菅谷務著『近代日本における転換期の思想』
評 者:吉田 俊純
掲載誌:「茨城の思想研究」7(2007.6)


一 本書の方法

 本書の副題は、「地域と物語からの視点」である。茨城という地域性を重視したのは容易に理解できるが、「物語」とは私にとってほかに聞かない概念規定である。著者のいう物語とは、「信念体系を生み出す世界の構造」(六頁)の意味である。人間は物語を生きる。それが自覚化され、正当性が問われるのが転換期である。そのとき人は意識的に世界と自分を再調整して、彼岸的、宗教的世界の物語を創出すると説いている。著者のいう「物語」とは価値体系といったものであろうか。合理的な世界観が動揺するとき、非合理思想が擡頭するのは、一般的に認められている一つの法則である。
 それを物語と表現したところに著者の慧眼がある。本書は歴史書というよりは、評伝である。幅広い著者の教養に支持された自由で闊達な評伝である。著者がいかに豊かな教養の持ち主であるか、たとえば第六章で橘孝三郎を語るのに、アンリ・ベルグソンを取上げるのは当然としても、ほかに近代の代表的な多くのヨーロッパの思想家を取上げる。また、日本人の研究業績のみでなく、B・ウィルソン、イーフー・トゥアン、ア・イ・シフマン、アンナ・ブラムウエル、O・シュペングラーといった欧米の研究者の著作をも縦横に駆使して論じる。さらにまた、精神医学・心理学にも留意するのである。
 したがって、本書を読むものはロマンを感じるに違いない。立場は違っていても、転換期という激動の時代を力強く誠実に生き、思索した人に対して。

二 各章の紹介

 前半の三章は、第一編「「国体論」から「国民国家」へ」にまとめられている。副題が「加波山事件前後」とあるように、三本の論文は内容的にはそれほど関連性をもたない。
 第一章「『新論』における国体論の位相」は、祭祀に着目する。「祭祀」の発見は、水戸学の忠孝一致の思想の根源であったととらえている。「億兆心を一」にするために、天皇祭祀の機能、幽明界の統括・全国祭祀の一元化・非日常的時空間(神話的時間)の創出が説かれた。幽明界の統括の論理を明らかにするために、著者は朱子の鬼神論の検討までしている。
 祭祀=宗教性の意義を説くということは、非合理性に意義を見出すことである。『新論』が、日本が東方に位置する尊い首にあたる国であり、西欧は西の卑しい股脛にあたる国であると決め付けるのは、アレゴリー(寓喩)である。身体になぞらえることにで、各自に国の危機的状況を自分の痛みとして受け止めさせるためだとする。要するに会沢の国体論とは、客観的な概念ではなく、祭祀による「共同幻想」であり、一九世紀、国家的危機に直面して発見・要請された国家論の物語であると説いている。
 第二章は、「思想史的事件としての加波山事件」である。著者は現実にはまだ存在していない近代国民国家のために、死を賭して行動した志士たちの思考と感性のパラダイムが形成された経緯を捜っている。
 彼らの多くは士族であるが、維新を直接体験していない若者であり、小学校教員・代言人・新聞記者といった知識人である。これらの職業は当時、安定した社会的地位をえていなかった。彼らはもっとも先鋭的な反逆児に反転する境界人である。彼らは新聞雑誌を通して、政府の暴政と世界の現状を知っていた。ロシアの暴君アレクサンドル二世の暗殺にも肯定的である。その方向性は日本に向けられる。彼らは欧米の思想と革命の歴史を知っていた。それをモデルとするのみでなく、行動のエトスとしたのである。歴史的使命感のなかに生きることによって、破壊的な行動を実践し、革命的情況を創出しようとしたのである。物語に生きることで、みずからの生に意味づけをしたのである。
 第三章は、「峰間信吉と南北朝正閏問題」である。峰間とは、最初に南北朝正閏問題を提起した人である。彼は現神栖市奥野谷の貧しい農家に生まれた。数え年三歳のときに母を喪い、家を出て数年、母方の祖母に育てられた。継母の生んだ弟に家を譲り、彼は小学校教諭となり、さらに努力して大学教授に立身出世した。その彼が南朝正統論を主張したのは、小学校教員の立場から、児童に天皇中心の国民道徳を教えるのに、天に二日があってはならないからであった。彼には教育者としての使命感があったのである。しかし、彼個人に立ち帰ってみれば、愛する母を幼くして喪って「対象喪失」になった彼は、同様に兄の子を嗣子とし、南朝正統論を唱えた徳川光圀を尊敬した。それは、理念的な次元での補償と自己回復の作業であった。こうした彼の心情と支配イデオロギー「家族国家観」が交差したところに、教科書問題において彼の南朝正統論が展開されたのである。

