久住真也著『長州戦争と徳川将軍−幕末期畿内の政治空間−』
評者:奈良 勝司
掲載誌:「日本史研究」536(2007.4)


 本書は、幕末政局を主に長州征伐(第一次・第二次)への諸勢力の関わりという観点から考察してきた久住真也氏が、これまでの研究成果を一冊にまとめたものである。元治〜慶応期の国内政局は近年注目を集めている分野であり、将軍進発問題をめぐる政治状況などを丹念に分析してきた氏の仕事は、すでに他の研究者からも高い評価を得ている。本書は、将軍の畿内滞在構想や文久改革への対応といった問題を分析軸に、氏がこれまで積み重ねてきた政治過程論を、当該期の「政治体制」論として再構成しようとしたものである。
 構成上の特徴としては、豊富な史料引用に伴う個別分析の細やかさ・長大さ(一つの章の分量がしばしば四〇〇字詰原稿用紙換算で一〇〇枚を越える)、及び時間軸における分析範囲の狭さ(三五〇頁超の分量ながら、氏によれば立論の軸となったのは二本の旧稿であり、考察期間は実質的に二年弱である)の二点が挙げられる。これは近年の研究状況を反映したものであろう。ここ二〇年ほどの幕末政治史研究は、旧来の理論・枠組み先行の風潮への反作用として、史料文言に基づく詳細な個別実証への傾斜が顕著であるが、本書はかかる研究潮流の一つの極点を示すものと言える。その構成は以下の通り。

 序 章 本書の分析視角
 第一章 徳川幕府の復古と改革
 第二章 第一次長州出兵と元治元年の政治情勢
 第三章 慶応元年将軍進発態勢の創出
 第四章 長州再征遂行主体の形成と環境整備
 第五章 板倉・小笠原の政治路線
 第六章 長州処分執行態勢の確立
 終 章 将軍畿内滞在態勢への道
 あとがき
 索 引

 序章では、本書で用いられる主要概念や先行研究の説明がなされる。「長州戦争」「『公武合体』体制」「幕政改革」などのキーワード・枠組みに基づき、先行研究を批判的に継承した上で、二度の征長を単なる戦争ではなく「国家制度」に関わる政治的問題と捉え、「幕府」内の派閥抗争を軸に分析するという基本視角が示される。以下、各章の内容を紹介した上で、本書の意義や問題点につきコメントを付したい。なお、幕末政局は非常に複雑な構造をもち、様々な性格の史料が豊富に残されていることもあって、傍目には争点の所在がはっきりしない場合も少なくない。そこで、本稿では評者自身の問題意識にも鑑み、やや踏み込んだ形で内容の検討を行うことで、できる限りの論点を提示していきたい。

 第一章では、第一次長州征伐期の江戸幕閣が検討される。すなわち、元治元年(一八六四)後半から実権を握り、将軍進発に抵抗したこの勢力を「復古派」と位置づけ、その範囲・性格・起源などが分析される。彼らは将軍継嗣問題における「南紀派」の延長線上に捉えられ、文久幕政改革に反対した、連続性をもったひとまとまりの勢力とされる。また、その権力の源は大奥・中奥を介した将軍家茂の掌握にあり、ために反対勢力は家茂を江戸から引き離すことを計画、彼の畿内滞在が政局の焦点になったとする。本章の分析は、「本書全体の道筋を与える」(二四頁)ものとして、全編を通しての骨格に位置づけられる。

 第二章では、第一次長州征伐の推移が描かれる。当時の軍事指揮権は将軍以下の江戸幕閣・「一会桑」らとその同調者・征長総督以下前線の諸藩、の三者の関係上に論じられるという視角のもと、問題を「全体的な政治状況」(一〇三頁)から把握する必要性が指摘され、その上で征長「体制」の実態が論じられる。西郷吉之助が勝海舟との会談を機に穏健論に傾いたという逸話も否定され、征長軍が早期解兵に至った「それ相応の要因」(一三二頁)が、前線の困窮状況や「復古派」への不満などから説明される。

