小田原近世史研究会編『交流の社会史−道・川と地域−』
評 者:巻島 千明
掲載誌:「関東近世史研究」63(2007.10)


 小田原近世史研究会は、『小田原市史』(通史編近世)の執筆者グループを中心に、同通史編の既述内容を豊かにすべく、また出身・経歴・大学の枠を越えた若い研究者たち相互の積極的交流活動を目的に、一九九五年三月に発足した。本書は、小田原近世史研究会発足一〇周年の節目を迎えるに当たり、これまでの研究成果の一部をまとめたものである。
 本書は、小田原・足柄地方をフィールドとした一一の個別論文が収録され、「道に生きる」「越える人びと」「川と暮らす」の三部に構成されている。構成は以下の通りである。

発刊にあたって(村上  直)
T道に生きる
 箱根関所における人見女 (小暮紀久子)
 旅日記よりみた小田原・箱根路について(山本 光正)
 間の村と湯治場にとっての「一夜湯治」(大和田公一)
 大磯宿の飯盛女と茶屋町救済仕法 (宇佐美ミサ子)
U越える人びと
 「道の者」たちの一七世紀(下重  清)
 −徘徊する人びとの実像にせまる−
 尊徳の行動力と活動範囲     (木龍 克己)
 −「日記」の概観と小田原出張−
 安政コロリの流行と人びと(坂本 孝子)
 戊辰戦争下の小田原藩と遊撃隊(中根  賢)
V川と暮らす
 田中休愚による酒匂川大口土手締め切り後の諸相(関口 康弘)
 −大口水下六か村を中心に−
 水車経営と地域社会(荒木 仁朗)
 堀と道普請にみる報徳仕法(松尾 公就)
あとがき

 では、各論文について簡潔に内容を紹介していきたい。

 小暮論文は、箱根関所における人見女の実像にせまるものである。人見女は、女性の通関監視を担当し、「通行の不可を決定するキイポイントの把握者」であったとされる。本稿は「僅少で断片山的な史料」をつづり合わせて論じたとされるが、人見女の業務内容・格式・相続形態など多岐にわたり分析がなされている。これらの分析から、人見女が定番人同様の格式を有し、藩から扶持を受ける女性として画期的な存在である一方、扶持の少額の面から、男性役人との間に男女性差別があったことを指摘した。

 山本論文は、「旅日記」の資料としての可能性の追求を課題とし、東海道に一つの境界を形成する小田原・箱根路について述るものである。本稿では、東海道の江戸−箱根間を「一つのブロック」として位置付け、旅人がこのブロック内を「箱根を意識しながらどのような経路を辿ったのか」、明和八年(一七七一)〜文久三年(一八六三)成立の旅日記(二〇点)を素材に、旅の類型化を試みている。また、宿泊形態の推移を試論的に取り上
るなど、旅日記の歴史的情報資料としての新たな可能性を提唱した。

 大和田論文は、文化二年(一八〇五)の箱根宿・小田原宿と湯本村・畑宿村間で起きた「一夜湯治」事件の訴訟資料を検討し、箱根における「間の村」「湯治場」の変容過程において、事件がどのように位置付けられるのかを考察するものである。この「一夜湯治」事件は、小田原・箱根両宿が同年布達された「間の村休泊の禁」令に基づき、「間の村」である湯本・畑宿両村を一方的に提訴したものである。本稿では、両宿の地理的位置関係から宿泊客争奪の要因とその対象が異なることを指摘し、江戸中期以降の箱根の温泉場が、長期滞在型の病気療養(湯治)利用のみならず、短期宿泊および立ち寄り湯に利用されるようになったことで、宿場とそれ以外の場所での宿泊客争奪戦となり、この事件が引き起こされたと指摘した。

 宇佐美論文は、宿場における飯盛女の社会的位置付けについて検討するものである。本稿では、東海道大磯宿を事例に、茶屋町の名主油屋藤兵衛による町救済策としての飯盛女設置をめぐる、南・北両本町(宿町)・茶屋町(在郷町)間の対立を分析し、飯盛女の「性労働」が、各町の「宿経済の活性化をはかる手段」として認識されていたことを明らかとした。

