小林茂文著『天皇制創出期のイデオロギー−女帝物語論』
評 者:長谷部 将司
掲載誌:「民衆史研究」24(2008.12)


   は じ め に
 
 本書は、かつて『周縁の古代史王権と性・子供・境界』(有精堂出版、一九九四年)を著わすなど、主に社会史的な視点から古代史の研究を進められてきた小林茂文氏による、七・八世紀における天皇の権力の源泉について考察した論文集である。一部既発表の論考もあるが、大半は本書のために書き下ろされたものであり、また「二〇〇一年頃から三年間ほどでまとめた論考が本書の内容である」(三八九頁)と述べるように、一貫した問題意識による、実質的には書き下ろしに近い論文集といえる。
 なお、本書の表題から受ける印象は前著の問題関心からかなり遠いようにも感じられるが、「民衆史研究などの方向性に誤りがあるのではなく、史料解釈の方法論=認識論の欠如によると思われる」(三八九頁)と吐露しているように、前著における問題関心を、方法論を替えることで改めて論じ直したものと位置づけられる。
 
    一 本書の概要

 さて、本書の構成は以下の通りである。
 
序章 歴史叙述と事実の審判−物語論による歴史の実践−
第T部 天皇制イデオロギーの創出
 第一章 郊外の誕生と王権祭祀−宮の大王、京の天皇−
 第二章 吉野行幸と大地の記憶−行幸による王権支配−
 第三章 天と日と地の相克−天皇制神話物語の成立−
第U部 即位イデオロギーの変容
 第一章 持続天皇称別物語−女帝をめぐる言説−
  補論 文武天皇即位事情
 第二章 遺詔と皇嗣決定−七世紀の天皇−
 第三章 宣命にみる即位イデオロギーの変容−八世紀前半の天皇制−
 第四章 孝謙太上天皇の権力
 第五章 道鏡即位物語と天皇制の変容−正義は我にあり−
あとがき

