黒石陽子著『近松以後の人形浄瑠璃』
評者:崔 官
掲載誌:「日本歴史」721(2008.6)


 元禄期、散文・韻文・演劇の三分野で三人の大作家が活躍し、一時代を築いた。周知のとおり、浮世草子の井原西鶴(一六四二−九三)、俳諧の松尾芭蕉(一六四四−九四)、そして人形浄瑠璃・歌舞伎の近松門左衛門(一六五三−一七二四)である。西鶴・芭蕉・近松という元禄三大作家は自らの分野で、以前とは異なる新しい次元の作品世界を作り出した。町人の欲望や世態を写実的に描いたり、求道者的な姿勢で人間と自然との関わりを詠んだり、新生庶民劇の枠に人間味を持つ人物による感動を込めるなど、文化史上における近世的性格を確立し、後代に大きな影響を及ぼしてきた。また、今日では一番日本的な特性を持っているとも評価されているように思われる。
 ところが、その三大作家が頂点を為した後はどうなっていたのか。三大作家が築き上げた作品世界はそのまま受け継がれていったのではなく、かといって一時期に閉ざされた独自の世界で終わったのでもなく、近世社会の変化のなかで各々別の道を歩みながら今日に至っているといえよう。

 本書は、そのうち、最も長く生きた近松に焦点を当て、今日の我々と近松とを連結しようとする、大きな作業の一段階をまとめたものである。その一環として、「近松以後の人形浄瑠璃」という書名から分かるように、天和三(一六八三)年『世継曾我』から寛政十一(一七九九)年『絵本太功記』までの約一二〇年間について、主に江戸中心の化政文化が現れる以前の人形浄瑠璃(時代物作品)の展開様相を追求している。
 方法論的には、先行作品との相違を明確にすることによって、一つの流れの上で各作品の位置づけや特色をとらえている。このような考察により、これまでの重要な作家中心の一代記的な研究では解明できなかった、作品間の有機的な関連構造が明らかになったと評価できよう。さらに、著者は、伝統芸能の世界を正確に読み解くためには、あくまでも近世人の視点に立ち戻って読み直すことが基本になると強調し、客観的に物事を極めようとする堅実な態度を堅持している。このような立場から、とくに初演の記録を重視し、作者の作劇法の究明に重点が置かれている。

 本書の構成は、第一章「近松門左衛門の作劇法」、第二章「近松没後の竹本座と豊竹座の作劇法」、第三章「文耕堂の作劇法」、第四章「最盛期浄瑠璃の作劇法」、第五章「近松半二とその後の展開」であり、その分析は主として作劇法に置かれている。そして、あたかも時代物の五段構成のような五章構成で、近松からその後の時代物の展開を時代に沿ってまとめている。研究対象となっている主人公は、曾我兄弟・景清・木曾義仲・源義経・天竺徳兵衛などのように、伝説化された歴史上の人物である。これらの人物は史実の世界だけに留まるのではなく、文芸化され、各時代の文化コンテクストの中で再解釈されてきた象徴的な存在である。
 このように、日本文芸の中で絶えず語り継がれてきた代表的な人物が、人形浄瑠璃でどのように脚色されていくのかを体系的に考察し、場合によっては史実とも比較している。同時代の観客との呼吸や共感を得ることが重要視された人形浄瑠璃の特性から、先行作品を踏まえながらも時代状況に相応しい新しい作品構成や人物像が創出されると同時に、そこには近世社会の価値観や想像力などが込められていると主張している。このような観点から、源平争乱が生んだ文学上の英雄である源義経・木曾義仲・景清、また仇討ちの代名詞である曾我物、そして忠臣蔵が取り上げられている。
 さらに中国人の父と日本人の母から生まれた有名な国姓爺鄭成功、朝鮮武将の子である異国帰りの天竺徳兵衛、怨恨に満ちた朝鮮からの謀反人である木曾(モクソ)官といった異国情緒溢れる人物も時代物の中心人物として再誕生しているのである。
 もとより、文学化された歴史的な人物は歴史と文学の両面の性格を兼備している場合が多い。たとえば、歴史が世の表の記録であり、事実や現実性に比重が置かれているというなら、文学は世の裏の記録であり、時代の願望や想像力の産物であるといえる。つまり、時代物とは、この両面から成り立っているといえよう。そして、その人物は重ねて文学化される過程を経て、次第に時代状況の中で文学的な性格が濃い人物像として造形されることになる。一七世紀から一八世紀にかけて脚色された時代物の重要人物も、近世庶民社会の願望や想像力によるものである。
 このような観点から、丹念に先行作品との相互比較を行い、作者の歴史解釈と文学との関わりについての究明を重視した本書の叙述態度は高く評価できるし、劇文学研究における領域を切り開いたとも思われる。

 本書を読んでいるうちに触発されたことを願望を込めて述べるならば、時代物での歴史的人物は、大雑把にいうと、源義経のような国内的英雄と木曾官・鄭成功のような異民族の二つに分類できるが、そこには国内外の区別以上の特色があるのではないか、ということである。
 源義経とは異なり、壬辰倭乱(文禄・慶長の役)が生んだ朝鮮武将である木曾官(晋州牧使金時敏)、反清復明の英雄である国姓爺(鄭成功)はどのようなイメージで人形浄瑠璃において変容されているのか。そして、そのような人物への関心は、近世日本社会の理解ばかりではなく、東アジアでの歴史と文学の側面からとらえる道とも繋がり、ひいてはグローバル時代における伝統芸能の外延とも関わるだろう。このような側面についての研究地平の拡張という点においても、著者が先頭に立って導いていくことを期待している。

 最後に、日本の古典世界には日本文化の独自性とともに人類文化に広がる人間の普遍性も存在する。古典は、過ぎ去った過去には完全に戻れない、現在を生きている人間の前に置かれているものであり、それは異国人も楽しめる物でなければならないという前提から考えると、二一世紀における古典は一種の権威ある世界ではなく、誰でも自由な読みや解釈により意味を引き出すことのできる読み物である。ここに古典の現在性があるといえよう。このような認識を基盤にしてこそ、古典作品を正確に解読することによって、古典芸能を正しく理解し、鑑賞することができる、という著者の望みは叶えられるだろう。

(チエ・グァン 高麗大学校日語日文学科教授・日本学研究センター長)


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