湯浅治久『中世東国の地域社会史』
評者:清水 亮
掲載誌:「歴史学研究」826(2007.4)


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 本書は,中世後期の在地領主・地域社会について畿内・東国をフィールドに精力的な研究を行ってきた湯浅治久氏(以下著者とする)が関東の地域博物館で携わった,中世東国の地域社会史研究の果実である。以下,章立てを示しておく(副題略)。

 序章
第一部 東国寺院と地域社会
 第一章 東国の日蓮宗
 第二章 東国寺院の所領と安堵
 附論1 東国寺院資料の伝来 と宝蔵
 附論2 六浦上行寺の成立とその時代
 附論3 史料としての曼荼羅本尊
第二部 東国「郷村」社会の展開
 第三章 室町期東国の荘園公領制と「郷村」社会
 第四章 中世郷村の変貌
 第五章 中世〜近世における葛西御厨の「郷村」の展開
 附論4 お寺が村をまるごと買った話
第三部 地域経済と「都市的な場」
 第六章 鎌倉時代の千葉氏と武蔵国豊島郡千束郷
 第七章 肥前千葉氏に関する基礎的考察
 第八章 東京低地と江戸湾交通
 第九章 中世東国の「都市的な場」と宗教

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 第一部は,日蓮宗寺院を主な検討素材として,東国寺院の具体相や地域社会との関係を追究した論考で構成されている。
 第一部の総論的位置を持つのは,第一章「東国の日蓮宗」である。この論考で指摘された事実は多岐にわたるが,あえて整理すると以下のようになるであろう。
 @東国の日蓮宗諸門流は,京都の門流と密接な関係を持ち続けた。A東国の諸門流が持つ京都とのネットワークは,檀那である東国領主が京都とのつながりを持つ際にも利用された。B東国の諸門流は,関東の水上交通に依存し,その要衝である「都市的な場」に拠点を持ち,発展していく。C「都市的な場」は強固な領主支配を受けない場であり,諸門流の布教はまず「都市的な場」から始められた。この「都市的な場」には天台宗・律宗など他宗の拠点も併存し,日蓮宗の諸門流はこれら他宗とも実際には密接な関係をもって展開した。D郷村における日蓮宗の浸透は,在来の村堂のあり方に規定されたものであった。村堂に関わる百姓と領主双方の受容が得られない限り,郷村一円を日蓮宗のみの信仰圏にすることは困難であった。
 以上のような認識の基礎となり,あるいは認識を展開させた論考が第二章と附論1・2ということになる。附論3は,原本史料の態様から地域社会における日蓮宗信仰のあり方,日蓮宗信仰に基づく人的結合のあり方まで見通した好論である。
 第二部では,東国の中世後期社会の基本的枠組みを「郷村」に求め,その具体相や変遷を追究した論考で構成されている。

 第二部の総論的位置を持つのは,第三章「室町期東国の荘園公領制と「郷村」社会」である。この論考では,@14〜15世紀前半まで東国での荘園公領制は武家政権によって再編されつつも維持されていたこと,A荘園公領制のコアであった「郷村」が,15〜16世紀にかけて台頭した村の侍に代表される地域の人的結合の基盤となり,地域社会のコアとしての性格を持つに至ったことが,文書・記録・金石文・地名など多様な史料を駆使することで明らかにされている。
 第四章では,中世「郷村」の変化を跡づけ,東国における村落結合の自立性を浮き彫りにしている。第五章では,葛西御厨における神宮支配の残存を指摘する点,室町期東国における荘園公領制の展開を説く第三章での主張と通じたものを感じる。附論4は,東国における「指出」を析出し,寺社本所領と武家領との質的共通性を見いだしている。

 第三部は,東国における為替・替米などの流通システムと,それらが運用される場である東国の「都市的な場」の実態を追究した論考で構成されている。
 第六章では,東国における為替・替米などの流通システムの存在を鎌倉期まで押し上げた近年の研究成果を踏まえ,「幕府という都市中枢の権力機構の消費を支える財の運用形態」やそれと密接に関わる「御家人経済の実態追究」の必要性を提唱する(299頁)。そして,東国の「都市的な場」を媒介とした幕府直轄領での年貢請負の実態が検討される。
 そして,「御家人経済の実態追究」を東国御家人千葉氏を素材として行い,東国御家人による広域的な財の連用の実態に迫ったのが第七章である。
 第八章・第九章では,南関東をフィールドとして,江戸湾交通に立脚した「都市的な場」を次々と発掘していく。そして,「都市的な場」が顕著な動きをみせる時期を「おおむね十四・十五世紀」(394頁)であったとする。「都市的な場」が成立する背景には,領主の縁に連なる宗教者と宿の有徳人との結合があったことを浮き彫りにし,領主・宗教者・住人(有徳人)三者の動向から「都市的な場」の成立事情を明らかにしている。

