松浦利隆著『在来技術改良の支えた近代化 富岡製糸場のパラドックスを超えて』
評者:根岸 秀行
掲載誌:「日本歴史」719(2008.4)


 群馬県の絹業(養蚕・製糸・織物)については第二次大戦前からの深い研究史的蓄積があり、資本主義発達史から制度史まで、様々な問題関心に基づいて生産・流通・政策・技術など多岐にわたる分析がなされてきた。松浦利隆氏の博士論文をまとめた本書は技術史的研究の系譜に属するが、「近代化遺産総合調査」など、群馬の地域研究に関わってきた著者の研究歴を反映し、地域からの視座への強いこだわりを感じる。
 著者の問題関心は、副題の「パラドックス」=逆説に象徴される。巨大な富岡製糸揚が設置された群馬県に、その「近代技術の器械製糸が根付かず、かえって在来技術の座繰製糸を近代化した組合製糸が発達してしまった」(序章)のは何故か? 群馬の近代化にとって在来産業・在来技術はどのような意味をもったのか? 本書はこの問いかけに対し、幕末から明治期の絹業三部門(養蚕−製糸−織物)それぞれについて究明し、産業近代化の意味をとらえ直そうとする。構成は、概略次のとおりである。

 序 章 はじめに
 第一部 養蚕業
  第一章 近代化の中の在来農業技術−船津伝次平「桑苗簾伏法」に関する一考察−
  第二章 「近代養蚕農家」の発生
  第三章 創成期の養蚕改良結社「高山社」−清温育の成立を中心として−
 第二部 製糸業
  第一章 上州座繰器の発生
  第二章 上州座繰器の改良
  第三章 二つの製糸工場−富岡製糸場と碓氷社−
 第三部 織物業
  第一章 開港をめぐる桐生新町の動静
  第二章 明治前期の桐生織物「近代化」
 終 章

 明治期の群馬の絹業関係者は、在来技術を改良することを通じて、横浜開港を契機とする環境変化に敏感に対応した。蚕種・生糸輸出の増加によって桑葉や原料繭が不足すると、桑作では、船津伝次平が在来の手法を発展させた簾伏法を考案して、廃棄されていた桑枝の再利用を図った。養蚕では、輸出蚕種用の繭のためにまず田島弥平の清涼育が生まれたが、輸出の中心が本糸用の繭に転換されると、高山社の清温育が登場した。また、通気性の良い養蚕用家屋=蚕屋も生まれ、養蚕法の変化に応じてこれにさらなる改良と運用の工夫が施された〔第一部〕。
 生糸の製糸法では起源を近世期にもつが、本糸生産用としては未完の技術であった在来の上州座繰器が、明治以降、ケンネル式撚り掛け装置などの近代技術を導入して改良され、座繰結社によって本糸生産に用いられた。これに対し、官が設立した富岡製糸場の近代技術・工場制度は、当時の環境から著しく乖離していたために失敗した〔第二部〕。
 絹織業において、幕末の桐生新町の社会変動への対応を通じて、織物関係者つまり「民間」は、幕藩統制が世界経済のダイナミズムの前に無力化したことを実感した。このため彼らは「当面…その時期の現実の生産の改善」として輸入綿糸やロール機、化学染料などの近代技術を導入し、これによる製品開発と生産拡大を図ることとなった〔第三部〕。
 つまり群馬の絹業関係者は、その時々の環境変化に対応してまず在来技術を活用し、その改良・発展の手段として随時、近代技術を導入した。これが群馬における近代化の実相であり、これは近代技術と工場制を組み合わせたタイプとは異なる近代化の道筋を指し示している。

