池上裕子編『中近世移行期の土豪と村落』
評 者:中村 只吾
掲載誌:「関東近世史研究」62(2007.7)


  1 はじめに

 中近世移行期の村落・地域社会については、一九八〇年代以来、そのさまざまな自立的・自律的な側面が解明されてきた。そして、近年にあっては、中間層・土豪・小領主などと呼ばれる在地の中核的な存在の再検討や、その時期を広く一七世紀までとって検討する、といった点に議論の焦点があるといえる。
 本書は、二〇〇一年度から四年間、科学研究費補助金を受けて行った研究(基盤研究(B)(1)、研究課題名「中世近世移行期における土豪と村落に関する研究」、研究代表者・池上裕子)の成果に基づくものであり、編者の池上裕子は「はしがき」で、この研究の基本姿勢として、@従来の中世・近世という時代区分の枠組みをこえて、戦国期から一七世紀までを中近世移行期ととらえて検討する、A現地調査に力を注ぐ、Bそれらを踏まえて多様な生業と階層の人々からなる村落や在地社会のあり方・成り立ちと、その中での土豪の役割・位置づけ等を具体的に追究する、という三点を挙げている。
 これらからわかるとおり本書は、冒頭に述べたような中近世移行期の村落・地域社会に関する近年の研究動向に真正面から向き合ったものといえ、研究の現状を直截に反映し、その進展に寄与するとともに、今後に向けての問題点をもあぶり出すといったことなど、諸点にわたり貴重な成果を見出し得るものと思われる。
 このような本書を評者のような浅学の輩が書評するなど甚だ心苦しくはあるが、以下、内容を簡単に紹介したうえで、評者も研究対象としている戦国期〜一七世紀の現沼津市域の海村を扱った論考に絞って若干のコメントを述べる。このような形をとるのは、紙幅の都合および評者の力量によるものである。

  2 構成と内容

 本書は、編者の池上による「はしがき」「あとがき」を前後に置き、その間に第一部・第二部にわける形で各執筆者の論文を数本ずつおさめる形となっている。第一部は土豪論という括りで、戦国〜近世初期の村落における土豪を軸とした論考がおさめられており、武蔵国榛沢郡荒川村という農村を対象としたもの(池上裕子「武蔵国荒川郷と荒川衆−戦国・織豊期を中心に−」、遠藤ゆり子「武蔵国榛沢郡荒川村に関する一考察−名主屋敷と寺地の交換伝説をたどる−」)と、伊豆国田方郡(君沢郡)内浦(西浦)地域の村々および駿河国駿東郡獅子浜村という海村を対象としたもの(黒田基樹「戦国〜近世初期伊豆西浦における大川氏の展開」、長谷川裕子「江戸時代前期の漁村にみる百姓の生活と土豪−伊豆国長浜村の津元大川家と網子の関係を中心に−」、同「駿河国獅子浜村の景観と土豪家−植松家と増田家を中心に−」)とに大別される。

 前者の池上論文は、戦国・織豊期の村落構成および、戦国大名北条氏と被官関係を結んでいた荒川衆やその中核的存在であった持田氏の村での位置づけを検討している。遠藤論文は、現地調査の成果を大きく踏まえながら、中近世移行期の土豪および諸社会集団の村内でのあり方や、そのうえでの村自体のあり方を検討している。

 後者の黒田論文は、西浦(内浦)地域の土豪大川氏一族について、各家の歴代当主の確定など基礎的事実を検討している。長谷川論文(一本目)は、近世初期の内浦長浜村の百姓層(網子)と土豪層(津元)の社会的関係を分析し、「慢性的飢饉状況」にあって網子等が自身の生存を最優先に考えた結果、小規模漁業への進出や津元との協合が行われたとし、一方の津元は立網漁操業による自身の経営維持のために融通などで網子等の生活を保護する、という相互依存的な関係が存在し、それにより網子等の小規模漁業進出の反面で立網漁も存続し得た、などのことを指摘している。長谷川論文(二本目)は、獅子浜村の景観を復元し、そこに存在した植松氏をはじめとする土豪・有力家の状況も述べるなどしている。

