松浦利隆
『在来技術改良の支えた近代化−富岡製糸場のパラドックスを超えて』
評 者:鈴木 淳
掲載誌:「技術と文明」29(15-2)(2007.3)


 本書の副題「富岡製糸場のパラドックス」とは,「政府が製糸業近代化のために巨大な官営模範工場を設置した土地に近代技術の器機製糸が根付かず,かえって在来技術の座繰製糸を近代化した組合製糸が発達してしまったという歴史的な逆説」(7頁)であるという。確かに,隣接する長野県で諏訪式の器械製糸が急速に発達した産業革命期に,群馬では改良座繰と呼ばれる各養蚕農家が手作業で引いた糸を共同の揚げ返し場で再繰する方式での製糸が発達したことはよく知られている。本書は群馬県における養蚕,製糸,機械の「三業」を対象に,「主として明治前・中期の近代化の過程において,実は量的にも質的にも大きな存在でありながらも,現代に直結するような最終的な意味での近代化の到達点とは異なるため,ともすれば近代化の脇役的な評価に甘んじることの多い在来産業と,それを支えてきた在来技術にスポットを当て,わが国の産業近代化を従来とは少し別の角度から考察」(11頁)することを意図している。三つの産業ごとに部が立てられ,それぞれ関連論文が排される。以下,内容のあらましを紹介する。

 「第一部 養蚕業」は三つの章からなる。
 「第一章 近代化の中の在来産業技術−船津伝次郎「桑苗簾伏法」に関する一考察−」では老農船津伝次平が世に出るきっかけとなった廃物利用による桑苗栽培法を取り上げ,近世以来農業技術改良にかかわってきた者が桑栽培の重要性に気付いてその改良を目指した点は重要であったが,その技術はビジネスとして実施されて検証されたものではなかったところから長期的には普及せず,またその普及方法は出版と自ら官途につくことも含めて官の力を借りた近世的なものであったとする。
 「第二章 「近代養蚕農家」の発生」は蚕屋(かいこや)と呼ばれ,昭和40年代前半まで作られ続けた総二階で換気用の越屋根を伴う農家建築の発生を検討する。この種の最初のものは蚕の清涼育を創始した田島弥平が,その円滑な実施のために試行錯誤をへて文久元年に建築し,現存している。官が提案した蚕室が住家と分離して模倣しにくかったのに対し,これは住家兼用であり,清温育にも適する部分が多かったことから,この系統の蚕屋が,明治初年から中期にかけて普及し,標準となったとする。
 「第三章 創成期の養蚕改良結社「高山社」−清温育の成立を中心として−」は清温育で一世を風靡し,明治末年に全国4万の社員を擁するに至る養蚕団体高山社の最初の指導者高山長五郎の関係文書を検討し,伝記等でより早い時期に成立したとされてきた清温育が高山によって初めてなされたのは高山が養蚕に取り組み始めてから28年後で高山社設立の前年にあたる明治16年であったことを明らかにした。これは内務省が清温育という名称を使ったより後である。清温育自体は江戸時代以来の従来的な技術改良の手段によって生み出された。しかし,高山社は実地教育・実践教育を重視してそれを組織化するという民間主導の活動に特色があり,それは近世的ではなく時代状況や経済合理性に適合した柔軟な対応であったとする。

