成清弘和著『日本古代の王位継承と親族』
評者・明石一紀 掲載誌・日本歴史No.627(2000.8)


 著者の問題意識は、律今制以前の天皇制の成立過程、とりわけ王位継承の血縁原理を解明することにある。最初は、継体・欽明朝の帝紀部分の内的史料批判を手掛けて、次いで律今の規定を分析するようになり、その過程で双方的親族論に出会って積極的に社会人類学的観点を取り入れるようになった、という。王位継承システムは、血縁だけでなく資質や群臣の支持などの諸要素も加味したものであったが、七世紀を通じて血統のみによる新たなシステムを志向し、律今と不可分の嫡系継承に帰結していった。しかし、この間の混乱や多様な継承の現象は、その根底に双方的親族集団・血縁原理が強く働いていたからではないか、という見解を提示している。まず、本書の全体をつかむため、構成を次に掲げることにしよう。
(目次省略)
 これらの原稿は皆、『日本書紀研究』や『続日本紀研究』などに発表された論考である。以下、簡単に内容を紹介しよう。
 第一編の「王位継承の諸相」について。第一章では、継体天皇が応神天皇の「五世孫」とする伝承の再検計を行ない、記の「命」「王」称号や紀の「王」「姫」称号の実例から、五世孫までが皇親の範囲とされていたとする。また、上宮記一云の系譜は記紀成立後に完成したもので、後世の五世孫知識から継体の出自が造作されたとする説を裏づけている。第二章では、書紀では継体紀に欽明天皇を指してのみ「嫡子」の用語が使われているが、これは編纂時に新しく令制の観念に従って継嗣たることを正当化しようとしたもので、当時、王位継承の混乱(二王朝併立)も想定されてよいとする。第三章では、大后・皇后の本質は天寿国繍帳銘からも知られるごとく有力な大王位継承者の生母ということで、成立は欽明大后の堅塩媛に求められるという。その付論で、大兄制とそれを補強する大后の役割とを確認している。第四章では、嫡系継承の維持のために中継ぎとしての女帝があらわれたが、嫡系そのものの孝謙・称徳は男の天皇と何ら変わらず、それゆえに不婚のまま血統が断絶する運令にあったとする。第五章では、六〜八世紀の王位継承について、直系継承を志向して大后―大兄制・女帝という「一種の政治形態」が案出されたが、王位継承「法」として「不改常典」が制定されて嫡系継承の律令天皇が出現した。しかし、官僚制の比重が高まると王位継承も重要性を失い、かつての傍系継承が復活する、という。
第二編の「親族形態の諸相」について。第一章では、中国の「祖」が曽高祖を含むのに対して、日本では祖父母までとみなされ、古代のキンドレッド的親族集団は直系が祖孫・傍系がイトコまでと述べている。第二章では日本の律今における「外祖父母」の地位は高くて、「祖父母」と大差ない扱いをうけており、これは親族集団の双方的性格を裏づけるとされる。第三章では、唐制の袒免親の範囲が高祖(四世祖)の兄弟から分枝した傍系親などで、五世祖(孫)自体は含まれていなかったと指摘した。袒免親の規定は「皇親」に書き換えられて継受しているが、日本の皇親は直系の五世孫を含んでおり、継嗣令の「自親王五世、雖得王名、不在皇親之限」という規定は有名無実化する運命にあったとする。第四章では、大化の男女の法が父方母方への帰属が第一義的で、その際母の身分が決定的であったのに対し、律令法では身分確定に主眼がおかれて父方母方への帰属は二義的であった、と所生子の帰属の本質的相違を指摘する。第五章では、公式令平出条の日唐比較を通じて、日本令には古代天皇の血縁原理が反映されているとし、天皇の先祖一般に対する尊称がないこと、必ずしも生母ではない「先后」が削除されていること、天皇の生母に対する尊称が重視されていること、などを指摘している。
皇親の親族関係を示す用語を一つ一つ批判的に検討を加えて、その背後にある親族形態を解明する、というところに、著者特有の研究方法を認めることができるだろう。
 それでは、疑問に感じた点を一つあげてみたい。それは、「継体紀の『五世孫』について」「古代親等制小考」で論じられている五世孫・皇族の範囲をめぐる問題である。著者は、記紀を詳細に調査して天皇の五世孫までは皇族とみなされ、それ以下の血縁者になると皇族扱いされない、ということを論証した。それに対して、令制(継嗣令の規定)では五世王は皇親の外に置かれていて唐制の袒免親(直系五世孫は含まれない)の影響が考えられるとする。ここまでは納得がいくのであるが、天武・持統朝ごろから延暦十七年までの一五年間に皇親は実際に五世孫まで含んでいて、記紀と同じ認識であった、ということの評価について、ひっかかる点がある。これを「令制の五世孫知識」とみなしていいのだろうか、ということである。「令制」とは、一般には大宝=養老令を意味するもので、令制の皇親とは四世王までということになる。一方、記紀・続紀などに見られる五世孫までを皇親とする認識は、日本古来の伝統的な観念を反映している、と考えることが可能である。だが、著者はこの認識は天武朝あたりの成立とみなし、令制の知識によるもの、とするのであるが、その理由がよく理解できないのである。私には、著者の論証が「令制の五世孫知識」説を裏づけるものというよりは、否定する内容に感じられるのである。この点が少し気になった。
 恵まれたとは言えない研究条件のもとで、こうして一書を成しえたことを心より祝福して筆を置きたい。忌わしい大震災から五周年を直前にして。
(あかし かずのり 都立江北高校教諭)

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