久住真也著『長州戦争と徳川将軍−幕末期畿内の政治空間−』
評 者:白石 烈
掲載誌:「関東近世史研究」62(2007.7)


 本書は幕末の元治元(一八六四)年末から慶応二(一八六六)年後半に至る時期を主要な分析対象とした「政治史研究」である。特に、将軍徳川家茂の長期畿内滞在にいたる「過程と背景を、具体的な史実の分析を通して内在的、系統的に解明」し、「新たな歴史的位置づけ」を試みた(序章、七頁)点に特徴がある。本書の構成は以下の通り(節・項は省略)。

序章  本書の分析視角
第一章 徳川幕府の復古と改革
第二章 第一次長州出兵と元治元年の政治情勢
第三章 慶応元年将軍進発態勢の創出
第四章 長州再征遂行主体の形成と環境整備
第五章 板倉・小笠原の政治路線
第六章 長州処分執行態勢の確立
終章  将軍畿内滞在態勢への道

 まず、序章では本書の分析視角について、「長州戦争」・「政治体制」・「幕政改革」に関する研究史整理が行われている。そして、文久の幕政改革を契機に生じた幕府内対立が、後の長州戦争執行に関わりつつ政治体制確立の課題と密接に関係していく、との本書の基本的な視座が提示される。

 第一章では徳川幕府内において文久改革を否定した勢力(「復古派」)の政策基調・イデオロギー・人的構成、および対抗勢力の路線などが検討されている。復古派は「幕府専断を夢見る復古のイデオロギー」を持ち、開国派官吏の進出を起源とし、南紀派の流れをくむ「守旧的な老中(宮廷政治型)」と、旗本出身で外交実務に通じた「老中(実務型)とが混在していた」と指摘。特に南紀派の流れをくむ宮廷政治型老中が中心だったとされている(七五頁)。一方、復古派と対立する旧文久改革派は能動的な将軍を求め、将軍徳川家茂を復古派から引き離す将軍畿内滞在構想を推進した。同構想は「畿内において朝幕両者を中心とした新たな政治空間」の創出が目指された、「政治体制の死活に関わる重要課題」だったとされ(八八頁)、本書内容の重要な柱のひとつとなっている。

 第二章は、第一次長州出兵をめぐる政局に関して、軍事動員されたにもかかわらず早期解兵路線が生み出された基本的要因の考察が目的とされている。
 先行研究が薩摩藩士西郷隆盛や征長総督徳川慶勝の「共和政治路線」を重視するのに対して、著者はいずれも否定し、早期解兵の要因は従軍諸藩の疲弊など様々な要因があり単純ではないとしながらも、将軍自らが出陣する将軍進発を幕府復古派が実行しなかったためとしている。

 第三章は、長州再征のきっかけとなった慶応元年五月の将軍進発にいたる過程を、朝幕間矛盾の解消へ向けての政治過程の中に位置づけることが目的とされている。
 特に、将軍上洛(上坂)をめぐる朝廷・幕府双方の発令内容および発令過程の詳細な分析により、長州再征(将軍進発)は「朝廷からの上洛催促を受け続ける悪循環を断ち切り」、「幕府が政局の主導権を握るような新たな状況を創出する」ために復古派によって発令されたものと指摘されている(一八二頁)。

 第四章は、将軍徳川家茂上洛以降の長州再征遂行主体やそのための環境整備について検討されている。ここでは、長州政策が将軍を大坂に長期滞在させることを要とする一会桑の構想に沿って進められていったことが重要視され、これらが伏線となり慶応元年一〇月の幕府内政変により復古派が退けられたと述べられる。そして、「幕末日本が畿内を中心にしてまとまる方向に、大きく前進したという点」に意義が求められている(二五四頁)。

 第五章では、一〇月政変で登場した二人の老中(板倉勝静・小笠原長行)による幕政の特質が検討されている。その結果、対外方針・国内方針ともに「一会桑と同様」(二八七頁)とされ、旧文久改革派に属するとの指摘が再度明確にされている。

 第六章では、長州処分が、一会桑と板倉・小笠原との対立および天皇・朝廷の関与を経て決定されたことが明らかにされる。そして、「長州再征問題は一会桑や板倉・小笠原などとは敵対する幕府復古派によって引き起こされたもの」だったが、一会桑らは「復古派幕閣による負債を抱え込みつつ長州再征を遂行しなければならなかった」(三二八頁)と、本書における長州再征の特徴的評価が下されている。