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 周知のように,中世東国の地域史研究には文献史料の絶対的な不足という壁がたちはだかっていた。しかし,近年の当該研究分野は,古代・近世・近代史料やこれらの時代における東国の地域史研究,考古学,文学の成果などに広く目配りすることで史料的な制約を克服し,地域の実態を浮き彫りにすることに成功しつつある。本書は,このような方法を存分に駆使した中世東国地域史の最先端の成果といえる。本書によって得られた成果は多岐にわたる。評者なりに整理して,その成果・意義を述べていきたい。

@【「村の侍」・百姓の動向の具体化】
 本書の大きな成果の一つとしてまずあげられるのが,少ない史料の読み込みによって東国の村における侍層・百姓の自立性を抽出しその実態に迫ったことである(第三章・第四章・附論4)。中世後期における在地領主(および郷村を知行する宗教領主)が「郷村」の構成員である侍層・百姓から支配の合意を得ることで所領を維持し,あるいは教線を拡大できたことを明確にしている。史料的制約の壁を乗り越え,「領主支配の枠組みから相対的に自立した村落の動向」(129頁)を見いだすことに成功しているのである。

A【東国における「指出」の析出】
 @の点と関連して,14世紀末から15世紀における東国の武家領において,領主と村落との間で支配の合意の回路として機能する「指出」が存在したことを指摘したこと(附論4)も大きな成果である。著者は,前著『中世後期の地域と在地領主』(吉川弘文館,2002)で畿内の武家領が寺社本所領と共通する支配構造を有していたこと,領主が所領内諸勢力から支配の合意を得る回路として「指出」を徴収していたことを明確にしている。前著での営為によって著者が獲得した「武家領と寺社本所領との共通性」という視座が,東国を検討対象とした本書でも大いに活かされているのである。
 著者の作業に学ぶことによって,今後,武家領における「指出」のさらなる検出,そしてそれから導き出される領主−百姓関係の具体相がより豊かに描き出されることが期待されよう。たとえば,武家文書に残された検注帳・地検目録・年貢注文などを「指出」と関連づけて論じた成果は少ないが,今後これらの史料群を「指出」もしくはその加工台帳として位置づけることが可能になることが予想される。

B【東国御家人の持つネットワークのあり方とその変質をめぐる成果】
 本書では,鎌倉期の千葉氏を題材として,鎌倉期の東国御家人が,全国に散在する所領を経営するための多様なネットワークを持っていたことが明らかにされた(第七章)。東国御家人が借上に依存した所領経営を行っていたこと,東国での家政運営に西国御家人出身者(千葉氏の場合は肥前高木氏)を登用していたことなど,中山法華経寺文書(「日蓮遺文紙背文書」)を駆使して,その具体相を浮き彫りにしていく。また,幕府直轄領での御家人による年貢請負の実態にメスが入れられたこと(第六章)も注目に値する。
 御家人と金融業者との癒着関係については著者の研究以前から着目されてきたが,九州から東国にわたる広域的な財の運用に借上の資力が投入される具体相は,おそらく著者によってはじめて明確にされたといってよい。
 そして,第一章・第二章で提示された論点も,第七章で詳論された鎌倉期御家人の所領経営の変質と深く関わっている。第一章・第二章では,南北朝期以降,東国の地域寺院が京都と恒常的な交流を持っており,東国在地領主も寺院の持つネットワークに依存して京都との関係を維持していたことが指摘されている。この事態は,鎌倉期に東国御家人(在地領主)の広域的な所領経営を支えるネットワークが破壊された事態に対応していると評価できるであろう。
 なお,著者は,本著の上梓直後,鎌倉期御家人の所領経営を支えた広域的経済システム=「御家人経済」が南北朝内乱の過程で解体し,その後に地域経済圏がその姿を明確に現すという流れを提示している(「「御家人経済」の展開と地域経済圏の成立」〈『交流・物流・越境 中世都市研究11』新人物往来社,2005〉)。

C【室町期荘園制論との関連】
 第三章では,14〜15世紀前半まで東国での荘園公領制は武家政権によって再編されつつも維持されたことが明確にされている。第三章は,「共同研究室町期荘園制の研究」(『国立歴史民俗博物館研究報告』104,2003)に掲載された論文であり,この共同研究での成果によって,東国における荘園制の解体を南北朝期に求める必然性は失われたといってよいであろう。ただし,室町期荘園制を認める立場に立った場合,その内実の具体相,戦国期との連続面・断絶面が問われることになる。この点については,改めて述べていきたい。

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 この節では,本書から導き出せる疑問点や,今後の課題となる論点を提示していきたい。