 後半の四章は、第二編「「国家」と「超国家」とのあいだ」にまとめられている。副題に「血盟団と農本主義」とあるように緊密に結びついている。とくに第五章以下は、橘孝三郎をあつかっている。
 第四章は、「血盟団と五・一五事件の思想史」である。著者はこの時代を大衆化社会、既成の秩序から解放され、カリスマに帰依して内外の世界を混同し、パッションによって行動する群衆の時代への転換期とみる。暗殺団に参加した青年たちは、地域共同体から切り離されて、群衆予備軍になる条件にあった。彼らの思想形成を古内栄司を例にみてみると、彼にはこの時代の符牒といえる「煩悶」があった。国体論の押し付けから生じたのである。それが井上日召の下で生命への覚醒をもち、自分の生命が天皇だと確信した。ここに国家改造の運動が国体の発揚であり、生命の活動であるとの革命観を抱いたのである。生命の思想が暴力的な直接行動に導いたのは、橘孝三郎も同じであった。かくして彼らは、宇宙生命論によって国家改造を唱えるカリスマ井上に帰依して、ともに大生命の活動に参入したのであった。
 第五章は、「橘孝三郎に見る時代と煩悶」である。橘がなぜテロに走ったのか、一種の物語論・意味論からのアプローチであるという。その理由として従来、農村不況が大きく取上げられてきたが、著者はこの視点に立たない。都市的な大衆消費社会が農村にも浸透し、農村が危機に陥った点に着目する。時代が大きく変わろうとしていた。これに対して、彼は共同・融合・自然というロマン主義的な理想に基づく農本主義を提示する。この彼の視点は、すでに一高退学前年の一九一四年に書かれた「同類意識的精神性」に認めることができる。そこでは社会は、物質ではなく心理によって結合されている、人間たる所以は自然と一体になることであると説かれている。彼の思想形成は時代の大状況からだけではなかった。彼は中学を落第して親にあわせる顔をなくした。偉くなり、真理を究め、親孝行をしようと猛勉強をして一高に入り、さらに猛勉強を続けて神経症になつた。こうしたなかで、物質的な名誉でなく、神の意思に従って生きる回心を彼はえたのである。
 第六章は、「橘孝三郎に見る農本主義思想の位相」である。ここで著者は五・一五に決起した彼の思想的論拠を捜っている。キリスト教的な雰囲気の兄弟農場を始めた彼は、一九三一年に『農村学』を執筆した。その原理論は生産二次性原理と命名され、物質的な工業に対して生命的な農業を讃えるものであった。その歴史観は創造進化的歴史観であり、農民の救済と理想世界実現のための使命を帯びた農民を予見する。彼の農本主義は特異なものではなく、二〇世紀初頭の欧米と日本の時代思潮にみあうものであった。それが決起へと結びつくのは、一つにはベルグソン哲学のよって理論構成をしていたからである。特権的個人による「愛の飛躍」(エラン・ダムール)は、絶えざる動きの内側から目的を直感的に創造し続ける行動そのものであった。彼はまたエコロジズムからも影響を受けた。ここから彼は、スケープゴートとしての資本主義をみすえるのである。
 第七章は、「橘孝三郎に見る超国家主義思想の位相」である。小菅刑務所の独居房に入れられた彼は、そこで新たな物語を紡ぎ始めた。それは「日本皇道国体本義」によれば、日本は古代以来、アラヒトガミ(現人神)を中心として、マゴコロによって結ばれた宗教的国民体国家社会である。今こそ日本は全人類を救済する世界史的使命を遂行すべきときである。そのために国内外の改造を実行しなければならないと説いた。マゴコロとはベルグソンの「エラン・ヴィタル」に最も近く、儒教用語では「天地正大の気」「浩然の気」というべきものであるという。建国以来の皇道、マゴコロによって世界を共同社会に導くのである。彼は宗教者である。彼は神話を歴史化し、歴史を神話化したのである。彼は戦後、五五年以降に著作活動を再開した。そこではそれまでの最高神天照大神のうえに、創造神高皇産霊神がすえられる。この神による世界秩序の回復、日本の再出発が期待されたのである。