 第二部は、村落論という括りで、戦国期〜一七世紀の村落についてさまざまな角度から論じた論考がおさめられており、第一部でも扱っている伊豆国内浦地域およびその周辺の村々という現沼津市域の海村を対象としたもの(藤木久志「海村の退転−十六〜十七世紀の伊豆浦々の被災と変動−」、則竹雄一「戦国〜近世初期海村の構造−豆州江梨・西浦を中心に−」、黒田基樹「戦国〜近世初期伊豆三津村の構造」)と、上野国緑野郡三波川村という山村を対象としたもの(渡辺尚志「十七世紀上野国三波川村における山論」、遠藤ゆり子「近世初期上野国三波川村の縁組みと奉公契約−宗門帳からみた村落−」)とに大別される。

 前者の藤木論文は、一六世紀中頃から一七世紀末にわたって海村に生じた、「退転」や「欠落」、課役の「免許」といった事象と気象災害や飢饉・疫病との関連性を、現沼津市域の海村を対象に検討し、退転が頻発する背後には大きな自然災害が潜んでいたらしいことなどを指摘している。則竹論文は、諸負担の相違から戦国〜近世初期の現沼津市域の各海村の構造を復元比較する方法をとり、T型〜W型という生業構造の四類型を導き出したうえで、明治期の各村の生業構成は戦国時代に遡るとしている。黒田論文は、戦国〜近世初期の西浦(内浦)三津村の基本的な動向と構造を検討し、西浦地域内で三津村が流通拠点として、上方や江戸と、西浦地域からさらに内陸部の田方地域との結節点に位置していたことなどを指摘している。

 後者の渡辺論文は、一七世紀の山論を素材に、三波川村が村−小村という重層構造を有したこと、山・林野には村持−小村持−百姓持の三形態があり村の重層構造と対応していたことなどを解明している。遠藤論文は、近世初期の三波川村における、縁組や奉公契約に基づいた村内や他村への移住および他村からの移住の動向を検討し、山間村落とはいえ閉鎖的ではなく、地域社会との広いつきあいを展開していたことなどを解明している。

   3 コメント

 次に、はじめに述べたように、現沼津市域の海村を対象とした論考に絞って若干のコメントを述べてゆく。

 第一部黒田論文は、当地域の土豪である大川氏の一族について、従来曖昧なまま置かれてきたその歴代の系譜を詳細に描いており、今後の研究のための貴重な成果といえる。特に、寛文期の長浜村の村方騒動における中心人物の一人である権三郎について、従来はその背景が不明確であったものを、大川氏一族のうちの北方家に婿入した人物と位置づけた点は大変重要と思われる。ただ、若干気になるのは、結論部分で、各大川氏が実際は同族関係になく、そのうちの一家である大屋家がその中心的位置にあったわけではなかった、としている点である。黒田が述べるように厳密な意味での同族関係にはなかったのかもしれないが、厳密な血縁や系譜関係のみではなく、村内や地域内での実際の存在形態や機能といった側面からもとらえてゆく必要はないであろうか。例えば、長浜村について、大川四家のみで網戸株が分割所持されていたり(1)、大上家・北方家が大屋家から借金をしていたり(2)といった事例は、彼等が同一村における津元家という立場を媒介にある種の同族的まとまりを有しており、さらに大屋家はその関係のなかで優位な位置にあった、といった方向性で検討を深めてゆく契機にはならないであろうか。

 同部長谷川論文(一本目)は、漁村の特殊性への配慮、土豪を単純に衰退してゆくものとしない、津元と網子の対立・共存の両側面への配慮、小規模漁業を介した網子の自立化を過大評価しない、といった点で、当該期の両者の関係を論じた研究の現段階での到達点といえる。ここで長谷川は生産構造分析を主体としているが、それをふまえて今後必要なのは、両者が同一村で対立を孕みながらも共存してゆくうえで、いかに折り合いをつけていたのか、その自己の現状位置に対する正当化の論理や認識のあり方を、生産構造や各々の存在形態、加えて村政の実態面と併せて追究することであり、それにより両者の関係がより鮮明に浮かび上がると思われる。そこで気になるのが、一三八頁で言及している重寺村の生鯛漁をめぐる事件である。長谷川はこれを、他漁業を行うことで立網漁を妨げた網子と、立網漁を重視する津元との、漁法をめぐる対立を示す事例として挙げているようである。しかし、他の史料もふまえて確認するに(3)、この事件は、自分も生鯛漁をしていたのに網子等ばかりが「我まゝ」に生鯛漁をしていたとする虚偽の申告の他、村内の山に関することなど、重寺村の津元である六右衛門の色々な問題行為を網子等が訴えているものとみえる。生鯛漁をしているのは網子等のみではなく、村内の他の津元等は六右衛門に味方しているわけでもなく、問題の焦点は六右衛門の問題行為にあるといえ、漁法をめぐる津元と網子の対立とはとらえられないと思われる(同様の問題は藤木氏論文二〇九頁にもみられる)。おそらく、「我々共も立物ニ而かつめいつなき申候ヘハ」という網子等の主張に対してであろう、長谷川は「訴訟に際し網子層も立網漁で生活している旨を表明せねばならない」(一三九頁)としているが、同史料には、生鯛漁が名主・年寄・惣百姓(津元と網子)の相談を経て停止されたという経緯が記されていることもふまえるに、この主張は訴訟の際の便宜的な文言にとどまらず、網子が自村での自己の位置をいかに認識していたかを示すものとして積極的に評価し得るのではなかろうか。