 序章では、本書の方法論として構築主義を採用することを宣言する。著者は構築主義における認識論の積極的な意義を、自らの位相を絶えず懐疑することで他者へ開かれる回路を確保できる機制となる点に求める。その上で、正史の場合、テキストの矛盾や裂け目にこそ事実への接近するための可能性が開かれているとして、そこに国家の物語と鬩ぎ合いながら語られる反・非・無国家の物語が存在する可能性を見出す。そして、その別なる物語をあぶり出すためには正史が語る文脈を把撞した上で、その文脈を分断する出来事の記述とその発掘を意図的に計る必要があると指摘する。その際、史料の解釈が正当性を得るための判断基準は合理性であるとして、因果関係説明の合理性を他の文脈との整合性に求めるとともに、責任応答の必要性を訴える。
 第T部第一章では、七世紀における祈雨祭祀の変遷から天皇権力の変容を探る。皇極天皇による祈雨祭祀は宮の外の聖なる神奈備で挙行されたように、その儀礼空間は露出しており、その行動は衆目にさらされ、天下百姓は天皇の能力を批評できた。だが、そのような祭祀形態は持統朝の藤原京遷都に前後して姿を消し、以後の祈雨祭祀において民衆の参加は見られなくなる。著者はそこに、壬申の乱後の天皇の現神化を経た、都城成立期における天皇と民衆との関係の質的変化を見出す。天下統治が外へ向かう起点であった宮の時代は、祭祀・儀礼の場は参加する民衆や為政者と神々との政治をめぐる記憶の場であったが、天皇の居所が天下そのものを表象する都城の時代は、儀礼・祭祀の場は民衆の参加を遮断しており、天皇権力が宮の空間の中にあって見えなくなると指摘する。
 第T部第二章(前章の後半から)では、吉野という土地が有する「記憶」に着目し、持続天皇による吉野行幸の背景を探る。持続朝以前の吉野には、神仙境、道教思想、反乱の地、吉野盟約などの記憶の刻印がうかがえる。その上で著者は、持統は天皇による支配の正統性を物語る神話づくりのために、ヤマトを表象するアキヅの所在地を吉野に変更させ、さらに自ら頻繁に当地に行幸することでその記憶を定着させたと捉える。また、行幸の目的は官人層と天皇の支配関係の一体性の形成のみならず、むしろ天皇と民衆との関係を通じて民衆を国家に編入する「国民国家」形成にあるとする。そして、持続朝以後の行幸において叙位・大赦・賜物・免課役・賑給などが行われる点より、行幸が天皇の聖徳性を民衆に可視化させる表象として認識されたことを指摘する。さらに、民衆が見るのはあくまで車駕であることから、行幸が可視化するに伴い天皇は不可視の存在へと変質したと捉える。なお、地名起源説話を有する行幸説話は大地の支配をめぐる国家統一の物語であるが、『風土記』地名起源説話に「訛」として別なる地名が記きれる点に、民衆が伝えた土地創成の始原伝承の存在を見出す。
 第T部第三章では、「天と地」が表象する統治思想と「天と日」が表象する皇位継承原理の相克が天皇制イデオロギーを規定するとして、『古事記』『日本書紀』における神話の構造を検討する。著者は『日本書紀』の本文のみならず一書も含めた世界観形成の必要性、及び一元化を放棄することで豊かな王権像が得られることを指摘し、このような思想装置の融通無碍の流動化が王権を継続させたと考える。天皇の資格は、『古事記』では高天原思想を背景に、天神のヨサシにより天降った日の御子、天神御子であるのに対して、『日本書紀』では皇祖との繋がり、つまり日嗣であることが重視され、その皇孫の皇位は天神により天壌無窮を保証されると結論づける。そして、このような両書の内容の相違を、日嗣の系譜にない持続天皇や元明天皇の地位を保証するための『古事記』と、文武天皇や聖武天皇の地位を保証するための『日本書紀』という、両書の性格の違いに求める。
 第U部第一章では、『日本書紀』持続天皇即位前紀所載の即日称制記事を再検討し、持続の権力確立の過程を明らかにする。著者は、そもそも●野(持続)の輔政自体が天武の即位直後からではなく、草壁皇子の立太子以降にその後見役として開始され、天武の病気悪化を背景としてその勅により本格化すると指摘する。持続の権能はあくまで天武の権威を前提として発揮されるにすぎず、その死後は自力でその権能を獲得する必要が生じた。そのため、持続は殯宮儀礼の政治的な利用、すなわち殯宮にて天武を生きるが如く扱うことによる政治的空白の消滅と、殯を利用した自派官人勢力の形成により自らの権力を確立させ、殯の終了後に称制に踏み切ったと捉える。また、即日称制の物語として再構成された持続即位前紀は、以後天武の勅による持続への政権委譲の正統性を補強し、王権の支配原理を支える物語として機能したと結論づける。なお、補論では持続朝における賜姓・叙位・任官記事より、軽皇子を支える官人層が形成きれていく過程をあとづける。