 製糸業を扱う第二部も三つの章からなる。
 「第一章 上州座繰器の発生」は通説的理解の根拠となっている明治35年の『群馬県蚕糸業沿革調査』の記述のために八島屯次郎になされた問い合わせへの回答の矢島家に残る写しを主な史料とし,様々な関係史料や県内に現存する座繰器全点の調査を踏まえて,上州座繰器が製糸のほか巻直しや機場でも用いられる器械として1800年前に発生したが,製糸用としての機構的な完成は開港後であり,それは奥州座繰の情報を踏まえたものであった可能性もあるとする。
 「第二章 上州座繰器の改良」は明治期以降の上州座繰器の発展をたどる。座繰器本体は絡交装置も含めて幕末にほぼ完成していたので,明治に入ってからの改良は,器械製糸を参照しての撚り掛け器の付加や,新素材であるガラスなどを利用した接緒・集緒用の弓の取り付け,絡交装置への歯車の利用などであった。一方で,「改良座繰」を特徴付けたのは,製糸行程とは直接には関係ない束装によって象徴された組合という近代的な組織の創成による品質の保証であった。この際に用いられた揚げ返し器の改良や,束装,繭の蒸殺技術といった製糸の周辺技術は富岡製糸場やこれに先行した器機製糸場である前橋製糸場から普及した。一方で導入が試みられたケンネル式の撚り掛け装置は普及せず,伝統的な「毛撚り」が用いられた。これは製糸に当たった各農家の繰糸技術の高さにもよるものであり,製糸家は養蚕農家でもあったゆえに,時間と労力を製糸器械の改良より養蚕や乾繭方法の改良などに回した方が生糸品質の向上のために能率がよかったと推論する。繭の品質が統一され,各戸での技能によって品質を統一する必要性が薄れると,輸出向けの組合製糸は器械製糸に転換したが,製糸の生産増加と共に増加する玉繭・屑繭の製糸手段として座繰器は用いられ続けた。
 「第三章 二つの製糸工場−富岡製糸場と碓氷社−」は明治5年に建設された富岡製糸場と同38年に建設された旧碓氷社本社本館という二つの建物を対比しながら,官営器械製糸と民間の改良座繰の組合製糸という同じ地域で展開した二つの製糸業のありようについて説明し,前者のような集中的な工場制度は全般的な社会の水準や近代化の進行に応じてしか機能が発揮出来ないので,後者に代表される在来的な生産方式や組織がそれまでの主要な生産を支えたとする。また,かなり印象が異なる二つの建物がともに効果が大きい部分でのみ西欧輸入技術を取り入れようとしたため,建築面での様式技術の導入においては類似した結果を示しているとし,また外観を特徴づける富岡のレンガは近代化を推進する政府によって誰もがわかる洋風化=近代化のシンボルとして用いられ,碓氷社二階に多用されるガラスは桑畑の中に屹立する組合本社の機能が一見在来的でありながら実は近代的なものであることを示したとする。

 第三部は織物産地の桐生を扱う。
 「第一章 開港をめぐる桐生新町の動静」は横浜開港の安政6年6月から,翌年にかけての桐生の情況を描く。開港にともなう投機的な生糸の買い占めとそれの横浜回送とにより,桐生の織物業は操業を継続できなくなり,町役人を中心に幕府への訴願が行われた。商人の一人が領主によって処罰されたものの効果は乏しく,地元では打ち壊しの脅迫がなされる中で商人らの出資による救い米によって機業の再開までの間の安寧が辛くも維持されたという過程を描く。
 「第二章 明治前期の桐生織物「近代化」」は桐生でジャガードが初めて導入されてから本格的に用いられるようになるまで10年以上を要し,この間に繻子やバッタンを利用して織られる羽二重と言った,対応可能な新技術による製品が主製品となっていたことを指摘する。そして,官の保護を受けることが乏しかった桐生の織物業は当面の利益確保を求めて行われたが,明治の近代化を考える上では,新技術の導入より,このように移入された技術がどう消化され,どう利用されたのかの検討が重要であると指摘する。