 終章では本書の要点および今後の課題が述べられている。特に、「畿内を主要な基盤」とした将軍徳川慶喜について、「家茂期に育まれた将軍畿内滞在態勢という道筋の延長上にあった」と位置づけている。それは「戦争態勢のための将軍の畿内滞在を、漸進的に国政施行のためのものへと転換させることを望んだ」「諸藩の輿論」によるものであったことも重視されている。それらの結果、新たな幕政改革や朝幕関係のあり方をめぐる新たな課題が発生し、「長州戦争によって、明治維新の政治過程における新たな段階(ステージ)が用意された」との結論に至っている(三四六頁)。

 このような内容の本書であるが、何といってもその緻密な政局分析の量の多さには驚かされる。幕末期の政治史研究は主に一九九〇年代以降実証的な研究が増えており、その意味で本書は近年の研究状況の影響をうけてのものといえる。しかし、そうはいってもこれほどの実証作業量は本書の特徴として何より挙げなければならないだろう。

 では、具体的に本書の内容について言及していこう。本書の評価点としてまず指摘できるのは、従来重要視されることが少なかった長州戦争(長州征伐および長州再征)が、実は当該期のより大きな政治問題として存在していたことを証明した点である。長州征伐(特に長州再征)については徳川幕府が強行した無謀な政策で、諸藩の離反と幕府権威の失墜を招いた象徴的事件として捉えられることが多かったかと思う。しかし、本書の内容を読めば豊富な史料と事例分析により、長州戦争は朝廷・幕府・諸藩などの政治体制内における位置づけをめぐって様々な勢力の連携と対抗とに結びついていたことが明らかにされる。また、長州再征は当初企図された段階と開戦した段階とでは担っていた勢力が異なるものであったことなど、当該期のより複雑な政争の一端が浮き彫りになっている。おそらく今後当該期の政局を理解しょうとする場合、長州戦争と政局との関連に目配りせずに分析することは本書の登場によって困難になったのではないだろうか。

 次に、国内政局を分析する際に徳川幕府を軽視する視点に強く警鐘を鳴らしたことも本書の評価点である。近年、当該期の国内政治における孝明天皇や朝廷の存在を最大限重視し、それを「孝明新政府」または「孝明政権」と定義する研究も発表されている(1)。いずれも近年の幕末政治史研究の成果(特に一会桑研究)をふまえる形で論じられているが、他方で徳川幕府本体を正面から捉えた分析が抜けているのが問題であると感じている。その点、著者は朝廷の存在を十分考慮したうえで「当時の最高国家意志の決定権を掌握」していたのはあくまで「将軍・幕府」であることを強調している(一五頁)。この点は従来大名合議政治への志向とされていた征長総督徳川慶勝の構想について、将軍抜きでの合議構想ではなかったとの指摘(一五五〜一五六頁など)に結びついている。幕末の国家的枠組みを考察する際に、やはり徳川幕府の存在を抜きにしては語れないことをあらためて主張した点は重要だろう。

 それと関連して、徳川幕府内部に存在した様々な勢力を重層的に描いた点も成果であろう。幕府内勢力では近年一会桑勢力に注目が集まることが多いが、著者は同勢力も含めた形で朝廷や有志諸藩との連携を目指した旧文久改革派と定義している。他方、江戸にあって同派とは対立した幕閣を復古派とすると同時に、さらに復古派内でも忌避される傾向にあった実務官僚の存在(小栗忠順・水野忠徳)など、幕府内でも複雑に入り組んでいた勢力図が述べられている。特に水野家文書などの各種未刊行史料を活用した点は、従来の幕府研究の環境(残存史料の少なさなど)を考えた際に評価されるべきだろう。

 また、長州戦争をめぐる諸事例の政策決定過程をも明らかにすることによって、各勢力が自己の目指す政治体制実現に向けて行った多様な活動と駆け引きが抽出されている。本書を丹念に読むと、これらの活動はその実現度によって「願望」→「構想」→「態勢」→「体制」と区別されており、政局の実態を詳細に描くことに繋がっているといえよう。

 そして、これらの主張は分析時期内の政局をできるだけ正確に復元しようとする姿勢によって裏付けられている。著者のこの姿勢は特に長州戦争の実態分析の際に発揮され、基本的には時系列に沿う形で新たな事例や政局の実態が次々に明らかにされている。

 しかし、このように注目すべき成果が盛り込まれている本書ではあるが、一方で気になった点も存在する。

 まず、旧文久改革派・復古派双方からその「掌握」が目指された将軍徳川家茂について。著者は「幕政の最終的な決定権を握っている」(二三頁)のは将軍だとして注目するが、両勢力が欲したのは家茂個人の資質なのか、それとも幕政内における将軍の制度的な役割の方だったのか分かりにくく感じた。たとえば、本書で述べられる文久改革の新方針も、それを否定する復古政策(参勤交代復旧策など)も、共に将軍徳川家茂施政下のものである。これら正反対の方針をどちらも同一人物の承認により発令されたのだとしたら、将軍家茂には一貫した政治構想が存在したのかどうか疑問がわく。