 第三章では、将軍進発が実現する経緯が描かれる。「復古」政策を正面から否定した「慶応元年三月二日の御沙汰書」(一六五頁。但し、元治二年が慶応元年になるのは四月七日で、厳密にはかかる日付は存在しない。これは他の叙述部分においても同様。この改元は東照宮二百五十回忌に対応したもので、十干十二支の起点である甲子年の元号を僅か一年で再び改めたという点で、当時の江戸幕閣の意識と意気込みが如実に反映されたものであった)が決定的な影響を及ぼし、「復古派」幕閣の一部がこの勅命の拘束力から逃れるために、土壇場で長らく渋ってきた将軍進発に踏み切ったとする。その際在京勢力との融和も見られたものの、彼らが「再征」を宣言したことにより、長州処分問題自体は「罪状を承認させる段階に再び逆戻りし」(一九四頁)、政治過程は新たな局面を迎えたとする。

 第四章では、将軍が進発してから実際の「長州再征の遂行主体」(二〇五頁)が形成されるまでの経緯が描かれる。将軍上坂後も「復古派」と「一会桑」らの対立は続いたが、慶応元年一〇月の四ケ国艦隊摂海侵入事件を契機とする政変により「復古派」は大打撃を受け、「一会桑」ら朝幕協調派が主導権を掌握したとする。もっともこれは偶発的なものではなく、「簾前評議案十三箇条」(二〇九頁)なる史料から、「一会桑」らは長州政策と「復古派」排除を関連づけて捉えており、小笠原長行や板倉勝静ら「味方」(二二九頁)の要路復帰を進めるなど、将軍上坂直後から機会を窺っていたとする。

 第五章・第六章では、小笠原長行や板倉勝静の政治姿勢を軸に、開戦に至る在坂幕閣・「一会桑」・朝廷らの動向が描かれる。旧文久改革派の流れをくむ両者の復活は周囲から歓迎されるが、江戸では未だ「復古派」の影響力も根強く、二人は困難な舵取りを迫られたとする。また、対外政策や長州政策で諸藩に配慮し融和的方針をとった結果、後者において糾問使が当初の強硬姿勢を貫き得ず、幕長の折衝が長州有利に帰結する様子が示される。これにより「復古派」が人為的に創出した「再征」状況は葬り去られるが、その穏健論は一橋慶喜らとの軋轢を産み、長州藩ももはや処分案に従おうとはしなかった。以後も朝廷サイドの動揺や長州藩の「情報戦略」(三一七頁)に苦しめられるものの、孝明天皇の一貫姿勢や「幕府の威信」(三二八頁)へのこだわりから幕閣内、及び朝幕間の結束は辛うじて保たれ、当初彼らが必ずしも想定していなかった開戦に至ったとされる。

 終章では、まとめと展望が述べられる。将軍畿内滞在構想は「復古派」に対する「一会桑」や旧文久改革派の対抗策として具現化、朝幕協調の切り札として機能したとする。また、かかる態勢は一定の「輿論」の支持を背景に、次第にその性質を戦時下の臨時的なものから恒常的なものへと変質させたとする。そして、その結果幕閣の東西分裂と後者の排他的な朝廷掌握が固定化、幕末政局の新たな段階が用意されたと結論づける。


 以上が本書の概要である。内容の検討に入る前にその成立経緯に一言触れておきたい。本書はいわゆる論文集の体裁をとっていない。元になる四本の旧稿はあるが、冒頭でも触れた通り、うち二本を核に新たな史料も加えて大幅に再編集が施されており、「ほとんど書き下ろしと言ってよいもの」(三四九頁)になっている。かかる形態は聊か特徴的であり、この点は良きにつけ悪しきにつけ全体の論旨にも影響を及ぼしている(後述)。

 著者の研究の軌跡も本書を読み解く鍵となる。あとがきでも述べられる通り、氏はもともと幕末における大名家の動向分析から研究を出発させており、その背景把握の観点から徳川政権(幕府)に分析をスライドさせた経緯がある。そのため、政権の中でも他大名や朝廷などと関係が深く、またそれを望んだ勢力が考察の軸に据えられている。これを広義の「公武合体派」と言うなら、本書の考察の核はまさに「公武合体派」の幕臣・諸藩士・公家の分析にある。本書では彼らが朝廷との協調(乃至はその掌握)を通じて権力維持を図る様が示されており、その意味では古典的な「尊王」「佐幕」の対立図式では説明できない、当該政局の実態を描き出すことに成功している。逆に言えば、かかる問題意識に基づく以上、いくらタイトルに「徳川将軍」と冠されていようと、本書は幕末の徳川政権それ自体を包括的・体系的に扱ったものではないとも言える。この点は押さえておきたい。