三 歴史のための弁明

 著者は政治学科出身である。読者を読んで魅了させる幅広い教養は、多様な要素を視野に入れなければならない政治学から培われたものである。それが本書の美点となつているのであるが、本書が対象としたのは過去の近代である。それは歴史上の問題である。そこに歴史を学ぶ私としては、大きな問題点を指摘しなければならない。それは、著者は歴史学を誤解しているのではないかと思われる点である。具体的に指摘しよう。
 著者は「変化のなかに不変のものを感じ取る感覚、すなわち歴史意識」(八頁)と歴史意識を規定する。しかし、歴史学の基本は変わるということを認識することである。したがって、歴史意識とは不変性の認識ではなく、いかにして形成されてきたかの認識である。日本の天皇制といえども古代以来、同質的に一貫したものではありえないのである。
 より重要な点は、J・ブルーナーに依拠して次のように述べる点である(一三四・一三五頁)。

 J・ブルーナーが指摘する思考様式の二つの基本形、「論証的思考」と「物語的思考」との対立という問題が存在している。(中略)歴史実証主義とは、対象を感覚でき、測可能なものに限定することによって事実認識の正確さを期すことを目的とする近代自然科学の方法を歴史研究に転用したものであり、これを支えている方法論が論証的思考である。(中略)それは(物語的思考−吉田)、その人の特殊な観点、すなわち主観性からなされる歴史認識のかたちで、「歴史は歴史家自身が歴史のただ中に立ち、歴史のうちに役割をもつときにのみ意味をもってくるのである」といわれるように、歴史に責任を持つ人の思考の行為としての決断によって意味づけられる認識である。

 右の二説のうち、著者は後者の立場に立つ。前者を否定する理由は、「歴史本来の多様性と流動性、いいかえれば、歴史的事実に対する無限の解釈可能性が切り捨てられ、一つの解釈が「事実」として固定化されることによって、文字どおりの意味で「イデオロギー」化(して脱カ)しまう」からである。後者に立つ理由は、「このほうが、現在を生きるわれわれが「当時の現在」を生きた彼らの動きを、豊かな解釈可能性を持った「出来事それ自体」として捉えることができる」からである。(一七七頁)。ここで二点、問題点を指摘できる。一つは実証主義であり、もう一つは解釈である。
 歴史学とはいかなる任務を負った学問であるのか。それは過去の総体を総合する学問である。地域・時代・分野を総合するのである。もちろん、個々の研究者にはできないが、個々も努力しなければならない歴史学全体として負っている任務である。過去の事実は明らかでないもののほうが圧倒的に多い。そこで歴史学は事実の確認作業をする。そのために史料の内的・外的批判をする。外的とは材質や文字などから真贋などの判定をすることである。内的とは内容的な検討である。歴史学は批判の学なのである。このように実証的に史実を確定するが、これが歴史学の仕事の全部ではない。実証的に史実を確定する作業は、歴史学者でなくとも、むずかしいができるし、なによりも歴史学の任務がある。総合すること、そのための努力である。実証主義は歴史学の必要条件にしかすぎない。
 明らかにされた過去の事実=史実は、史実のほんの一部である。また、それだけでは羅列にしかすぎない。それを総合するために、歴史家は史実と史実の関係を解釈する。解釈とは確定することではない。あくまでも合理的に筋道立った論理で説明する仮説である。そのために、歴史家は社会科学の成果を利用するし、先学の研究成果を尊重する。歴史学が社会科学といわれる所以である。歴史学は仮説を唱える解釈学なのである。
 歴史家が批判・解釈するとき、歴史観の問題は免れられない。今に生きる歴史家は、今の時点から発想しているのであるから、そこから問題意識をもって歴史研究に励むことは、よい研究成果をもたらす一大要因である。しかし、だからといって、本人の今の視点・問題意識でのみ批判し解釈してはならない。むしろ史料自身に学ぶ謙虚さが求められる。過去は現在とは違う、異質で未知の世界だからである。この原則は近代史・現代史とても同様である。
 歴史学は解釈学にとどまる。なぜならば、歴史学は自然科学と違って実験ができないからである。社会科学のように世論調査・試行錯誤といった擬似実験もできない。歴史学は真実のもしくは確かな意味での証明ができない学問であることを、歴史家は厳しく自覚しなければならないのである。

四 歴史学からの批判

 ここでは歴史学の立場から、二、三の事例をあげて批判する。
 歴史学は方法的に不確かな学問である。逆にそれ故にこそ、厳格さが求められる学問である。そのために歴史学は史料を読み込み、史料自身に学ぶのである。著者はこの原則に忠実であろうか。第一章の水戸学論で確認しよう。
 正志斎の『新論』は、儒教理論に基づいて神道を説く。儒教理論の豊かな知識が要請される。著者にはそれが不足しているようである。たとえば、「国体上」の次の冒頭の言葉を引用する(二三頁)。

 帝王の恃んで以て四海を保ち、久安長治、天下動揺せざる所の者は、万民を畏服せしめて、一世を把持するの謂にはあらず。而して、億兆心を一にして、皆其の上に親しみ、而も離るゝに忍びざるの実、誠に恃むべきなり。

