白峰 旬著
『幕府権力と城郭統制 修築・監察の実態』(近世史研究叢書16)
評 者:曽根 勇二
掲載誌:「日本歴史」711(2007.8)


 すでに著者は『日本近世城郭史の研究』(校倉書房、一九九八年)『豊臣の城・徳川の城』(同、二〇〇三年)を上梓し、この二冊が主に文献史料の少ない近世前期を対象にしたのに対し、本書は修補・修築の許可および調査と引渡し・受取りという幕府権力の視点から近世城郭の全般を検討したものである。まずは本書の内容から紹介しよう。
 第一章「大名居城の修築と修補申請基準・増改築許可基準」では、江戸時代全般の災害やメンテナンスの必要上で城郭の修補・修築は恒常的に行われたはずであるとの観点から、武家諸法度の条文に依存するだけではなく、老中奉書や修補願絵図等の一次史料で、その実態やそれをめぐる幕府の対応を解明すべきとする。会津若松城(寛文九年〈一六三二〉)は、月番老中へ城郭の全体図および破損箇所の目録を提出して修補が許可されたとし、幕末の上総飯野陣屋の移転事例(文久三年〈一八六三〉)では、増築や改築の申請を大目付・目付が調査するなど、幕府は無制限に許可したのではないともする。また中後期には、当初幕府へ提出した城郭絵図との間には乖離が見られ、武家諸法度の条文が総則でしかなかったともする。さらに数多くの修補・修築の事例から、近世城郭の公共施設(行政府)としての性格を見出し、その築城技術も進化し続けたとする。
 第二章「城郭修補申請方式の変遷」では、大名の申請と幕府の許可をめぐる様々な事例を、武家諸法度(寛永十二年〈一六三五〉令)後の申請方式T(前期)とU(中後期)に大別した。そこでTでは大名は月番老中まで書類を出して申請し、老中の許可を必要としたのは普請だけとする。Uでは大名から出された書類は事前に幕府表右筆組頭がチェックするようになるなど、申請処理業務も統一化されたとする。作事に関する申請方式の事例も検討し、城郭の老朽化が増加する中後期になると、幕府の許可も老中奉書から「付札」に替わるなど簡素化されたと指摘する。つまり次第に増加する作事は武家諸法度の対象外とされ、普請だけが居城補修許可制の範疇に入れられたと理解する。
 第三章「豊後国佐伯城の大修築」は、大規模な新規作事の事例を検討したもの。ここでは櫓の作事に未経験な「御抱えの大工棟梁」を江戸で経験させた事実を挙げ、工期を二つに分けた理由を大名側に連年にわたる作事を続行する財力がなかったためとする。工事が藩主の在府中に実施されたことや、この段階から幕府表右筆が申請許可に関与するようになったことなど、第一・二章で指摘した内容をここで再び確認しており、本章はまさに著者の目指す居城修補・修築の総合・実証的な検討である。
 第四章「公儀隠密による北部九州の城郭調査」は「筑前・筑後・肥前・肥後探索書」という公儀隠密が北部九州の外様大名の居城・城下・領内に関する見聞書を分析したもの。一般の研究者が扱いにくい疑問の多い史料ではあるが、城郭用語等に精通する著者は、その能力を駆使して慎重な史料批判も行っている。
 第五章「公儀隠密による四国七城の城郭調査」も、前章と同様で対象地域が讃岐・伊予・土佐・阿波になっただけである。前章は寛永四年(一六二七)二月〜三月、本章は同年八月〜十月に調査したもので、この四国調査の起点・終点を豊後府内とする。一連の「探索」は幕府(秀忠政権)が直接関与し、それに府内城主竹中重義(元長崎奉行)が助力したとし、元和武家諸法度発布からまもない時期(正保国絵図の徴収前)に行われたことにも注目する。まさに幕府が城郭修補・修築の許可制を整備しつつある時期である。
 第六章「美作国津山城受け取り」では元禄十年(一六九七)の改易大名の居城受け取りを分析した。添目付・代官・城受け取り大名・在番大名等の指揮をはじめ、城受取りのすべてを仕切る上使の動向に着目する。将軍の代理である上使が当該城内本丸に乗り込み、旧藩家老に老中下知状を読み聞かせる「儀式」の意味を考察し、こうして幕府が城郭を軍事制圧したことがアピールされ、近世城郭は幕藩制国家の一行政庁(公共建造物)に化したと許する。
 第七章「石見国浜田城引き渡し」と第八章「陸奥国棚倉城受け取り」は、城の引渡しと受取りの状況を検討したもの。天保七年(一八三六)、松井松平家は浜田城から棚倉城へ転封するが、同家所蔵文書のうち第七章は「浜田城引渡帳」、第八章が「棚倉城請取帳」の分析である。両章とも上使(幕府)が事前の打合わせに多くの時間や労力を費やし、引渡しと受取りの「本番」を短期間にしようとする経緯を明らかにし、この軍事的な儀式は天保期にはマニュアル化されたとみる。城の引取や受取り行為において、上使が監察業務に徹したことからも、この「儀式」を幕府の官僚主義的な業務とみるが、同時に膨大な量の城郭情報が幕府側にストックされたとも指摘する。
 以上が本書の概要である。本書は近世城郭の修補・修築やその調査および引渡し・受取りに関する内容を初めて一次史料で分析したものであり、その先駆的な研究として高く評価されるべきである。特定分野に偏る傾向のある近年の近世史研究において、独自の分野を開拓しようとする著者の努力には敬意を表したい。とくに著者の城郭に関する豊富な専門知識が随所に活かされており、日頃からの精進の賜物であろう。
 城郭研究に疎い私が本書を評するのは躊躇するが、「自戒」をこめた要望を何点か羅列することでその任を全うしたい。