 本書の最大の特色は、長州戦争期における政権内外の「公武合体派」の動きを抽出するに際し、幕末に諸藩で作られた探索書・風説留類をふんだんに活用した点にある。『改訂肥後藩国事史料』に代表されるこれらの史料は、近年の政治過程分析の精緻化に伴い利用が拡大・深化する傾向にあるが、氏はこうした流れに先鞭をつけた一人であり、本書におけるその丹念な読みや膨大な作業量は、先覚者の名に恥じないものとなっている。

 また、徳川政権内の派閥対立に着目し、或いはその裏返しとして個々の帰属を越えた幕臣−諸藩士間の横断的結合を描いた意義も大きい。我々は幕末政局を考える際、「幕府」「朝廷」「薩摩藩」などといった政治集団単位で諸事象を捉えがちであるが、この本来自明とされてきた枠組みさえもが流動化した点が、激動期の激動期たる所以であった。勿論、従来の枠組みも当該期を通じて一定の拘束力を保ち続けたが、特に文久二年〜慶応元年頃は、政治勢力間の離合集散や集団内での齟齬・軋轢が目立った時期であり、例えば元治元年の徳川政権構成員の個々の動向を「幕府」という主語で一元化することは、ほとんど不可能に近い。本書はそうした政局の実態に則して、政策や構想、時には人物単位で各政治勢力の動向が検討されており、詳細で多面的な経過分析が展開されている。

 そもそも、かねてより維新の「敗者」である徳川政権の研究は絶対量が少なく、服部之総氏や田中彰氏らの「徳川絶対主義論」が批判を受けた後は、新たな枠組みが提示されない状態が続いている。代わってこの間幕末政治史の主流となったのが、当該期の制度や慣行を踏まえた上で、当事者の相互関係から政局それ自体を描き出す研究である。原口清氏の「国是論」に象徴されるこの手法は、「過渡期における規範意識」という分析視角により、主体が乱立する複雑な幕末政局理解に一つの道筋を提示した。本書はその分析対象を徳川政権内部にまで広げたもので、その意味では近年の研究状況を順当に継承・発展させたものと言うことができ、古典的な徳川政権論に対する有効な批判になっている。

 慶応二年六月の長州藩との開戦にしても、そこに至る過程が単線的にではなく、より恒常的な政治体制とも関わる問題として、段階ごとに丁寧に描かれている。こうした視角自体はすでに青山忠正氏が過去に提唱しており、厳密には氏の独創ではないが、膨大な史料の蒐集を通じてその経緯を体系的に描き通したことは、やはり評価されるべきであろう。


 しかしながら、一方で評者は本書を一読した際、微妙な、しかし深刻な違和感を抱かざるを得なかった。正確に言えば、氏自身が本書の核と位置づける第一章の論旨に評者は納得できなかった。これは以後の展開にも関わるため、最初にやや詳しく言及してみたい。その内容は、@将軍継嗣問題や文久改革時の対立構造を元治期につなげる視角、A氏の設定する「復古派」の範囲、の二つに大別できる。これらは、政局理解における縦軸(時間)・横軸(空間)の問題と言い換えてもよい。以下、具体的に見てみよう。

 @については、これは原論文執筆時にはなかった新たな観点である。進発をめぐる閣内対立が幕末期徳川政権のよりマクロな構造分析に結びつけられ、全体の考察範囲も元治元年〜慶応元年の約一年から大幅に拡大されている。ただ、これは研究のスケールアップに寄与した側面はあるにせよ、説得力の面ではやや強引との印象が否めない。

 まず、江戸幕閣の経歴や血縁に「南紀派」以来のつながりを見る点である。これは新たな素材を用いた意欲的な試みではあるが、実際の影響力如何については慎重な判断が求められよう。何となれば、政略結婚や養子縁組は近世の支配秩序を構成した基本要素の一つであり、為政者間の血縁関係自体はさして珍しくもなかったからである。端的な例を一つあげると、「復古派」打倒の切り札と目された板倉勝静は、実は一方では彼らが崇拝した松平定信の孫でもあった。「復古派」巨魁の諏訪忠誠が定信の娘婿であったことに注目する氏は(五四頁)、この事実をどう評価するのだろうか。経歴にせよ同様で、例えば「復古派」の謀主水野忠精は、老中就任日が同じなど文久年間は板倉と歩調を共にすることが多く、「水・板」などとしばしばセットで捉えられていたのである。経歴や血縁を取りあげる際には、実際面における影響の有無も含めて包括的に検討する必要があろう。

