下重 清著『幕閣譜代藩の政治構造−相模小田原藩と老中政治−』
評 者:佐藤 宏之
掲載誌:「関東近世史研究」62(2007.7)


 近世大名は、その出自を基準に御三家・徳川一門(家門)・譜代・外様に区分するのが基本的な類別法として定着している。ほかにも拝領高・官位・殿席をはじめ近世大名の類別法は実に多様であり、武家儀礼や大名の序列化が独自の身分内秩序を形成していた。

 しかし、従来の藩政史研究、大名家研究が取り上げてきた分析の対象は、大藩の旧族大名、織豊取立大名に集中する傾向にあり、徳川取立大名の特質についてあまり論じられてこなかった。したがって、階層的には、外様国持大名に、時期的には、幕藩権力の形成・確立期や西南雄藩が台頭し、幕藩権力の解体期とされる幕末期に偏ることとなる。このような分析対象の偏りを指摘する研究は古くからあり、外様藩の成立過程とは全く別の過程を経て成立した藩、すなわち譜代藩研究の必要性が提起されてきた(山口啓二『幕藩制成立史の研究』校倉書房、一九七四年、藤井譲治「譜代藩政成立の様相」『岩波講座日本歴史』第一〇巻、近世二、一九七五年、のち『幕藩領主の権力構造』岩波書店、二〇〇二年所収)。しかし、この提起を受けた研究がこれまでに十分に蓄積されたとはいいがたい。

 外様大名の多くは、関ヶ原の戦い以前は、徳川氏と対等もしくは対抗する位置にあり、古い伝統的な秩序をいかにして幕藩制的な秩序へ変化させていくかという改革の課題を持っていた。一方、譜代藩は幕府あるいは将軍によって創出された藩としての性格を持ち、いかなる藩を創りあげるかという創造の課題を持っていた。このように藩の成立には、戦国大名から近世大名へ、徳川氏の家中から近世大名へという二つのコースがあり、この二つのコースを視野に入れた分析がなおも必要なのである(山口前掲書、藤井前掲書)。

 このような古くて新しい課題に正面から取り組んだのが、本書『幕閣譜代藩の政治構造』といえよう。幕閣譜代藩=小田原藩を事例に、藩主が幕閣となりえる家門・譜代藩が幕藩制国家や社会、あるいはそれらの基本的な仕組みの形成・維持・変容過程に果たした固有の役割を問いただすため、以下のような論文構成が用意される。

序章 譜代藩研究の課題と方法
第一章 徳川忠長の蟄居・改易と「関東御要害」構想−稲葉正勝小田原入封とその軍備−
第二章 「寛永政治」の再構築−寛永一一年家光上洛と幕閣の再編成−
第三章 稲葉氏小田原藩の軍役負担と藩財政
 補論 役負担から見た朝鮮通信使の通行
第四章 幕閣譜代大名の連帯−老中稲葉正則の人脈から見た権力構造−
第五章 譜代大名の権力構造−家臣団と領地支配を中心に−
第六章 老中稲葉正則の人的ネットワーク−黄檗僧鉄牛と河村瑞賢−
終章 幕閣譜代大名と「老中政治」

 序章では、本書の課題と方法が提示される。まず、近年の藩政史研究・個別藩研究をめぐる潮流・研究動向を整理し、共同研究のスタイルをとる一藩完結型の個別藩研究における新たな方法論の模索過程から、「尾張藩社会」あるいは「藩世界」という概念装置が選び取られてきた点に注目する。さらに、藩政史研究・藩領社会研究にあたると判断される文献(著書)および論文のデータ(一万六〇四点)から数量的分析を行い、一九七〇年代後半〜一九八〇年代前半における研究のピーク時においても家門・譜代藩研究は三〇%に過ぎず、外様藩研究は対象藩を替え、方法論を模索しながら新たな展開を見せるが、相対的に見れば家門・譜代藩を対象とする研究が進展を見ていないことを指摘する。そこで藩政史研究を止揚する「藩世界」論の手法を用いて、譜代藩世界というフィルターを通して、幕藩制国家の構造的特質や幕藩制社会に特徴的な秩序・システムの捉え直すことを本書の課題として設定する。