 一方、将軍個人の構想の有無が問題ではないとしたら、幕府政治における将軍と老中等の関係について、制度的な説明が必要だろう。この点は将軍家茂が積極的だった将軍進発も、それ以後幕府内で後退していったという指摘(一〇六頁)や、「将軍の意志形成には、側近勢力の意向が大きな影響を与える」(二四四頁)との指摘が興味深い。将軍家茂個人の意見と老中等の意見が異なった場合、どのような審議過程になるのだろうか。これら幕政における将軍と老中等の関係については近世史研究でも議論があるところであり、将軍を重視する本書の立場からすれば先行研究への言及も含めて、序章内に一節を設けるなどの形で整理した方がよかったのではないだろうか。

 次に、本書全体の傾向として、時系列に沿った記述を大事にしすぎているのではないかと感じた。たとえば板倉勝静・小笠原長行両老中の分析をした第五章。たしかに両老中が就任したのが第四章で述べられた一〇月政変以後なのでこの章であるのはおかしくない。しかし、両老中が旧文久改革派に属するとの指摘は既に第二章でもされており、その評価が第五章でも変わっていない以上、章をまとめるなどしてもよかったのではないだろうか。また、長州戦争に対する朝廷の関与を分析した第六章も同様である。孝明天皇の征長への固い意志は本書引用史料以外にも多数確認できるので著者の解釈に問題はない。しかし、朝廷の関与もこの段階に至って初めて登場したものでもないと思われる。元治元年禁門の変後の親長州系公家の処分など、他の事例も含めて、本書全体のなかで朝廷を分析する意義に言及するなど、論点提示の方法を考えてもよかったのではないだろうか。

 次に、評者が最も疑問に感じたのは、本書をひとつの論として読んだ場合の論理構成についてである。具体的には、本書の大きな分析軸である長州戦争と将軍畿内滞在構想に関する分析の比重が逆になっているのではないか、という点である。

 まず、長州戦争が最終的に持った意味について、著者は朝廷・幕府両者の権威失墜と国内政治の無秩序化の進行という「極めて明確かつ単純なものにとどまるだろう」と述べている。たしかにこれでは先行研究と変わらない。しかし、著者は長州戦争が研究に値する事例だとする理由に、将軍畿内滞在構想との繋がりを挙げているのである(終章、三四〇〜三四一頁)。長州戦争が政治体制構築問題と不可分だったことを証明した本書からすればこの説明自体問題はない。だが、そのような捉え方をするのなら、長州戦争とは将軍畿内滞在構想を加速させた“材料”のひとつだったことになり、真に分析しなければならない問題はむしろ将軍畿内滞在構想の方だったことになるのではないだろうか。つまり、両問題が密接不可分の関係にあることを主張するにしても、よく読めば長州戦争を従、将軍畿内滞在構想を主とする問題設定になっているように思われた。事実、将軍畿内滞在構想は著者が重視した長州戦争を起源として構想されたものではなく、それ以前の文久年間には既に登場していたことは著者自身が指摘しているのである(八五〜八七頁)。

 ところが、著者が「独自の観点」として同構想を分析した内容は、将軍を畿内に常駐させた客観的要因や条件の抽出と、将軍徳川慶喜へ連続する可能性の指摘(三四二〜三四五頁)にとどまり、具体的に踏み込んだ評価は今後の課題になってしまっている。しかし、序章冒頭で掲げられたように、将軍畿内滞在構想の「新たな歴史的位置づけ」は本書の重要な課題のひとつだったはずである。徳川慶書への繋がりの可能性を指摘することがこの課題への答えとして十分なものになっているだろうか。

 評者がこのような戸惑いを感じたのも、将軍畿内滞在構想を考える際に興味深い先行研究があるからである。

 ひとりは著者も同構想に着目した研究者として引用している宮地正人氏である。宮地氏は幕末期を分析するに際して“過渡期”という視角を重視し、その視角のなかで将軍畿内滞在構想が取り上げられている。しかし、それは同構想の先に宮地氏がいうところの「近代天皇制国家」を展望しているからである(2)。つまり、同氏にとって将軍畿内滞在問題は近代日本を分析するにあたっての“手段”であり“目的”にはなっていないといえよう。そうである以上、将軍畿内滞在構想に着目した本書はもう少し踏み込んだ見解を示す必要があったのではないだろうか。