 そしてより大きな問題は、文久改革と第一次長州征伐の間の、約二年に及ぶ期間の考察がすっぽりと抜け落ちていることである。二度にわたる将軍の上洛と参内・横浜鎖港政策・参豫会議の解体など、この時期徳川政権の政治環境は長州戦争期に劣らず大きく揺れ動いた。なかでも、水戸を中心とする関東攘夷派の活動は江戸幕閣全体を巻き込み、以後の彼らの歩みに大きな影響を与えていた(拙稿「横浜鎖港期における徳川政権の動向」『ヒストリア』一九七、二〇〇五)。本書は血縁や経歴等の補足的要素に注目する余り、この間の経緯をとばして図式化したイメージをそのまま元治期に投影してしまってはいないか。研究史の「平板な叙述」(二〇五頁)に鋭く切り込んでいる氏だけに、この点は惜しまれる。本書が緻密な過程分析を「売り」に通説に挑んでいる以上、「復古」政策の要因もその直前からの流れの延長線上にしっかりと位置づけてこそ、初めて全体の論旨にも充分な説得力が備わるのではないだろうか。

 次にAである。本書では主に在京勢力が得た探索書類から、概ね江戸幕閣=「復古派」と評価されているが、実はこの手法には構造的な問題がある。まず一般論として、探索書や風説留類は情報量が豊富な反面、客観性や信憑性に問題がある場合が少なくなく、政治史研究で利用がなかなか進まない一因となっていた。しかるに、本書にはこの点に関する吟味や説明がなく、以前から指摘されてきた問題が未解決のまま持ち越されてしまっている。

 当時の江戸に強力な情報統制が敷かれていたことも見逃せない。かかる状況下では、数少ない情報の供給源が政権末端の不満分子に偏ること、そのため情報の内容も精度の低い抽象的な批判になりがちなことは、容易に想像がつくからである。氏は六章で広島での長州藩の「情報操作」(三一六頁)を指摘するが、情報の内容と経路に対するバイアスは、無意識の場合も含めればこの時期にこそより大規模に生じていたと見るべきだろう。当時在京勢力が江戸幕閣をどう見ていたのかと、実際に彼らがどうであったのかは、本来全く別の問題なのである。本書は、前者を以て後者の説明に代えてしまってはいないか。

 これらの点を踏まえて具体的な内容に目を転じれば、進発に参加して在坂幕閣を形成した勢力は、やはり「復古派」とは分けて考えるべきであろう。元旗本や外様大名といった老中たちの異色の出自、「ピストル」や「筒袖」をまとった容貌などが、「復古」の核たる伝統回帰と相容れず、進発をめぐる諏訪らとの対立も実はかなり以前まで遡れるからである。氏が参照した当該期の先行研究にせよ、彼らにまで「復古」概念を適用してはいない。また、彼らの一部は「親外派」としても以前から注目を集めてきたが、そこでの評価は、「強硬派」ではあっても「改革派」でもあるという点で一致していた。氏はこれらの研究の枠組みは批判するものの、具体的分析を通じて個々の性格規定自体にまで反証を加えているわけではない(以上の点につき、詳しくは拙稿「情報戦としての将軍進発問題」佐々木克編『明治維新期の政治文化』思文閣、二〇〇五を参照)。

 朝廷や西南雄藩との疎遠のみを強調してこれらの点を捨象しては、「維新の変革主体」との距離感だけで徳川政権の構成員を弁別するという、研究史の古典的な問題点をも踏襲してしまいかねない。「幕府内の派閥論については異論もあり得よう」との指摘(松沢裕作『史学雑誌 二〇〇五年の歴史学界−回顧と展望−』)は、恐らくはこの辺りのことを指しているのではないだろうか。

 次に気になったのが、開戦に至る経過説明である。まず、慶応元年一〇月以降の長州政策をめぐる「一会桑」と板倉・小笠原の差異についてであるが、最終的に両者をどう評価するのかという肝心な点が評者にはよく分からなかった。五章と六章で詳細な経過分析を行った末に「幕政の主導権を握った板倉・小笠原両者と一会桑が、長州処分のあり方をめぐり不協和音を奏でつつも、大枠としての朝幕協調・一体化による長州処分が目指されたのである」(三三八〜九頁)というまとめ方では、これは拍子抜けと言わざるを得ない。