 第U部第二章では、七世紀の遺詔を検討することで、天皇制の支配イデオロギーの正統性の変遷を導き出す。舒明天皇の即位に際して推古天皇の遺詔が重要な役割を果たすが、著者は推古には皇嗣決定権がなかったこと、つまり推古の遺詔には皇嗣を決定する際の決定打になり得なかったことを指摘する。そして、七世紀段階までは群臣が推戴権を保持していたが、七世紀後半の天武天皇即位以降は天皇の意向が優先され、『日本書紀』成立時には群臣の推戴自体が排除きれたとする。その結果、大海人に後事を託したとされる天智天皇の遺詔は、その実在性は別として、遺詔が万能になった文武朝以降の認識では天武系の天皇が即位するための唯一の正当性として捉えられ、聖武の即位実現にむけての正当性を保証する「不改常典」として定着すると結論づける。
 第U部第三章(前章の後半から)では、八世紀における即位宣命の検討より支配イデオロギーの正当性の変遷を読み取る。文武天皇や元明天皇の即位宣命からは、神話的な皇統の連続性にない新天皇が前天皇の委嘱によってのみその正当性が得られるという共通の構造が確認でき、それが一旦天皇になると高天原思想に同化し治天下を支える正当性を賦与されるとして、著者はここに天皇制を支える柔構造の特色を見出す。さらに、聖武天皇の即位宣命も、「不改常典」や元正の正統性を強調し天智や草壁につながることで、藤原氏の血統の表面化を回避させたと捉える。このように、天皇の即位の正当性の論理は即位事情に合わせて変化するが、ここで先帝の意志による即位が当然のこととなり、日嗣思想を後退させたことで、別のイデオロギーが入り込む可能性をもたらしたと結論づける。
 第U部第四章では、皇嗣決定に決定的な影響力を有する太上天皇の権能について、聖武太上天皇と孝謙太上天皇および光明皇太后という三者の関係から考察を進める。聖武は「不改常典」のみで即位し日嗣思想に対する意識は希薄であったが、孝謙も同様であるとして、著者はここに神話的確威が消滅し、代わりに仏教思想が見られるようになるなど、天皇制イデオロギーの変質がうかがえるとする。皇位継承に関する権能は聖武の生前は一貫して聖武の元にあったが、その死後、淳仁天皇の即位後に光明子が聖武の遺詔を持ち出し、自らに皇位継承に関する権能があることを主張した。その結果、詔の真偽はともかくその言説が受け入れられ、孝謙と合わせて二人の太上天皇が存在するような状況となったため、孝謙としては光明子の死後にようやくその権能の獲得が可能になつたと捉える。
 第U部第五章では、宇佐八幡神託事件の前後の宣命より、道鏡即位の可能性を指摘する。称徳天皇の天皇観の拠り所は聖武であり、即位にあたり日嗣思想を必要とせず、絶対的な価値判断が天皇の意志にあると確信していた。その意志により称徳は仏教思想に一層傾斜し、和気王事件や道鏡の法王就任などを通じて、道鏡の即位を可能とする即位の正当イデオロギーを創作しょうとしたと著者は指摘する。そして、宇佐八幡神託事件の評価については、たとえ天皇の即位に日嗣思想は不可欠な条件でなくなっていても、皇緒でない人物の即位は困難であったことが露呈したために道鏡の即位は一皮頓挫したが、称徳は最後まで道鏡の即位をあきらめなかったと指摘する。なお、杯徳死後の光仁天皇の即位については、道鏡即位のために用意された論理が仏を神祇に代えるのみで引き継がれたと捉える。
 最後に著者は、天皇制とは自らを正義と主張することで天皇が中心にいる制度、つまり天皇位を嗣いだ者に日嗣の正統性を賦与し、その正当性によって維持・継続している制度と結論づける。そして、その天皇制の一齣でもある七・人世紀の女帝は、太上天皇となって天皇家の尊重として天皇を後見すべき、天皇制を維持するための存在であり、日嗣にない女帝は即位を正当化するためにそのイデオロギーを創造・変容させたと結論づける。