 そして、この文を解説して次のように述べる(二四頁)。

 冒頭、会沢は、政治支配の要諦について述べ、上からの強制ではなく人々が自発的に統治者に親しみ、親愛の情を抱くことにこそ一国を安泰に保つための「誠に恃むべき」力があることを強調しているのである。

 この解説は不正確である。第一に「帝王」とは、一国ではなく、その世界の支配者であるべきである。また「四海」とは、中華帝国の四囲、化外の民の住む「四晦」の意味か、より正確には古代中国の世界観である、陸のはては海、四海に囲まれているとの認識からきたものである。したがって、この文の前半部分の意味は、「帝王が化外の民の住む世界のはてまでも支配して、安定的に国家を統治するためには」である。
 もう一点、儒教理論の問題を指摘しておくと、中国人の死生観である父子は一気の意味は、本人は死ぬのだけれども、子孫の中に生き続けると考えるのである。それ故に、我が身は自分のものでなく、父祖の遺体であると認めるのである。死後の世界はないとする無鬼論を唱えた朱子も、それ故に誠敬を以て祭ることを説くのである。
 朱子は無鬼論であったが、通俗的には朱子学も次のような有鬼論であった。鬼とは死者の霊、神とは不可解な自然の作用を意味するが、両者はおうおう混同される。そして陰陽・魂魄の論と融合して、死とは陽気である魂と陰気である魄とが分離することで、魂は天に昇って散り、魄は地に帰して朽ちる。しかし、天に散る魂気はただちに散りきらないで子孫の上にある。そこで、子孫が祭れば感応すると。朱子の弟子たちもこう考え、執拗に朱子に質問した。正志斎はこの説に従っているのである。
 ところで、朱子の鬼神論に基づく祭祀の理解で、帝王が天を祭る国家祭祀の問題は説明できたであろうか。疑問とせざるをえない。正志斎の国体論は徂徠学に基づいているとするのが通説的見解である。徂徠学は古代社会を祭祀の共同体としてとらえているのである。ここにもう一点、著者の欠点を指摘しなければならない。著者は「諸先学の業績を参照しながら」(二二頁)と断っているが、およそ評価できないコシュマンを称賛する以外に、水戸学と関連した研究に依拠していない。私の研究もまったく参照されていない。もし著者が水戸学関係の先行研究を広く参照していたとしたら、もっと確実で重厚な議論となったであろうと惜しまれてならない。

 視点を変えて、別の問題を指摘しよう。著者は幅広い教養に基づき、社会科学のみならず精神医学にまで及ぶ先行研究を豊富に活用して論旨を展開する。その適正さは問われなければならない。その典型として、橘孝三郎のベルグソン理解をここでは取上げる。
 ベルグソン哲学とは、自由のための哲学である。自由を追求し選択するという考えを改めて、時間軸に置き換えたのである。過去から現在・未来へと進行する時間のなかにあって、人間は過去から現在に至る全意識過程に答えるような心構えを創造する。この全人格的な決断、主体的な判断にこそ自由は認められるとするのである。しかし、一般の人々は社会関係などのために、そうはできない。彼らは疎外のなかにいるのである。それができるのは天才である。しかし、生物が環境に適応して新しい種を作り、創造的進化を遂げてきたように(エラン・ヴィタール)、歴史と文化をもつ人間において、創造的行為は愛に裏付けられているが故に、かならず次代のためによい結果をもたらす(エラン・ダムール)のである。なおベルグソン哲学は、道徳・倫理の哲学であって、政治活動への言及はない。
 たしかに橘はベルグソンの用語と論旨を使った。しかし、彼にベルグソンのいう自由と人間解放の思想があったであろうか。物理学・生物学・心理学・数学などの自然科学の教養がどこまであったであろうか。彼にあるのは農村の旧態依然たる家族制度的共同体的関係であり、あやしげな神々に身を委ねる自我の未確立ではないだろうか。ベルグソンに学んでいるとは、興味深い事実である。しかし、その実体、いかに異質であるかは正確に論述されなければならない。

 私は歴史学を学ぶ者である。したがって、史料に基づき厳格に論述することを求める。そのために、かなり辛口の批評になってしまった。これに対して、だから歴史家の書くものはおもしろくないとの反評があって、しかるべきである。本書は私の辛口の批評にもかかわらず、著者の研究熱心さから得られた幅広い教養に支えられて、多様な角度から対象とした人物・事件を論評している。その豊富な視点は一読に値するものであり、読者を魅了してやまない好著である。


詳細へ 注文へ 戻る