 「今まで十分究明されていない天皇・朝廷の関与」(二九七頁)にせよ同様で、結局明らかにされるのは、この問題に対する朝廷指導部の無定見と自己保身である。氏はこうした消極論を打ち破ったものとして天皇の意志を挙げるが、根拠として示されている議奏の発言は天皇の言葉の「活用」に関する提案であり、厳密には天皇の「意志」そのものではない(三一三〜四頁)。つまり、「復古派」を駆逐した在坂幕閣らが、「にも拘わらず」開戦してしまった原因やその際の朝廷の役割は、せっかくの考察を経ても結局漠としたままなのである(第二章の第一次長州征伐の解兵過程分析についても、同様のことが指摘できる)。

 その大きな要因の一つは、長州側の意識や行動が検討されてないことにあろう。戦争は片方の都合だけで起きるものではない。開戦原因は、「御威光」への固執やその協調政策ゆえ政敵排除後も大胆な方針転換ができなかった在京幕閣にあったのか。それとも、当時の長州藩指導部の姿勢自体にもはや妥協の余地がなかったのか。本書の叙述からはこの点が見えてこない。勿論現実には両方の要素が絡み合ったのであろうが、長州側の動向もきちんと描けていれば、戦争勃発に至る位相がよりクリアになったのではないだろうか。

 また、全体の叙述傾向としては、「体制」の氾濫が気になった。氏は随所で「政治秩序」「最高国家意志」などの用語を用いるが、このことが逆に過度に史料文言に依拠した、概念のインフレとでもいうべき状況を招いてはいないか。本書に示される「体制」には一部在京勢力の「願望」に近いものも混在しており、しばしば「確立」直後から「不安定化」したり背景となる「輿論」の抽出範囲に偏りが見られるなど、時間的・空間的に本当に「体制」と言えるだけの実態を備えていたのか疑わしい事例が多い。その意味では、「三・二御沙汰書」「簾前評議案十三箇条」などの効力についても評者はやや懐疑的である。

 最後に大きな問題を提起しておきたい。本書が直接明らかにしたのは、第一次長州征伐から実際の開戦に至る政治過程と、その間漸進的に進んだ徳川権力の畿内への移転である。ところがこれらは充分に総括されることなく、「明治維新の政治過程における新たな段階(ステージ)が用意された」(三四六頁)という言葉を残して、記述は終わってしまう。氏は諸処で研究史批判も行っているが、その多くは分析の精度に関するものであり、明治維新全体の分析の一貫として個別実証も行っていた先学とは、どこか議論のレベルがずれているようにも感じられた。同じ分量で内容や考察範囲を絞って分析すれば、「乱暴な」通説が修正されるのはある意味当然である。問題は、個々の批判の果てにいかなる明治維新像を対置させるかであり、この点はやはりきちんと明示すべきではないか。理論偏重への反省や新史料発掘による研究環境の変化は直視すべきだが、細分化の余り議論の枠組み自体も縮小し続けているのだとしたら、これは深刻な問題である。近世や近代にも開かれた、自己完結に陥らない研究をどう構築していくのか。自戒も込めた問題提起としたい。


 以上、本書に対する意義とコメント・感想を述べさせてもらった。もとより評者の誤読・誤解もあるかと思う。また、考察対象や時期の近さゆえ、一般の書評の範疇を越えてやや立ち入った言及をしていることも断っておかなければならない。しかしながら、冒頭でも触れた通り、当該期の政治過程や史料の残存状況は非常に雑多で複雑な様相を呈している。つまり、同じ史料から異なる論旨を導き出したり、共に一次史料に基づきながら正反対の論理を展開することも、可能な時代なのである。そこで、敢えて多くの論点を提示することで、本書を能動的に吟味するための材料を提供しようと考えた次第である。

 評者の論点には、近年の幕末政治史研究の構造それ自体に起因するものも少なくない。これは言い方を変えれば、本書がかかる流れを最も象徴的に体現した、優れて同時代的な研究だということである。その極めて詳細な考察手法は、狭義の史料実証の到達点と共に、図らずもその内包する問題構造をも浮かび上がらせている。氏が展開する政治像は、長州戦争期の政治構造それ自体というよりも、在京勢力が見たその「光景」を描いたものとして高く評価されよう。本書は一つの分水嶺であり、今後研究を進めていく上での一つの指標である。本書を通じて当該期の研究が一層の深まりを見せることを願ってやまない。

 〔附記〕本稿は、日本学術振興会・文部科学省科学研究費補助金(特別研究員奨励費)    による研究成果の一部でもある。
(京都市上京区西船橋町四三一−一〇〇四)


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