    二 「天皇制の柔構造」

 近年、平安京を起点とした都市王権の成立から王権構造の変質を読み取ろうとする研究がしばしば見受けられる。本書の内容と密接に関連するものとしては、仁藤敦史氏による、京外への行幸の消滅による「動く王」から「動かない王」(1)への変質、さらには堀裕氏による、一一世紀前半における「如在之儀」の成立といった葬送儀礼の構造の変化から王権の変質過程をあとづける(2)研究などが挙げられよう。これらの研究成果は、近代天皇制として新たに創出されるまでの間を埋める、ともかくも千年近く継続した天皇の地位・権威の淵源を平安京成立後の九・一〇世紀頃に求めており、必然的に七・八世紀の大王・天皇と九世紀以降の天皇との質的差異を強調する。
 一方、本書において著者が強調する、観客としての民衆に開かれた「見える」大王から都城の宮内や車駕に隠れた民衆から「見えない」天皇への変質という結論(第T部第一章)は、持統朝における藤原京の成立を都市王権成立の契機とするものである。さらに、天武天皇の殯儀礼において天武を生きるが如く扱うことで政治的空白を向避するとする視点(第U部第一章)は、「如在之儀」の原型となる天皇観が既に七世紀後期段階から存在したことを明示する。これらの結論からは、天皇の地位がこれまでのように平安京の成立を契機としてではなく、実は百年以上前の持統朝の段階で既に変質していたとの修正を迫る。評者としては著者のこの結論に対して、「見える」「見えない」王と「動く」「動かない」王との質的な差をどのように捉え直すか、天武の殯儀礼と「如在之儀」に挟まれた八〜一〇世紀における天皇の政治的身体を両者と同様に捉えてよいのかという点など、まだ検討しなくてはならないことが多いため、直ちに納得するわけではない。だが、今後改めて捉え直さなければならない貴重な提言であることは間違いない。
 また、著者はこのように持統朝にて確立した天皇制に関して、無理な方法や論理を用いて即位する女帝の登場を可能とした「天皇制の柔構造」なる概念を用いることで、天皇制を相対化しようと目論む。確かに、持統天皇の地位も勝ち取ったものであり、光明皇太后や孝謙上皇の権力にしても同様に権力闘争の末に勝ち取らなくてはならないものであったという結論は、即位した天皇の権力が生与のものでないことを述べることであり、傾聴すべき視点であろう。
 ただし、「天皇制の柔構造」という結論そのものには少々疑問を感じる。本書の用例からは、著者にとっての「天皇制」とは、称徳による道鏡擁立過程で最大限に顕在化するように、天皇よりその地位を譲られた人物が「天皇」と名乗り、「天皇」としての自らを正当化する記憶を創造することで真の天皇になる制度ということになる。だが、この説明が示しているのは、一度成立した天皇「制」は不変であるという論理である。ここに、「天皇制」を相対化するという目論見が、逆に「天皇制」を絶対化してしまうというねじれた構造を生じてしまっている。そもそも、天皇「制」を相対化しようとする王権論をはじめ、戦後の天皇研究は、著者が結論として提示した「天皇制」の「柔構造」の中身に潜む「柔」ならざる「構造」を明らかにしようともがき続けてきたのではなかったのか。
 なお、このような結論が導き出された要因の一つは、そもそもが近代天皇制を念頭に概念規定された「天皇制」を、何の留保も無しで七・八世紀の事例に使用している点に求められるのではないか。このような用語の概念規定の曖昧さは本書の他の部分でもしばしば見られる(3)が、これは後述するように、著者が採用した方法論とも密接に関わっている。

