で、先祖は寛永三年正月二六日の記載のあるところからはじまる系図である。何代かあと、元禄十年になくなった人の戒名に「革」の記載があるものがはじまり、貞享五、元文四、寛宝?三、享宝?三のそれぞれに「革」の入った戒名がみられる。さらに寛延四の人物の戒名にも「革」の字がある。四四五ページ上段の注に、これらの人物の戒名のうち二名については、明治以降、「革」の入らない戒名が書き込まれているとある。六人の戒名すべてではないが、戒名にあらわれた差別に対する明確な意識、差別を許さないという要求があって変更されたものと思われる。ただし、これらの系図の名字が平井ではないので、ほかの家の系図で、小頭の記録としてとどめたものとも考えられる。ここからいろいろなことが考えられるが、今後の検討にまちたい。

 (三)、金銭の出入り等について

 金銭の出入り等についての記録が残されていて、その一部も史料集に収録されている。それらをみると広い範囲の人々と交流があり、またそれに関連して地域の在郷軍人会、愛国婦人会などの活動にも参加していることがわかる。選挙でも町議会に当選したりしている。これらをどのように評価するのかは、今後の検討にゆだねられることになろう。
 先に(一)でふれた養蚕や筬などの記録は地域の行政文書にもかなりあるはずで、地域の生産活動などと関連づけながら分析、評価する必要がある。これは地域の諸団体活動にもいえる。設立当初から参加していたのか、特定の時期の参加だったのかなどはこれからの調査、研究によるだろう。それによっても地域の中での被差別部落の位置や地域住民との関係もわかるようになると思われる。

 こうした貴重な文書が公刊された意義はきわめて大きい。それは最初にも書いたようにたまたま群馬の小頭の家が記録を残していたということではなくて、それぞれの地域の小頭が同様の記録を残していたと考えるのが妥当で、その意味で、ほかの地域でも同様の関心がはらわれ、今後、被差別部落に関する文書の発掘と解読につながることが期待されるからだ。
               (おおぐし・なつみ/本研究所会員/昭和女子大学)




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