 下重論文は、小田原藩主稲葉正則の記録「稲葉日記」を素材に、「道の者」の実像にせまるものである。本稿では、「道の者」と呼ばれた人々を、「士農工商」世界の形成によって生み出された「一七世紀以降の極めて幕藩体制的な存在」であったと位置付け、彼らを「周縁」的存在として捉える「身分的周縁」論に疑義を示している。

 木龍論文は、各地で独自の農村復興運動を展開した二宮尊徳の「日記」(文政五年〜安政三年)をデーター化し、尊徳の広範囲にわたる活動を総合的に把捉するものである。この尊徳の行動整理は、門人をはじめ報徳関係者・仕法依頼者などの各仕法地単位での確認を可能にするなど、報徳仕法研究に新たな視点を提示したと言えるだろう。

 坂本論文は、相模国および武蔵国三郡(久良岐・橘樹・都筑)における安政五年(一八五八)のコロリ流行の実態と、コロリ罹患に恐怖する人々の姿について紹介するものである。本稿では、コレラ被害の波及地域や伝染経路、領主側の対策が検討され、領主が薬方書や施薬などの医療的対策、祈祷・御輿巡業などの宗教的対策の双方を実施していたと指摘した。また、コレラ蔓延の要因を疫神・狐・異国人に求め、神仏の信仰による予防を試みる当時の人々の姿を明らかとした。

 中根論文は、慶応四年(一八六八)五月に起きた小田原藩と旧幕府遊撃隊との箱根戦争について検討するものである。本稿は、従来の研究史において、注目されてこなかった箱根戦争を、戊辰戦争の東北日本への戦域展開への要因として捉え、旧幕府遊撃隊の行動と、旧幕府・新政府両勢力から南関東東西防衛戦としての役割を期待された小田原藩が微妙な立場に立たされていたことを指摘した。また、箱根戦争の勝敗は、諸藩の藩論決定の要因となったことから、戊辰戦争の一連の戦闘のなかにおいて、「上野戦争」の次の大規模な戦闘として「箱根戦争」を改めて位置付けた。

 関口論文は、宝永四年(一七〇七)の富士山噴火を原因とする、酒匂川の氾濫などの二次災害に直面した「大口水下損家立六か村」(斑目村・岡野村・千津島村・壗下村・松竹村・和田河原村)の復興過程を明らかとするものである。本稿では、田中休愚と後任蓑笠笠之助の民政、六ヶ村の開発・復興への取り組みを考察し、安永年間の小田原藩による地押しの実施が、災害からの復興開発の到達点であったとした。

 荒木論文は、相模国足柄下郡府川村の名主稲子家を中心に、足柄上・下郡における水車経営の実態を通じ、水車経営が地域社会で果たした役割について追究するものである。本稿では、稲子家の「有り合わせ売買」による水車経営を明らかとし、この「有り合わせ売買」は中間層(水車所有者)が「多角的経営を円滑に行うための一手段」であり、藩役人を含めた地域社会における商人・中間層同士の信頼関係によって成立する融通行為であったことを指摘した。

 松尾論文は、小田原領報徳仕法の高揚期に実施された足柄上郡西大井村の用悪水堀普請の検討から、報徳仕法の意味の見直しを試みたものである。本稿では、報徳仕法の一環として行われた普請に近郷近村の者が多数助成に駆けつけていることに着目し報徳仕法が「公共性をもった普請」を通して、「自村と『地域』(地域社会)を改めて意識させる機会を与えた」ことを指摘した。

 以上、一一論文についての紹介を試みた。筆者の知識不足により、すべての論文を正しく紹介できていない点もあるかと思われるが、その点はお許しいただきたい。各論文は対象地域を同じくするものの、研究テーマは様々である。これは本書が個別研究を尊重して編まれたからに他ならず、新たな方法論や課題に挑む積極的な研究姿勢が感じられる。更なる小田原近世史研究会の研究成果に期待したい。


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