@【「郷村」の変質をめぐって】
 著者は,「郷村」に荘園公領制のコアとしての位置づけをまず与える。そして,この「郷村」の中から,領主権力とは距離を置いた村の桔衆的世界や「村の侍」の存在が顕著になり,15〜16世紀にかけて,個々の「郷村」は地域社会のコアとして位置づけ直される,とする。
 如上の流れについて異論はない。しかし,「郷村」が住民の結合基盤としての性格を具備し,地域社会のコアとなる本質的な要因については十分に検討されているとはいえない。その理由としては,著者の関心が「郷村」の内在的変化の追究にあることがあげられるのではないか。
 むろん,「郷村」の内在的変化を明らかにすること自体は有意義である。しかし,「郷村」の性格変化の要因については,東国における政治・経済・環境など外在的な要因も視野に入れた総合的な説明がほしかった。なぜなら,「郷村」の内実が変化する時期は,(土地制度としての)室町期荘園制の解体を導く15世紀東国内乱と重なっているからである。制度の解体が地域構造の変化に直結するとは無論いえないが,内乱と「郷村」社会との関連は,あらためて考えてみるべき問題であろう。

A【武蔵国千束郷の性格をめぐって】
 武蔵国千束郷の性格については,第六章で詳しく論じられている。そこで主張されたことを列挙してみよう。@「日蓮遺文紙背文書」の長専(千葉氏の文筆官僚)書状に現れる千束郷は豊島郡内に所在し,関東祈祷所と思われる浅草寺と江戸氏が共存する郷であった。Aそして千束郷地頭職自体は千葉氏もしくは鎌倉幕府直轄領であり,内部の個々の村を浅草寺・江戸氏が知行し,幕府への年貢は千葉氏が請け負っていた。B千束郷は内部に石浜・今津などの交通の要衝を多く抱え,そこに集まる富によって浅草寺・江戸氏は領主支配を行っていた。Cこのような千束郷の性格ゆえ,この郷には千葉氏や幕府の手が伸びてきた。
 この千束郷が豊島郡内に所在し,千葉氏と関係の深い郷であったこと自体は,著者が述べるとおり,中世後期の豊島郡千束郷と千葉氏の関係の深さから首肯できる。そして,千束郷が「都市的な場」=町場を多く含むがゆえに,千葉氏の関心の的となったことも理解できる。著者も想定するように,千葉氏による千束郷の年貢請負は,千葉氏が早くから千束郷や清久など武蔵国の各所に勢力をのばしていたことに由来するのであろう。
 しかし,千束郷が「都市的な場」を多く含むゆえに鎌倉幕府の手がのび,その直轄領となったという説明やもう一つの可能性として提出された,千葉氏を千束郷の地頭とみる見解はやや説得力を欠くように思われる。
 確かに浅草寺は関東祈祷所の可能性が高く,それゆえ,その膝下であり「都市的な場」を多く含む千束郷は関東御領(鎌倉幕府直轄領)に指定されていた,という論法は一見成り立つように思われる。しかし,鎌倉期においては,武蔵国自体が関東知行国であり,国衙領自体が幕府直轄領であったことは周知のことである。千束郷内に関東祈祷所浅草寺が所在するか否かにかかわらず,千束郷は幕府直轄領とみて不自然でない。幕府の権益は地頭職というより,むしろ知行国主に該当するとみるべきである。したがって,その年貢請負を御家人が行っていても不思議はない。
 また,近年の研究では,鎌倉期の町場は,複数の領主が関与しうる,ある意味,開放的な性格を持っていたことが指摘されており(田中大喜「南北朝期在地領主論構築の試み」〈『歴史評論』674,2006〉),評者はこの理解に与する。したがって,江戸氏・浅草寺・千葉氏などの諸勢力が,千束郷内に簇生する町場に権益を持っていても不自然はないと考える。江戸氏による郷レヴェルの確実な領有が見えないのは事実であるが,だからといって,即座に千束郷の地頭を幕府ないし千葉氏に比定することはできないのではないか。

B【「都市的な場」の性格変化をめぐって】
 さきにもふれたように,著者は東国の「都市的な場」が顕著な動きをみせる時期を14〜15世紀とみている。この時期は,幕府・鎌倉府によって東国の荘園公領制が再編される時期に一致している。著者は鎌倉期の要衝についても「都市的な場」という用語を使用しており(305頁),「都市的な場」の存在を鎌倉期から室町期まで認めていると思われる。とすると,14〜15世紀という時期は,「都市的な場」の成立期ではなく変質期であり,それは東国における荘園公領制の再編(室町期荘園制の形成)と連動している可能性が高い。
 このことは著者も意識しているように思われるが(394頁),だとすれば,鎌倉期の「都市的な場」と室町期のそれとでは,何がどのように異なるのか,より突っ込んだ説明のほしいところであった。この点,複数の領主が集住あるいは関与できる鎌倉期の町場が,南北朝内乱を経て一つの領主に掌握される過程を見て取る田中論文(前掲)や,御家人経済の解体後に地域経済圏の成立をみる著者自身の新稿との接点を見いだしうるように思われる。今後の課題となる論点であろう。

 以上,本書の内容・意義・問題点について評者なりの紹介・評価を行ってきた。本書の豊穣な内容にどこまで迫り得たか,率直に言って自信がない。特に,日蓮宗に関する言及がほとんどできなかったことは評者の力不足に原因がある。また,誤読や不適切な評価があることをおそれている。原稿の提出が大幅に遅れたこととあわせ,著者ならびに各位にお詫び申し上げたい。


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