 第一は上使の動向に注目し、城の受取りや引渡し業務が官僚主義的になったことである。幕府権力の官僚制的要素を実証した研究はこれまでも数多くあったが、幕藩制国家の一翼を担う「近世城郭」という分野から分析したことは貴重である。しかも城郭情報がストックされたという指摘も、例えば国絵図徴収が幕府権力による“個別領主の土地所有状況”の把握にあったとすれば、本書の城郭統制も幕府権力の“地方行政庁としての建造物”の管理とも言うべきものになろう。こうした両方を掌握することができなければ、幕府権力の「国土支配」が確立しないとも読み取れるし、新たな幕府権力の集権性も実感できよう。
 しかし問題は本書のように大名居城が「地方行政庁(公共建造物)」とするならば、江戸時代に度々実施された禁裏や大寺社の造営もこのような理念の延長とすべきか。否かである。禁裏や大寺社という「建造物(イデオロギーではないとの意)」に対する幕府の管理および位置づけの問題である。これらは近世史研究全体で議論する問題になろうが、まずは規定する武家諸法度(あるいは禁中並公家諸法度)とは何であったのかを考えるべきである。
 第二は幕府権力の大名居城への介入・監察という観点の本書には愚問かもしれないが、城郭修補をめぐる大名側の実態がやや不明なことである。未経験の「御抱えの大工棟梁」に経験させたことや工期を分けたことだけである。史料的な制約から無理なことも承知するが、大上段に構えた第一の点を解明するためにもこの視点も必要であるし、最後の点とも関わってこよう。
 豊後佐伯城の修築事例を分析し、公儀隠密の四国調査の起点・終点を豊後府内城にするなど、九州の地に注目したことを最後に考えてみよう。これも極めて重要な観点であり、城修補・修築の用材・用具や諸職人等は何処でどのように調達したのか。大名側の物流的支配の動きに対し、幕府権力の対応は如何であったのか。たとえば日田幕領や大坂市場との関係は如何に。当然の如く幕府権力の地域支配に関する視点が出てこよう。これらは近世国家に関する著者独自の見解、九州(あるいは西国)をめぐる幕府権力による地域支配のあり方を伺いたいものである。
(そね・ゆうじ 横浜市八聖殿郷土資料館職員)


詳細へ 注文へ 戻る