本康宏史著『からくり師 大野弁吉とその時代』
評者:廣瀬幸雄
掲載誌:「富山新聞」2008.3.9


 「古きを尋ねて新しきを知る」は、いつの時代にも適用する言葉である。文化や技術が進歩する根源は、過去の文化や技術を基盤として創造される。
 加賀藩は、幕府体制の文化・経済・流通等に大いなる役割を果たしてきたが、藩内の教育にも力を注ぎ藩校の明倫堂を開設し、和算・天文・地理・航海等の教育を行い多くの開明的な藩士を育成している。
 このような地域文化にあって、「加賀の平賀源内」と称された「大野弁吉」(一八○一−七○、本名中村屋弁吉)が活躍した。大野姓は、三十歳から居住した石川郡大野湊に由来する。この時代は、西洋文化を貪欲に吸収して、近代日本を形作った大転換の時期であり、各地で新技術の先駆けとなった「からくり師」(技術者)が、活躍している。弁吉は、後に東芝を興した久留米の田中久重(一七九九一一八八一)とほば同時代を生きた。
 弁吉の作品・遺品には、各種のからくり細工や機械加工が知られ、その技術は木工・金工・絵画・蒔絵・焼物・花火など様々なジャンルに及んでいる。これらを集成したものとして、主著の「一東視窮録(いっとうしきゅうろく)」がある。
 「一東視窮録」は、@舎密(せいみ)術(化学)A科学器具 B医術 C伝統技術に分類され合計四百二十三項目及び図解五十二図が記述され、百科事典の形式となっている。この中には、「茶運(ちゃはこび)人形」・「からくり三番叟(さんばそう)」や当時の先端技術であるエレキテルと時計の図解が記述されている。
 弁吉の科学的知識や技術実行力は、多くの弟子により多方面にわたり伝統的技術や地域産業の発展の基盤として、随所に活かされており新しい技術の開発及び創造に寄与している。
 著者は、長年にわたり各地に保存されてきた文献を発掘し、技術文化と地域社会の関連性を詳細に研究して、由来を明確にし、体系化した。
 科学史研究に大きな功績を与える貴重な資料に、深く敬意を表するものである。
                      (金沢学院大知的戦略本部長・教授)


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