 第一章では、徳川忠長の改易と家光政権のとった「関東御要害」構想とを関わらせて、家光政権における「寛永政治」、特に寛永九(一六三二)年以降の譜代大名配置換えの歴史的前提を探る。「関東御要害」構想は、家光の弟である徳川忠長の常軌を逸した行動に起因して、大御所秀忠・将軍家光の二元政治下で、幕府の政策として展開し、その構想の一つの到達点が忠長改易であり、稲葉正勝の大加増での小田原入封であったと指摘する。これらは幕閣再編成や幕閣譜代大名の再配置、江戸一極権力集中という「寛永政治」のなかで捉えるべきものであった。

 第二章では、家光京都上洛前における幕閣再編成を考察し、二元政治解消の過程で領地を関東外へ移された幕閣譜代大名たちを、政権から排除されたという視点ではなく、幕府の軍制改革・機構整備とからめ、幕閣譜代大名全国再配置の視点から捉え直す。また、この過程を経て成立する「寛永政治」を将軍親裁政権とのみ位置づけるのではなく、家門・譜代大名によって担われた「老中政治」の持つ意味を問い、譜代大名らによる集団的指導体制(「老中政治」)が制度的に確立していたがゆえに、公儀権力が二百数十年間もその権威を保ちえたと位置づける。

 第三章では、稲葉氏治世中の小田原藩家中が勤めたさまざまな軍役の内容と、藩財政に与えた影響を分析する。臨時の軍役ばかりではなく、恒常的な譜代藩の軍役は、将軍権力より押し付けられた強制負担としての側面だけではなく、幕閣譜代大名など特定大名にのみ命じられた名誉な負担であった。そして、この軍役を勤めるために家臣団の増強が図られ、これが家中の家計を苦しめ、かつ江戸藩邸での支出増、数度の藩邸修築藩、小田原城下整備などとともに財政を圧迫する要因ともなったと指摘する。そして、こうした外様藩に対しての臨時軍役とは性質の異なる、平時の軍役に目を向けて、譜代大名の軍役論を再構築する必要性を提起する。さらに譜代大名が分知・分家することで良質の旗本を創出する母体となっており、公儀権力を家門・譜代大名らによる集団的指導体制で下支えし、その子息たちが旗本となって幕府直轄軍を支える、そのような政治構造が機能し始めるのが「寛永政治」から家綱政権にかけての時期であったと位置づける。

 補論では、三都や五街道の圏外に位置する外様大藩の城下町では見えにくい役の問題を、朝鮮通信使が通過する城下町小田原を事例に基本的な仕組みを抽出する。

 第四章では、家光政権から家綱政権、さらに綱吉政権における稲葉正則を展開軸として、集団的指導体制をとって幕閣内で生き残りをはかる新参譜代稲葉家の人脈形成過程を追い、権力構造内部における大名間の横の連帯(=融合)を指摘する。幕藩体制の基本スタイルは将軍専制であり、集団的指導体制はそれを下支えする組織であった。その構成員には、公儀権力を下支えする「老中政治」に寄与しえる個人的資質・力量が求められ、将軍権威をないがしろにする恐れが出てくると権力内部より排除された。この「老中政治」および集団的指導体制という機構は、構成員の新陳代謝に気を配った組緑であり、内部に対立構造を抱え込まないように仕組まれた組織であったと位置づける。

 第五章では、藩主と重臣・家臣団との紐帯や家中「役人」・窮乏家臣対策の問題を解き明かしながら、成立期家臣団の構造に分析を加える。あわせて、領民代表の江戸出張御目見え儀礼を通して、譜代藩主にとっての領民統制の意味合いを考察する。若年で藩主の座についた稲葉正則は、家中・領民との間にしっかりとした人間関係を築こうと努め、将軍の「御為」に帰結する譜代大名としての奉公・勤めを全うするための組織、藩政運営を任せるに足る家老・重臣集団の形成と、さまざまな軍役や普請役の負担に耐えうる家臣団の編成に腐心する。また、帰城ごとに御礼参上していた儀礼は、江戸藩邸で行う出張御目見え儀礼へと変化し、これが領民間に身分序列を形成する端緒となるとともに、家綱政権の倹約政治を実見させる機会となっていたと指摘する。幕閣譜代藩には、信頼しえる重臣集団が手本となるべき「仕置」を実践し、資質ある藩主が「老中政治」の一員として集団的指導体制で公儀権力を支えつつ幕府政治の舵取りに専念する、そのような組織と仕組みを常に求められていた。そして、その特質として、藩領・城地には政治的・社会経済的・軍事的な役割が付与され、家中の番方・役方組織、領域の経済力・マンパワーが藩主の幕政参加をバックアップする組織となっていたことの重要性を指摘する。

