松尾正人編『近代日本の形成と地域社会 多摩の政治と文化』
評者:松崎 稔
掲載誌:「日本歴史」722(2008.7)



 「多摩」という地域は、首都東京と開港場横浜の近郊に位置しているという点で、日本近代史上特異な地域性を持っている。この「多摩」という地域の近代に焦点をあてた論文集が、本書である。
 多摩地域では、近年ようやく各市町村が自治体史を編集し終えたところである。自治体史が歴史研究において重要な意味を持つことはいうまでもないが、本来的に抱える性格から、どうしても現代の行政区分を前提とした歴史像にとどまってしまいがちである。それを横断させ、研究対象とする時代の地域・境域を再度設定し、分析をおこなうことは、歴史研究にとって不可欠なものであろう。その意味で本書は、時宜にかなった一冊といえよう。
 本書の構成は以下のとおりである。

 本書の目的と構成(松尾正人)
 第一部 幕末維新の動乱と多摩
     藤田英昭「八王子出身の幕末志士川村恵十郎についての一考察」
     松尾正人「多摩の戊辰戟争−仁義隊を中心に−」
     保谷 徹「免許銃・所持銃・拝借銃ノート
           −明治初年の鉄砲改めと国産「ライフル」−」
 第二部 近代多摩の社会と文化
     滝島 功「地租改正後の多摩−地価修正の実施と救助金をめぐって−」
     藤野 敦「旧品川県社倉金返還と地方制度の転換点
           −明治十三年に至る社倉金返還運動と国庫返済の背景−」
     石居人也「明治末期における「隔離医療」と地域社会
           −ハンセン病療養所全生病院の創設と多摩−」
     石本正紀「明治後期から大正期における地方銀行
           −五日市銀行の設立と経営一八九六〜一九二四年−」
     多田仁一「地域における近代俳人の誕生
           −埼玉県所沢の齋藤俳小星を中心にして−」
 第三部 首都・多摩の形成
     鈴木芳行「空都多摩の誕生−東京都制編入の防空事情−」
     梅田定宏「多摩の「都市化」の一側面−「総合的都市」建設を夢見た時代−」     山田義高「多摩の戦後文化運動と武蔵村山」

 藤田論文は、小仏関所出身の川村恵十郎が、一橋慶喜の家臣となって幕末の激動期に政治の中枢へ飛び込み活躍する過程を、彼の思想形成とその実践を軸にして論じている。松尾論文は、旧幕府側の仁義隊の動向を丹念に追うとともに、多摩の諸宿村への影響をも念頭に置いている。保谷論文は、幕末の農兵隊結成等により各村で抱えていた銃が、明治政府によりどのように取り締まられたのか、を明らかにしている。
 滝島論文は、武蔵野新田における地価修正要求とその実現過程を解明している。藤野論文は、品川県が徴収した社倉金の返還要求運動を政治過程と地域への影響の相関関係を重視し再検討をおこなっている。石居論文は、ハンセン病の療養所建設を事例に、病者を囲い込む地域社会において、病者個人と地域社会の個人との関係が構築されない構図を指摘し、病あるいは病者と向き合う人びとのせめぎ合いを描いている。石本論文は、五日市銀行を事例に明治後期から大正期の地方銀行の経営実態を明らかにしている。多田論文は、多摩にも影響を与えた所沢の俳人齋藤俳小星の活動を通じて、文化が地域社会における規範形成に果たす役割を検討している。
 鈴木論文は、立川とその周辺を「空都多摩」と想定し、航空軍事施設の集積とそれに伴う人口集中を分析し、首都圏における多摩の位置の再検討を試みる。梅田論文は、一九二〇から六〇年というスパンをとり、「大東京」との一体化と自立した「総合都市」建設という異なる志向のせめぎあいのなかで都市化する多摩の状況を解明している。山田論文は、演劇・合唱・図書館運動と、戦後の村山村における熱心な文化運動の様子について聞き取りを中心に分析した力作である。
 各々新たな視点や試み、研究の空白を埋める努力がなされ、重要な意味を持つ論考となっている。ただ疑問も残るので、特に気になった点を上げておきたい。

 第一に、藤野は、民権運動を反政府運動とした上で、社倉金返還運動を民権運動との関係から論じることを批判し、「政治過程と地域への影響の相関関係を含めた検討」の必要性を訴えている。社倉金返還運動を「高い権利意識」によるからといって、安易に民権運動と結びつけることには、評者も同様に疑念を持つが、民権運動も「政治過程と地域への影響の相関関係」から論じられるべきものではないのだろうか。
 第二は、多田が所沢の人物を取り上げていることである。「多摩」という地域を前提としている論集であるにもかかわらず、その外に住む人物を取り上げることについて、その意義を説明する作業をさけるべきではないだろう。
 第三は、「多摩」は近代を通して論じることのできる地域なのか、という疑問である。梅田論文をのぞく論考には、多摩全域を一つの地域として描く姿勢は見受けられないからである。石居が療養所を「地域」と表現したこと、多田があえて所沢の人物を選び多摩に収まらない地域を指摘していることは、地域設定の問題を考える上で示唆的ではないか。もちろん、一概に「多摩」といっても北多摩の武蔵野新田、西多摩の山間部、南多摩の丘陵地帯など地形・風土も異なるのであるから、分析対象により地域の範囲が異なるのは当然である。であれば、あえて「多摩」を分析対象の地域として取り上げる意義を示す役割は、冒頭の「本書の目的と構成」が担うべきではなかったのだろうか。
(まつざき・みのる 町田市立自由民権資料館学芸員)



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