 もうひとりは高橋富雄氏である。高橋氏は、幕府とは制度上京都の外にあることを前提として誕生したものとし、その観点から鎌倉・室町・江戸の各幕府の特質と性格の変質を論じている。そこでは、京都の外にできた鎌倉幕府と江戸幕府では朝廷の相対化志向が強く、他方京都の中にできた室町幕府では朝廷機能を内部に取り込んだ(「幕府の朝廷化(公方化)」)とされている。今日の研究からすれば細かな点で議論も起きようが、いずれにせよ武家政権である幕府にとって、京都との距離はその性格を大きく規定する要素という論点が提示されている(3)。将軍が長期間江戸を離れることが旧来の徳川幕府からみて「異常な態勢」(八頁)であることは著者の言う通りであるが、高橋氏のような指摘を考えると、三代将軍徳川家光以来上洛を行わなかった徳川幕府が幕末期にいたって再び京都を目指しだしたことの意味を、より大きな枠組みで考察できるのではないかと感じた。

 そして、上記のような疑問を評者が感じたのも、そもそも本書の分析時期が長州再征の失敗した慶応二年後半で終わってしまっていることと関係しているように思われる。従来の幕末史研究が、慶応三年迄(大政奉還・王政復古など)を含めて考察してきたことを考えると、慶応二年後半迄という著者の時期設定は斬新かつ独自のものといえる。しかし、既述した将軍畿内滞在構想の問題以外にも、長州処分の最終的解決・旧文久改革派と協力的だった諸藩(輿論)の評価・長州再征後の江戸幕閣の動向など、本書内では長州戦争の実態解明のために様々な事例が登場する一方で、慶応二年だけでは分析しきれぬまま最終的評価が今後の課題に持ち越されたものが複数存在しているように思われる。読者が解答提示を望むであろう論点と、著者の持つ問題意識とを考えると、本書の時期設定は最適なものだったのかどうか考える必要があるのではないだろうか。これは言い換えれば本書を貫く実証作業を重んじる姿勢が、“両刃の剣”になってはいないか、ということでもある。

 以上、本書内容に対するコメントを述べさせていただいた。細かな点よりもできるだけ建設的な議論ができるように心懸けたつもりだが、それゆえ著者の問題設定の範囲を超えた指摘もあったかと思う。しかし、それも本書で提起された諸問題が重要な意味を持つと感じられ、それだけ知的好奇心が刺激されたためでもある。どうかご了解いただきたい。

 なお、著者が復古派の起源と捉えた開国派官吏について、その外交政策に注目して積極的に評価する研究は本書でも引用されているが、本書刊行以降も発表され(4)、当該期徳川幕府には本書と異なる要素(側面)があることが強調されている。本書と着目点が異なる以上、当然その評価も相反する部分が多い。おそらく今後も幕府構成員の多様な側面が明らかにされていくと思われる。

 しかし、これらの評価も分析視角が最初から異なる(一方は幕府の国内政策を、もう一方は対外政策を重視している)以上、見解が分かれるのはある意味当然であろう。つまり、それぞれが徳川幕府の一側面を指摘したものであり、同時にどちらか一方だけで当該期徳川幕府全体の評価ができるわけではない。

 そのように考えると今後の徳川幕府研究に真に求められるのは、これら相反する見解を止揚できる統一的な視野ではなかろうか。徳川幕府を総体的に把捉する研究も、そのような広い視点を持つことによって初めて可能になってくると思われる。

 従来蓄積の少なかった幕末期徳川幕府研究ではあるが、その事例分析は確実に蓄積されつつあり、相互議論も可能な段階に入ったとも感じている。本書はそのような議論を可能にする条件を揃え、従来の研究段階をひとつ押し上げる役割を果たしたといえるのではないだろうか。本書が多くの方に読まれ、明治維新研究が発展していくことを願いたい。

 最後に、本書内容に関して誤読・曲解があるとすれば全て評者の責任であることをおことわりしておく。


(1)後藤致人『昭和天皇と近現代日本』(吉川弘文館、二〇〇三年)一一〜一二頁。ジョン・ブリーン「十四代将軍家茂の上洛と孝明政権論」(明治維新史学会編『明治維新と文化』吉川弘文館、二〇〇五年)、同「『孝明政権』の確立と展開」(『中央史学』二九、二〇〇六年)。
(2)宮地正人『天皇制の政治史的研究』(校倉書房、一九八一年)、同『幕末維新期の社会的政治史研究』(岩波書店、一九九九年)。
(3)高橋富雄『征夷大将軍−もう一つの国家主権−』(中公新書、一九八七年)。
(4)奈良勝司「情報戦としての将軍進発問題−将軍進発要請期の江戸幕閣再考−」(佐々木克編『明治維新期の政治文化』思文閣出版、二〇〇五年)、同「横浜鎖港期における徳川政権の動向」(『ヒストリア』一九七、二〇〇五年)、同「小笠原率兵上京再考−新出史料にみる関係者の認識と実態−」(『立命館史学』二七、二〇〇六年)。


詳細へ 注文へ 戻る