 終章では,改めて各部がまとめられるが,養蚕業の改良では,それが個人の長期にわたる経験のなかから生まれてきたこと,改良や工夫が理論的な裏付けよりも,数多くの実践的な試行錯誤の総和から形成されていること,そして,公的な援助や教育などにはたよらない民間の力で行われていることが強調される。そして,明治30年代半ばからの養蚕の多回数化により,労力の節減に注意がむけられるようになって労働集約的な清温育が衰え,明治末年以降の公的な力による蚕種統一で公的機関などの標準的な養蚕法が全国的規模で採用されることになったと展望する。製糸業に関しては,上州座繰器が長期にわたって生産の主力を占めた背景には,ほとんど民間の力による絶え間無いハード,ソフト両面での改良があり,新技術の導入や製糸技術の近代化のためではなく「利益」「利潤」の確保のために明治期の養蚕製糸ブームに参入した農民や事業者にとって,座繰という別の手段を持った地域では器械製糸は経済的魅力に欠けていたと結論する。そして,このような地域では改良座繰の器械製糸への転換は,蚕種統一によって繭質の均質化して初めて本格的に進んだと指摘する。織物業に関しては桐生の事件を在来産業の担い手である近代の「民間」の原点と位置付け,また着尺織物業に関しては在来技術が継続的に改良されながら存続したことを示す。そして,結論として,産業の近代化は,「在来的なものと近代的なものが混じり合い,刺激しあうなかで,結果として両者ともに変化発展してゆくスパイラル(渦巻き状)な運動」と考えるべきで,在来技術は明治以降も続く不断の「改良」の賜物であると強調する。

 本書の特色の第一は,改良座繰技術の評価である。従来から群馬県における明治期の改良座繰の発展は指摘されてきた。しかし,その要因は揚げ返しと選別,集荷による大量斉一な生糸生産の成功といった製品に近い工程での改良や,競合関係にあった器械製糸の技術的な未熟さといった面に求められて来た。これに対して松浦氏は同時代にも当事者によって主張されていた,個別農家での繭の品質にきめ細かく対応した繰糸作業ができるという面を強調する(170〜171頁)。製糸に取り組む地域の人々に養蚕と兼ねてそれを行ってきた伝統と,それによって蓄積された技能があるとき,器械製糸を導入するかどうかの判断は製糸工場の生産性の問題だけには還元できない。製糸技術という単独のものとしてではなく,養蚕と組み合わせてとらえ,その中で最も合理的な品質改善のための選択として,群馬では改良座繰が行われたのである。そして富岡などの器械製糸に由来するものや桑栽培,養蚕の分野も含めて,効果の高い改良がなされたのとの議論である。産業技術史の立場で見れば,本書の分析視角は至極適切に感じられる。逆に,従来の研究は製糸業,養蚕業という理念上の区分にとらわれて群馬の蚕糸業の実態に即した分析としては不十分なところがあったのではないだろうか。地域に即した視角を取るゆえの本書の大きな貢献であり,他の産業や地域の産業技術史的分析の手がかりともなる成果である。
 もう一つの本書の特色は,民間の技術開発や普及活動の重視である。明治後半からの蚕種統一には公的な力が働いたことが指摘されているが,それ以前の段階では在来技術の継承発展はもちろん,近代になって可能になった地域を越えた組織の形成やその活動も含め,「官」ではない民間の役割が強調される。富岡製糸場に象徴されるように政府の保護奨励が明治期の産業発展を主導したという理解に対して,このことは重要な指摘である。「利益」・「利潤」を追求した民間の担い手が育んだ技術という見方は,産業技術史のあるべき視角でもあろう。そして第三部第一章で幕末の政治経済状況の中での「民間」の生成を描いたことは本書に歴史叙述として広大な奥行きを持たせている。
 このほか,原史料の解読により通説を覆す知見が提示されていることと同時に,現存する建造物,座繰器といった文化財の検討がなされ,それが議論に組み込まれていることも本書の特色である。産業技術史の研究に,実物史料と文献史料の双方の研究が必要で、その組み合わせが有効なことは論を待たない。しかし,実際にそれを実現した研究成果は乏しく,特に本書のように,遺産の背景にある組織や制度まで視野に納めた文献史学の評者から見ても研究書として十分な水準を示しているものは珍しい。この研究自体が,近代化遺産調査を契機として着手されたとのことであるが,今後の近代化産業調査,またそれを活用した研究の進展に一つの指針を提供する書物である。