    三「民衆」の位相

 本書の最大の特色は、ひとえに物語論の採用を高らかに宣言し、その方法を貫徹させようとした点にある。一九九〇年代以降における、本書の問題意識に関わる日本古代史の研究状況の中では、このような構築主義的な、物語論の議論を援用した研究成果は既に少なからず登場しており、それほど「新しい」視点ではない。一例を挙げれば、大山誠一氏による「聖徳太子」虚構説(4)や、中西康裕氏の「道鏡事件」虚構説を発端とした『続日本紀』の史料的性格に対する諸研究(5)が該当しよう。さらに、本書の上梓に前後して、一九九〇年代後半よりしばしば同様の問題関心から発言を続けてきた遠藤慶太氏や松木俊暁氏、細井浩志氏による研究成果(6)が論文集として立て続けに上梓されており、現在は一九九〇年代後半からの一連の研究の進展が一つのまとめに入る時期に達しているといえよう。本書はこのような流れの一齣として位置づけることができる。
 ただし、評者も含めたこれらの論者においては、物語る視線の立脚点は基本的に史料の編纂時点に置かれ、論者の現在的な視線は一歩後退した形で叙述される。しかし、本書における物語る視線の立脚点は基本的に現在であり、著者の現在的な視点からテクストとしての『日本書紀』『続日本紀』が解釈される。特に第T部に顕著なように、主に近代の権力関係を問い直すために提示された国民国家概念を援用し、『日本書紀』における「民衆」像、支配者層と民衆との共犯関係を抽出している。確かにこの方法は「新しい」。
 だが、この視点からテキスト創出時、七・八世紀の権力関係を抽出するという本書の課題に向き合ったとき、その方法論が成功したとは言い難い。著者は「そもそも、認識論を展開する歴史哲学が対象にするのは、ナチスドイツによるホロコーストや、日本軍による従軍慰安婦問題という現代の課題が多い」(一六頁)と認めつつも、その現代の課題を解明するのに適した方法論を、あえて日本古代史の課遁に採用する際に留意すべき点について何ら言及しない。ここに本書における「民衆」概念が不安定化する要因がある。
 そもそも国民国家は主な構成員たる民衆が自ら国家の構成員であることを自覚することで初めて成立する想像の共同体、つまり支配客体の意識を明確にすることで初めて成立する概念である。しかし、少なくとも『日本書紀』編纂によって新たに創出された「記憶」は、ほほ「正史」の主要な受容層である律令貴族層、広く見積もっても地方豪族層まで浸透させるにすぎない。したがって、『日本書紀』における「民衆」像は、あくまでそれを受容した支配者集団による期待される「民衆」像である。本書内では、そのような「正史」によって創出された「民衆」と、いわゆる現代的な意味での民衆という、二面的な民衆概念が縦横無尽に交差し、時には混ざり合っている。これは別に古代史において民衆が存在しないことを意味しないが、「正史が語る文脈を把握した上で、その文脈を分断する出来事の記述とその発掘を意図的に図ることが必要であろう」(二一頁)という著者の意気込みにもかかわらず、本書を通じて、少なくとも正史の文脈から切り離された自らの意志を有する「民衆」を発掘する試みは成功していない。
 本書においてこの目論見が比較的有効に機能した事例としては、『風土記』の地名起源説話に付随する「訛」の記載から王権の支配に組み込まれないその土地独自の記憶を見出した、大地の記憶に関する一考察(第T部第二章)が挙げられよう。この成果は、国家の「正史」としての『日本書紀』や同じく官撰の『風土記』を相対化するための視点としては有効であり、特に今後の『風土記』研究の進展に寄与するところは多いであろう。だが、これさえも厳密に捉えれば、土地に独自の記憶を賦与するのは、決して現代的な民衆ではない、『風土記』受容層の下限である地方豪族層とその周辺にとどまる。
 また、物語論の主要な場である現代的な課題を取り扱う場合、史料の立脚点とその史料に解釈を施す論者の現在点は、決して同一ではないまでもかなり接近している。しかし、古代史の史料を扱う場合、特に『日本書紀』などのいわゆる「正史」においては、研究者が照射する現在からの視点、テキスト成立時から現在に至る間の視点、テキスト編纂時の視点、テキストの原史料成立時の視点など、数え上げればきりがないが、常に多様な立脚点を想定する必要がある。したがって、古代史において物語論を採用する際には、そしてその方法論により解釈を施す際には、常に自らがどの時点の視点から史料に接近したか、つまりその解釈はどの視点での「物語」なのかを説明し続けなくてはならないだろう。
 なお、本書において物語論に基づく最も顕著な成果は、『日本書紀』持統天皇即位前紀の考察から導き出した「持統天皇称制物語」の解釈(第U部第一章)であろう。即位前紀に記された持統の即日称制記事を『日本書紀』編纂時の虚構であると断じ、その上で持統の権力を自明のものとせず、その獲得過程を段階的に捉え直して明示したことは、先述のように持統が実践した殯や行幸に対する評価にやや疑問はあるものの、おおむね首肯できる結論であろう。ただし、当該部分はむしろ本書以前の物語論の特徴でもある、物語る視線の立脚点が史料の編纂時点に置かれた考察といえる。