 第六章では、稲葉正則の武家人脈以外から黄檗僧鉄牛と新興商人河村瑞賢を取り上げ、この交流が大名と宗教・文化世界との交流の域にとどまらず、幕府公金拠出型の大規模開発事業を演出していた点から、正則の幕閣内での役割を問い直すことを目的としている。稲葉正則の人的ネットワークが関与した大規模新田開発も流通改革も、ともに中世的な社会経済から近世的な社会経済への移行を決定づける動向であり、それは政策として家綱政権から綱吉政権へと譜代大名を中心とする「老中政治」のなかで受け継がれた。従来、この綱書政権初政は、「天和の治」として、賞罰厳明と人材登用などを根拠に幕政転換期と指摘されてきた(辻達也「「天和の治」について」『史学雑誌』六九編一一号、一九六〇年、のち『江戸幕府政治史研究』続群書類従刊行会、一九九六年所収)。しかし、天和期の幕閣人事が前政権を引き継いだ大老を中心とする集団的指導体制であったことから、むしろ「天和の治」は家綱政権の政策延長線上に位置づくものであった(藤井譲治「家綱政権論」『講座日本近世史』第四巻、有斐閣、一九八〇年、のち『幕藩領主の権力構造』岩波書店、二〇〇二年所収)。すなわち、「天和の治」段階までは、幕政運営の面において寛文期段階の「老中政治」路線が受け継がれているのである。そして、こうした稲葉家の財界人らとの人的ネットワークが幕閣譜代大名家としての地位を支える大きな要素であったと位置づける。さらに、堀田正俊刃傷事件は、幕府内での多数派意見と乖離したことが要因となり、「老中政治」の調整機能の発現であったとする。

 終章では、本書の成果をまとめるとともに、譜代大名と外様大名では受け持った軍役の質・内容が異なっており、譜代大名固有の軍役のあり方を検討すること、幕府直轄領との共通点を議論することで、幕閣譜代藩領が持つ特色を提示すること、幕閣譜代大名や特定大名個人の幕閣内での役割のみならず、政治権力として幕閣大名たち集団の持つ特色を考察し、譜代大名の政治参加の特質を問い直すこと、など外様藩研究に欠けていた視角を提示し、譜代大名・譜代藩の特質に応じた藩政史研究の方法論構築の必要性を提起している。

 以上のように、本書は、「藩世界」という手法を用い、幕閣譜代大名稲葉氏および小田原藩というフィルターを通して、幕府政治世界や全国流通世界などを問い質し、藩主が幕閣となりえる家門・譜代藩が幕藩制国家・社会の基本的な仕組み作りに果たした個別の役割、その仕組み・構造の維持への関わり方を考察したものである。このように分析視角のベクトルを譜代大名・譜代藩から幕政へ向ける一方で、稲葉正則の人的ネットワークの構築過程を分析することで、小田原藩家中・領民、大名との連帯、文化人・財界人などとの交流といった、いわばヨコのつながりに対しても目を向け、双方から縦横に論じている。