 一方で,残された課題もある。第一の特色である改良座繰の利点の新たな評価は,厳密に実証されたとはいいがたい。大変魅力的な仮説ではあるが,他の地域や自家製の繭だけによらない座繰などと対比して実証を図る必要があろう。第二の民間の力の評価は,基本的に正鵠を得ていると思われるが,産業発展の主たる担い手が民間であったこと自体は,現在では一般的な理解になっているとも言えるのではないだろうか。その上で,政府の活動がどのような役割を果たしたのか,官か民かという単純な割りきりではなく,さらに追求する必要があるだろう。官営富岡製糸場に導入された個別の技術の影響は指摘されているが,壮大な官営製糸場の存在を通じて政府が養蚕業に力を入れていることを実感できた地域の対応,という見方も可能であろう。また,富岡の規模過大が強調されるが,一時大蔵省租税寮が運営していた同場は,必要な繭を民間と統合しながら広い範囲から購入した。製糸場の都合だけで言えば,例えば甘楽郡内の繭を租税として集める手もありそうだが,そのようなことは検討された形跡すらない。その結果,富岡の地元でも自家製造の繭を利用した改良座繰の発展が見られるのだが,このような民間での発展を許すこと自体が,富岡製糸場の収益性以上に政府にとって重要だったと考えられよう。
 碓氷社,高山社,などの民間の製糸,養蚕組織への評価も高いが,これには島村勧業会社や生糸改会社といった明治初年に政府や県の勧奨によって作られた組織の経験が生かされたと考えられる。改造座繰の基本である揚げ返し器(揚返機)についても,その普及への県と生糸改会社の貢献が指摘されてきている(差波亜紀子「初期輸出向け生糸の品質管理問題」,『史学雑誌』105編10号)。官僚として富岡製糸場の設立を主導し,また初期の養蚕政策立案にあたり,さらに島村勧業会社をはじめとした地域の蚕業とも深い関わりを持っていた渋沢栄一の活動,また速見堅曹ら前橋藩の士族の活動なども,官か民かという単純な割り切りでは処理できない。桐生の例は幕末維新期の地域社会のありようの一面をよく表わしているが,それだけで彼らを生み出したこの地域の社会的背景を示すのは無理があろう。もちろんこの問題は著者も理解しているに間違いなく,一冊の本にまとめるには避けがたい難点ではある。
 また本書(206頁)に限らず一般的な誤解ではあるが,富岡製糸場での揚返し(再繰)はヨーロッパでは行われておらず,日本の気候に合わせ,在来技術を参照したブリュナによって器械製糸としてははじめて行われたと考えられがちである。しかし松原健彦『フランス近代絹工業史論』(晃洋書房,2003年)によれば,生糸を大枠に取る直繰は1760年にヴィラールによってはじめて実験された新技術であり,それ以前はフランスでも,小枠に巻き取って大枠に揚げ返す再繰が行われていた。直繰は急速に普及したわけではないとのことなので,生糸の再繰自体はブリュナのフランス製糸業の知識のなかにもあったと思われる。富岡製糸場の当初からフランス製の揚げ返し機が設置されているのも,フランスで揚げ返し機が知られていたことを物語っていよう。今後は日本での揚げ返しの発展にこのフランス製揚げ返し機がいかなる影響を与えたのか,あるいは与えなかったのかの検証も課題であろう。

 以上のように本書の成果を踏まえて見えてくる課題も多いが,養蚕から織物まで,地域の生糸にかかわる産業を縦断的に,文献史学と文化財,そして地域全般への深い理解に基づいて分析し,一書として提示した意味は大きい。著者は現在群馬県の世界遺産指定推進室の室長の地位にあり,このたび国内で暫定リスト掲載の方向が決まった「富岡製糸場と絹産業遺跡群−日本産業革命の原点」の構成要素の発見や意義付けに研究成果を生かされた。国内の近代産業遺跡が世界遺産の候補となるのはこれが最初であり,今後これに倣った動きが活発になると思われるが,氏の活動を通じて史学と遺産の双方を見通すしっかりとした知見の重要性が広く知られることを期待したい。


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