    四 物語論とその周辺

 本書の結論である「天皇制の柔構造」を最終的に導くのは、宇佐八幡神託事件をめぐる「道鏡即位物語」の解釈(第U部第五章)である。ここでは評者の旧著が議論の俎上に乗せられているので、以下では著者の評者に対する批判について少々触れつつ、これまでに述べあげた諸問題を解決するための可能性の一端について触れていきたい。
 称徳は道鏡即位に積極的な意志ありという結論を導き出す著者は、逆の結論に達した評者について『続日本紀』の事件記載に対する姿勢を評価しつつも、「『日本後紀』についても同様な方法論で扱えばよかったと思う」(三七三頁)と『日本後紀』への姿勢に疑問を差し挟むが、この指摘は不思議である。評者の旧著は『日本後紀』和気清麻呂薨伝に載録きれた神託事件記載の成立過程を論じており、決して『日本後紀』の「物語」を事実として論じたのではない。確かに『続日本紀』のみに見える「无道之人宜早掃除」は虚構と断じたが、これは別に『日本後紀』の記載に依拠したのではなく、両者の現存の記載から導き出される原「物語」を想定し、その原「物語」にも存在しえないとしたのみである。そもそも、両者の記載ともそのまま信用できないからこそ、さらに事件の「物語」記載のみに依拠する限り決定的な説得力を獲得しえないと考えたからこそ、称徳に道鏡即位の積極的意志なしという結論の根拠、整合性・合理性の根拠を「物語」の外部である任官記事に求めたのである。評者の力量不足で著者にそのような読みをさせてしまったとしたら申し訳ない限りであるが、この点は旧稿の一書もしくは一章全般をそれこそ解釈すれば了解していただけると思う。「史料の一部を切り取って結論する方法に苛立ちを覚える」(三九二頁)という著者の主張には共感できる部分もあるが、著者が再構成した評者の研究姿勢が新しい評者の研究者「物語」として定着することは不本意でもあるので、この機会にあえて釈明しておきたい。
 とはいえ、ここで強調すべきは、神ならぬ人間である一論者が真の意味で一書を通じた解釈を扱うことは、対象とする史料や参照すべき文献のどちらにおいてもそもそも不可能という厳然とした事実である。著者は否定するが、現在の研究方法が論者の構築した解釈を言語・文字に変換して他者に伝達する方法を採用するほかない以上、結局のところ我々には史料の一部を切り取って結論する方法しか残されていない。そして、その一部の集合という限定された状況の中で、他者が共有できる整合性・説得力を獲得するしかないのである。なお、著者は補論について「本論は、物語論に立脚したものではなく、既住の方法を採用している」(三九二頁)とわざわざ述べるが、この別なる方法論が前章の整合性を補強する役割を果たしていることの意味は大きい。このような補論が本書に挟み込まれたことそのものが、本書の方法論の脆弱性と同時に、今後の研究動向に向けたこの方法論の有効な活用方法をいみじくも示しているとはいえないだろうか。

    お わ り に

 著者は本書において、これまでの論者が日本古代史への適応を躊躇していた近代概念を縦横に活用することで、現在に至るまで天皇「制」が継続した必然性を七世紀に遡って明確に言い切った。その点で本書は、その方法論採用の是非や近代天皇制の源泉をめぐる言説をも含めて、今後の様々な議論の出発点になりうる業績といえよう。ただし、著者が下した本書の結論は、著者本人による他の方法論を通じた批評行為を経ていない以上、現時点ではまさに原初の仮説提示段階にとどまる。したがって本書の評価は、今後別なる方法論によって本書と同様の結論が得られたときに、より確固たるものとなるであろう。
 最後になるが、内容の理解も不十分なまま卑見を述べあげた結果、著者の意図をくみきれなかった部分も多々あったように思う。著者および読者諸氏のご海容を心から願う次第である。

 註
(1) 仁藤敦史「古代国家における都城と行幸」(『歴史学研究』六一三、一九九〇年、のち同『古代王権と都城』吉川弘文館、一九九八年に再録)。         
(2) 堀裕「天皇の死の歴史的位置」(『史林』八一−一。一九九八年)。
(3) 他に「正統性」と「正当性」の差異にも疑問が残る。「天皇制とは、天皇位を嗣いだ者に日嗣の正統性を賦与し、その正当性によって維持・継続している制度」(三九三頁)との記載からすると、両者は明確に使い分けられたようだが、本書全般を通じてその区別が貫徹されているとはいえない。
(4) 大山誠一「〈聖徳太子〉研究の再検討」(『弘前大学国史研究』一〇〇・一〇一、一九九六年、のち同「長屋王家木簡と金石文」吉川弘文館、一九九八年に再録)、同『〈聖徳太子〉の誕生』吉川弘文館、一九九九年)。
(5) 中西康裕「『続日本紀』と道鏡事件」(「日本史研究」三六九、一九九三年、のち同『続日本紀と奈良朝の政変』吉川弘文館、二〇〇二年に補訂・再録)、拙稿「宇佐八幡神託事件「物語」の構築過程」『日本史研究』四八三、二〇〇二年、のち『日本古代の地方出身氏族』岩田書院、二〇〇四年に補訂・再録)。
(6) 遠藤慶太『平安勅撰史音研究』(皇楽館大学出版局、二〇〇六年)、松木俊暁「言説空間としての大和政権】(山川出版社、二〇〇六年)、細井浩志「舌代の天文異変と史書」(吉口川弘文館、二〇〇七年)。特に松木氏の諸論考は、地名や物語の受容範囲の問題など、本稿の主旨と密接に関わる部分も多い。あわせて参照されたい。
(7) 前掲拙著。


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