 本書の要約はほぼ以上のとおりであるが、次に本書に関する若干の私見を述べる。著者のいうパラドックスの象徴である富岡製糸場は、一国全体としては器械製糸のハード・ソフト技術とともに、大工場経営管理システムの移転に貢献した(清川幸彦氏)。だからこの試みが「失敗」であったとは言えない。ただしこれは一国レベルの総括であり、地域レベルの視角からは、確かに著者のいう「パラドックス」が問題として残り得る。
 ただし、著者のこの問題関心の前提には、富岡製糸場が設立された群馬県ではその近代的技術=器械製糸がいち早く定着して当然であった、との認識があるようだ。しかし、そもそも同時代の日本において、富岡製糸場型の器械製糸大経営がそのまま定着する可能性は乏しかった。
 日本資本主義化の「チャンピオン」(矢木明夫氏)とされる信州諏訪製糸業を支えたのは簡便な器械製糸技術であった。この簡便とは近代的器械技術と在来座繰技術との折衷を意味し、その改良ポイントは接緒や撚り掛けにある。この点において、群馬と信州の差異は小さい。両地域の重要な相違はそれら改良繰糸器の運用手法、すなわち(A)単体で家内で用いるか、(B)連結して集中作業場で用いるか、にある。そして(A)の典型が、小農経営を母体とした座繰製糸結社を展開させた群馬であった。
 とすると問題となるのはむしろ、工場経営選択の有無とその理由ということになる。その場合にはさらに、(A)のいま一つの典型である、福島の賃挽き製糸と群馬の組合製糸との相違という古くからのテーマが問題となろう。

 また、官民の二項対立的なとらえ方にも疑問が残る。たとえば第三部において、著者は桐生機業に対する「官」の上からの保護と奨励が無策であるとし、「民間」による言わば漸進的革新を強調する。しかし近年の制度史的研究では、織物講習所の設置や座繰結社の商標保護など、「官」が群馬絹業の在来型発展にもたらした効果が指摘されている。

 しかし本書の特長は、何よりも斬新な手法を用いた強い実証性にあり、その価値は先に指摘した瑕疵をはるかに上回る。著者は既知の活字資料について、たんなる再解釈に止まらずその根本資料にまで肉薄する。また、様々な絵や写真とともに、博物館等に収蔵されたまま十分活用され得なかった座繰器などの現物から、産業考古学の手法による仔細な観察と実際の操作を通じて新たな情報を引き出そうとする。
 たとえば、評者を含む多くの研究者が依拠してきた『群馬県蚕糸業沿革調書』所載の座繰器の沿革調査記録について、著者は当時の調査対象者であった矢島屯次郎家に残る当時の提出書類の記載内容と『調書』との齟齬を突き止め、座繰器および左手座繰の出現期をより後ろに繰り下げるべきとする。さらに、博物館や資料館に現存する現物=座繰器の側面にある焼き印に注目し、そこに表われた代表的製造業者の所在地を訪れて墓誌や神社奉納額を観察し、彼らの「発明」が一八五〇〜六〇年代であったことを明らかにする。
 そしてこうして得た新たな知見に基づいて、明治期群馬の座繰製糸結社が依拠する座繰技術は幕末段階でまだ確立した技術ではなく、比較的若かったこの技術が幕末開港以降の過程で近代技術を取り入れてしだいに改良されていったと指摘する。このトーンは織物業における論述でも繰り返されるが、これは近代化・工業化がイコール工場化ではないことを示しており、この点において制度史的研究にたつ論者(橋野知子氏)とも通底する。
 著者はまた、明治前期の座繰器改良の際に絡交器(巻き取られる生糸が固着しないよう綾をかける装置)を動かすための「山路」が磁器製となったのは、「山路」が比較的低い位置にあって生糸からの水分が付きやすく、木製では腐りやすかったためとする。これも、現存する座繰器を仔細に比較観察することによってしか得られない知見である。
 評者も蚕糸業地の博物館に所蔵された蚕糸器具をチェックし、またわずかに残る座繰繰糸の現場をめぐった体験をもつが、これはあくまで形状の大まかな比較にとどまり、自らそれら器具の動作を確認することは果たせなかった。著者は実際にそれを行い、文書資料の内容とつき合せることで、新たな知見を引き出した。つまり著者は、産業考古学的手法を用いることによって、これまで誰もが目にしながら有効に生かしてきたとは言い難かった現物、つまり博物館等に収蔵された器具の群れを「資料化」し、また既知の文書資料を言わば「再資料化」し、歴史の証人とすることに成功したのである。

 なお、著者は長らく、富岡製糸場の世界文化遺産登録に向けた活動の先頭に立ってきたが、奇しくも本書の刊行と同じ二〇〇六年、文化庁は「富岡製糸場と絹産業遺産群」(群馬県)の推薦候補リスト登載を決定した。
(ねぎし・ひでゆき 富山大学教授)


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