齋藤康彦『産業近代化と民衆の生活基盤』
評 者:尾関 学
掲載誌:「歴史学研究」823(2007.1)


       T 内容紹介

 本書は,山梨県をフィールドに明治以降の産業経済史研究を進めてきた,齋藤康彦氏の『地方産業の展開と地域編成』(多賀出版,1998年),『転換期の在来産業と地方財閥』(岩田書院,2002年)に続く3冊目の著作である。その題名は,「産業」,「近代化」,「民衆」,「生活」という,多面的な内容を包含していることをあらわしている。よって,読者は,その内容にさまざまなイメージを抱くであろう。そこで,はじめに本書の目次を示し,内容紹介を兼ねつつ,著者の問題設定と成果をみていこう。
 
 課題と方法
 第一部 産業化の進展
  第一章 産業化の起点
  第二章 産業発展と物資流通
  第三章 産業構造の再編成
 第二部 就業構造と労働力移動
  第一章 明治前期の就業構造
  第二章 職業構成と労働力移動
 第三部 在地資本と所得構造
  第一章 明治前期の在地資本
  第二章 産業展開と所得構造
 総括−まとめにかえて
 
 まず「課題と方法」において,著者は本書の目的を「産業革命で生じた地域経済の変化を,就業構造と所得構造の検討を通じて析出する」(16頁)ことに求めている。ただし,著者の「産業革命」概念が,「単なる『工業化』ではなく,資本の原始的蓄積過程,すなわち資本=賃労働関係の創出過程であり,全社会機構における資本主義的生産への再生産過程であること」(16頁)を認識しておく必要があろう。以下,三部にわたって,研究の目的に沿った分析が進められている。

 第一部「産業化の進展」は,三つの章から構成されている。第一章「産業化の起点」は,『山梨県市郡村誌』の草稿である「物産書き上」を用いて,山梨県域全体を対象に明治前期の産業構造を村落レベルで分析し,「米穀雑穀型」,「蔬菜果実型」,「蚕糸型」,「織物型」など,物産ごとの地域類型を行った。つづく第二章「産業発展と物資流通」において,『山梨県統計書』の輸出入物品の時系列から,山梨県の商品流通の実態と,それを規定した産業構造の変化を跡づける。山梨県における産業化の経過は,生糸輸出による「蚕糸モノカルチュア」の構築であった。
 そして,養蚕・製糸業を中心とした「蚕糸モノカルチュア」の産業構成を構築した山梨県の「産業革命」の進行過程と到達点を示したのが,第三章「産業構造の再編成」である。ここでは,1913(大正2)年度の『山梨県統計書』から,郡市ごとの物産構成比と特化係数をもとめる。具体的には,農産物価額と工産物価額を明治7年の価額で除し,名目で前者は7.4倍,後者は12.9倍になることから,この期間の工業生産の伸長を反映し,「産業化」の進展を読み取っている。つづいて,「郡誌」,「郡勢一斑」から,西八代,南巨摩,北巨摩,南都留の各郡の町村ごとの産業構成を分析しており,いくつかの類型化を行う。最後に,府県別農産工産の構成比を示し,全国に占める山梨県の位置を確認する。
 第二部の「就業構造と労働力移動」は,第一部で検討した産業構造の変化に伴う就業構造の変化を取り上げている。第一章「明治前期の就業構造」は,『甲斐国現在人別調』の「家別表」から,階層構成と就業構造を分析し,農閑余業と零細経営との結びつきを明らかにした。第二章「職業構成と労働力移動」において,「産業化」の進展と人々の働き方の変化を,『山梨県統計書』を用いて職業別構成と就業形態から明らかにした。また,岡谷市蚕糸博物館所蔵の『昭和十三年度製糸女工勤続状況調書綴』を用いて諏訪の製糸女工の山梨県出身者の割合を求め,山梨県,とくに諏訪に隣接する北巨摩郡からの女工の流出について検討をしている。
 第三部は,「在地資本と所得構造」と題して,主に税務資料によりながら,地方企業家と民衆の資本と所得について考察する。第一章「明治前期の在地資本」では,所得税算定の基礎となった『所得金高届』およびそれを郡市単位で集計した『所得金高調』を用いて,豪商農層の手元に蓄積された「資本」の存在形態と地域による分布状況を検討した。その結果,「所得税五円以上納入者」は,甲府市と郡部では甲府盆地を中心とする地域,および旧甲州街道など街道沿いの村々に集中する傾向を示した。第二章「産業展開と所得構造」は,南巨摩郡睦合村の1915(大正14)年の『所得調』と東山梨郡松里村の1939(昭和14)年の『特別税戸数割賦課標準申告書』を用いて,階層ごとの所得構成を検討する。ここでは,所得税納入人員数を現住戸数で除した「出現率」を求める(316頁)。その結果,農村諸階層の所得構成には,明確な差異が存在した。すなわち,地主,自作は,農業収入の比率が高く,小作は農外収入に頼らざるをえなかった,と結論する。
 最後の「総括−まとめにかえて」において,これまでの議論の要点を再確認しつつ,本書における産業革命期の地域経済の変容と民衆生活の変化を述べている。

