丹和浩著『近世庶民教育と出版文化−「往来物」制作の背景−』
評 者:松本 望
掲載誌:「ヒストリア」201(2006.9)


 往来物の先行研究については、教育史・国文学・国語学など様々な研究分野で、多数確認することができる。本書は膨大な往来物の研究成果に、江戸時代の出版文化に関する研究成果をあわせて考察することにより、往来物の新たな側面を見出すことを試みたものである。
 具体的な方法としては、対象となる事柄を定めてデータを多く集めて見ていく方法と、一人の作家を扱って、そこから立ち現れる情報を組み立てて、その作家の手になる往来物の個性を浮き彫りにする方法(一一頁)を採っている。
 前者の方法を採っているのは、往来物の巻頭・巻末・頭書に書かれた「七夕歌」に関する論考(第三章第一節)と、大坂冬の陣の直前に徳川家康と豊臣秀頼との間で交わされた書状という設定の『大坂進状』『同返状』が素材となっている論考(第一章第二節)である。「七夕歌」に関する論考では、「七夕歌」の典拠を詳細に調査し、和歌に対する庶民の意識が、「七夕歌」の編集に反映されていることを指摘している。また、『大坂進状』『同返状』に関する論考では、書中に出てくる「家康」の名の改変過程と出版統制との相関関係について考察している。
 後者の方法を採っているのは、近世後期戯作を代表する二人の作家−十返舎一九・曲亭馬琴−を取り上げた論考である。十返舎一九に関する論考(第二章第一節)では、文政期に出版された往来物に焦点を当て、直接依拠した素材とその性格を明らかにすることで、一九の往来物に対する関わり方や意識、また出版書肆との関係について論じている。一方、曲亭馬琴に関する論考(第二章第二節)においては、馬琴著の往来物『雅俗要文』の成立過程やその内容を検討している。また周辺史料として『馬琴日記』や『南総里見八犬伝』の「回外剰筆」、書簡などから、馬琴の当該書に対する態度や考え方、馬琴の「雅俗」観について論じている。
 本書にはその他、第一章の付論として、「家康」を非難する文言が含まれる『直江状』について考察した論考、第二章の付論として、巌谷小波著『こがね丸』を素材に当時の文章表現における馬琴の存在の大きさについて述べた論考、さらに資料編として、山東京山著『女中用文玉手箱』、曲亭馬琴著『民間當用花鳥文素』『雅俗要文』の三編が収載されている。
 本書で貫かれている意識は、「往来物の新たな側面を見るためには、往来物だけを単独に扱うのではなくて、当代の文化の実態と突き合わせてみることが必要なのではないか」(一二頁)ということである。この意識は、近年の「女大学」や「慶安の御触書」などの史料の読み直しに通じるところがあるように思われる。
 本書を契機に、近世史において往来物利用の可能性が広がることを期待したい。


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