 しかし、若干の疑問も禁じ得ない。
 本書が採る「藩世界」の手法とは、藩を職制機構中心に狭く捉えるのではなく、家中・領民をも含めて広く捉え、彼らがつくる諸集団の織りなす諸関係の総合体として藩を理解するためにつくりだされた概念である。そして、藩領をまたいで存在する諸集団や、藩領内外の集団間の相互関係までも視野にいれた概念であり、これを用いることによって、各分野に分断されがちな諸問題を総合的に把握するための方法論である(岡山藩研究会編『藩世界の意識と関係』岩田書院、二〇〇〇年)。だとすると、ベクトルは譜代藩領社会へも向けられ、幕閣となりえる大名の藩領が持つ特質を論じる必要もあったのではなかろうか。著者はこうした問題に対し、「幕府直轄領・旗本知行地・首都江戸を含めた地域編成論を加味して地域史研究として展開した方が有効な課題であり、ある程度の固有性を議論できる関東あるいは南関東地域を対象としてなされるべきものだ」(三五四頁)と、意図的に組み込まなかったという。しかし一方で、地域社会論と、藩政史・都市史・身分論・思想史などとの架橋・総合化の試みとして「藩地域」概念を設定し、藩領域を対象として、そこに生起する諸問題を総合的に扱うことで、近世社会をトータルに把握しようとする方法論も提起されている(渡辺尚志扁『藩地域の構造と変容』岩田書院、二〇〇五年)。稲葉氏にとって、幕閣としての職務遂行にあたり、その基盤となる小田原藩とはいかなる地域だったのか。この問題を除いては、「老中政治」における譜代大名稲葉氏の役割は分析できても、譜代藩の政治構造までは説明できないように思えてならない。

 また、稲葉正則の「バランスのよい政治的感覚」(二三八頁)や「独善や偏頗のない資質」(二九一頁)はどのように形成されたのだろうか。人付き合いのバランスの良さがこうした感覚・資質の形成に寄与したと、人的ネットワークの果たした役割を重視する。たしかに人的ネットワークが優れた資質を生み出す源泉となったと想定できなくもないが、そのなかでなにが交流されたのか、具体的な交流の中身が知りたい。それが正則固有の資質なのか、彼の政道観や精神構造の形成過程を、意識面にまで立ち入って検討する必要があるように思える。

 さらに、譜代大名らによる集団指導体制(「老中政治」)と幕藩官僚制との関係はどのように展開していくのだろうか。江戸時代にも、行政・裁判・財政などさまざまな分野で一定の職務を分掌する機能や組織が作り上げられ、またそれを個人の意志としてではなく職務として執行する人的集団が存在したことは指摘されてきている(藤井譲治『江戸時代の官僚制』青木書店、一九九九年)。家光期に幕政運営の原理が、「人」がありその能力に従って支配・統治の範囲が決まる段階から、「職」があって「職」に「人」が対応させられる段階に転回した。著者は集団的指導体制が制度的に確立していたがゆえに、公儀権力が二百数十年間もその権威を保ちえたと指摘する。それでは両者はどのような関係だったのだろうか。

 以上、本書について、評者の観点から評させていただいたが、下総佐倉藩を題材とした木村礎・杉本敏夫編『譜代藩政の展開と明治維新』(文雅堂銀行研究社、一九六三年)、陸奥磐城平藩・日向延岡藩を題材とした明治大学内藤家文書研究会編『譜代藩の研究』(八木書店、一九七二年)以来の譜代藩研究を目の前にして考えたことを率直に述べたに過ぎず、ないものねだりに等しいのかもしれない。誤読・誤解や著者の意図を十分に汲み取ることができなかった点は評者に責任があり、ただただ御寛容を願うばかりである。
 本書の出現によって、譜代藩研究の方法論を鍛えていく素地ができたことは確かである。これは著者ばかりではなく、評者が背負う課題でもある。本書を契機に譜代藩研究が進展することを期待したい。

 なお、本書に先立って、著者は『稲葉正則とその時代−江戸社会の形成−』(夢工房、二〇〇二年五月刊、一二〇〇円+税)を著している。ここでは、「美徳としての倹約」という日本社会一般の共通認識が、おおよそ一七世紀後半に成立したのではないかという設定が出発点にある。それは中世的社会から近世的社会への転換とも表現され、こうした近世的社会の本質は明治維新を迎え終戦時まで存続するという。一七世紀後半ころに本質が形づくられ、アジア太平洋戦争直後までも人びとの暮らしに強く影響力を持った社会を、江戸時代に特徴的に見られる社会という意味を込めて江戸社会と名付け、「士農工商」世界とその周辺−「帳外れ」・「道の者」・「通り者」−の暮らしの変化をあきらかにしている。これは、社会史のなかに「近世」という時代を新しい視点で位置づける試みであった。

 両書によって、小田原藩世界がより鮮明となる。併読をおすすめしたい。


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