 以上の内容からうかがわれるように,本書は,明治から昭和初期にかけての山梨県における産業化の進展と産業構造の変化,そして,それに伴う人々の就業構造の変化,すなわち民衆の生活基盤の変化を示し,最後に産業近代化を推進した資本と,産業化の成果である所得構造を分析した著作である。分析に際し使用した資料は,『山梨県統計書』,『甲斐国現在人別調』などの統計資料にはじまり,『山梨県市郡村誌』の原票と考えられる「物産書き上」,女性労働力の分析に用いられた『昭和十三年度製糸女工勤続状況調書綴』,階層間の所得構造を解明した『所得金高調』,『特別税戸数割賦課標準申告書』などである。これらの資料から,著者の課題,すなわち就業構造と所得構造の検討を通じ,産業革命で生じた地域経済の変化を,主に数量的な側面から分析をおこなおうとしたのが,本書の特徴である。

      U 本書へのコメント

 本書に対する評者のコメントは次の3点である。それらは,第一に,統計資料の使い方,第二に先行研究の取り扱い,および第三に本書全体の構成についてである。
 著者は,刊行された統計書をはじめ,これまでに未見と思われる一次資料を用いて,数量的な分析をすすめており,それは本書の表の多さからもうかがわれる。歴史研究において資料の大切さは何よりも尊重されるべきである。加えて,未見と思われる一次資料の分析を詳細に読者に示すことは,後進の研究者にとっても有益である。しかし,統計資料の利用という点からは,改善の余地が少なからずあるように思う。
 とくに,資料から統計表が作成されても,それが何の目的で計算されたのか分かりにくいことがある。たとえば,産業化の進展を期間別の工業生産額で比較しているが,名目価格である(33頁)。この目的は何であろうか,産業化の進展を分析しようとしているなら,実質化すべきであろう。さらに,特化係数が計算されているが(35頁),その意味と求め方を註記で示しておくことが必要なだけではなく,その係数を算出することで何をいおうとしているのか,いま一つわからない。
 また,一歩踏み込んだ分析が試みられた場合でも,いかにも不十分な感じを受けるところがある。たとえば,所得構成の判明者が全体の14.5パーセントとごく少数にとどまっているために,豪商農層の所得構成と産業構造の地域構造との間に明確な相関を析出できない(316頁),としている。この原因を,データのカバリッジの問題に帰するのは,疑問である。分析対象と資料との関係をもう少し吟味する必要があろう。
 そのほかにも,表の作成に用いた統計資料が表の註に明記されていないことや,本文の脈絡を分かりにくくしている大きな表は付録に回す必要があることなど,いくつかの点が気になった。
 コメントの二つ目は,先行研究の取り扱いである。たとえば,本書で取り上げた資料のひとつである『甲斐国現在人別調』を利用した研究として,斎藤修氏,中村政則氏の研究があげられているが,それら先行研究と本書であきらかになった事実との関係が明記されていない。そのため,著者が何をあらたに見い出したのか,先行研究との相違について,読者は新たな知見を得ることができない。
 さらに,著者が問題意識を共有できるであろう先行研究として,ひとつの論文を紹介したい。それは,西川俊作氏の「山梨県の産業化−兼業・無制限労働供給と『借りてこられた技術』−」(『三田商学研究』32巻1号,1989年4月,217-254頁),である。本書と西川氏の主張は,マルクス経済学からのアプローチと古典派経済学からのアプローチという,一見すると対立する理論を基盤にしている。だが,対象地域と時期とを同じくする「産業化」を扱っているので,読者としては,著者が西川論文をどのように評価しているのか,ぜひ知りたいと思うのではないだろうか。

 最後のコメントは,全体の構成についてである。本書は,「産業革命で生じた地域経済の変化を就業構造と所得構造の検討を通じて析出する」ことを目的としている。より具体的には,資本の原始的蓄積過程を述べたものである。よって,分析のフレームワークは明確なように思える。しかし,本書から評者がそれを読み取るのは,正直にいって難しい。その理由は,著者が主張するいくつかの類型を設定しても,それら地域ごとに,「産業化による就業構造の変化が所得構造に及ばした影響」といった分析は行われていないためである。また,著者による類型の設定自体も,細分化されすぎて,類型の意味をなしていない箇所もみられた。
 この点について,もう少し具体的に述べよう。本書は,産業化の進展だけを問題にするのではなく,それに伴う民衆の生活基盤の変化を解明することも目的としている。この課題を設定しているのならば,同一の地域を対象に,産業化の進展とそれに伴う民衆の生活基盤の変化を扱った分析を行う必要があったのではないだろうか。たとえば,第三部で豪農商層と農民・庶民層の所得構成を分析した,西八代郡と南巨摩郡および東山梨郡における「産業化による就業構造の変化が所得構造に及ぼした影響」を明らかにすることも,著者の設定した課題に対する解答のひとつであろう。

 以上,ここでいくつかコメントをさせていただいたが,それは本書の価値を低めるものではない。ある特定地域を対象とする経済史は,全体を把握するために統計資料などを用いた研究が行われ,その一方,個別の事例を中心にした研究が行われている。それらの研究に対して,本書は,膨大な統計資料を整理・分析し,さらにこれまでの著作で見られるように,著者ならではの徹底した資料調査に基づいた,一次資料による地域産業経済史の試みである。今後,他地域の産業経済史研究においても,統計などの数量データと一次資料とが融合し,ストーリー性を有する本書は参考となるであろう。


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