 同部長谷川論文(二本目)は、従来は研究がほぼ皆無であったといってよい近世の獅子浜村について、詳細な景観復元や村の有力者の存在状況など基礎的事実を多数解明している点で重要である。ただし、景観をもとに、植松氏等の土豪が、村の内部に根ざしながら山から海までを一体として所有し、村の生業の維持を根底で支えていたとする点については、生産構造などの他側面からも研究を深めてゆく必要性が感じられた。

 第二部藤木論文は、「退転」・「欠落」・課役の「免許」などの背後に大きな自然災害の存在を推測するという環境史的な視点で注目される。ただし、一方で藤木は不漁の人為的な背景にも配慮していたり、自然災害の状況証拠性には慎重でもあったりする。不漁の人為的な背景に関しては、藤木が言及している他にも、寛永一六(一六三九)年、内浦の五ケ村と江梨村が、近隣地域での鯨突漁により「油血浮申方々へ流入、立物並釣漁一円無御座候」ことを領主に訴えたり(4)、貞享元(一六八四)年、内浦の六ヶ村が「三拾ヶ年以来魚通り道之浦々ニ大分之新猟師共出来仕候故歟、拙者共浦年々猟無御座」、退転する百姓等も多く出ていることを領主へ訴えたり(5)と、いくらか事例がみられる。今後、環境史的な視点から研究を深めるにあたっては、あらゆる事象の要因を自然災害にばかり収斂させてしまうことには注意し、人為的な要因など他の説明可能性も絡めた複合的な検討がますます必要となろう。なお、二二〇頁で「漁猟分一船役御菜・御肴等」という史料上の文言を、漁獲高のうち一船分の「御菜・御肴」としているが、そうではなく、「漁猟分一」役・船役・御菜御肴という形で、別種の役が併記されているのではなかろうか。

 同部則竹論文は、戦国〜近世初期の各村の生業構造の大枠をつかむことができる点で重要である。ただし、明治期までの連続性を指摘している点には、安易な首肯はできない。提示された大枠をもふまえながら、本当に不変化ならばなぜその状態が存続し得たのか、何か少しでも変化があるのならばそれはいかなる意味を持つのかなど、今後は各村の内部構造に立ち入った分析が必要であろう。

 同部黒田論文は、従来は本格的な研究がほとんどなかった三津村の研究であり、西浦(内浦)地域内各村やその外部世界との関係性にもとづく、戦国から近世初期の三津村の位置を明確にした初のものといえる。この論考の視角のように、今後は、内浦地域内各村およびその外部世界との間にみえる有機的な連関、それにもとづいた各村の性格について、さらに具体像を解明してゆく必要があろう。その際には、黒田も触れている、三津村の津元等有力者による長浜村の網戸株所有や、その他、長浜村の津元が、家督継承者が若年な重寺村のある家を後見している事例(6)など、津元をはじめとした各村内有力者の地域での役割や存在形態への注目も一つの要になり得るであろう。

 本書中の各論考は、いずれも対象地域の個別具体性が色濃い。それは地域史として貴重な成果である反面、やはりその特殊性ゆえどこまで普遍化できるのかという問題があろう。そこでおそらく、本書では土豪や生業への注目という点が有効に働いてくるのであろうし、今後もその点が重要になるのではないかと思われる。総じて本書は、新たな中近世移行期村落・地域社会論を体系化してゆくにあたり、まずは農村に限らない多様な性格の村々の具体的事例を蓄積するという土台構築の面に重点があるものと評価されよう。

 以上、評者の関心に偏ったコメントを書き連ねてきた。誤読等により、編者や各執筆者の意図とは異なる点があったかもしれない。何卒ご海容願いたい。なお、ここで述べた事々は、評者自身の問題でもある。本書の成果も踏まえながら、今後研究を深めてゆきたい。

(1)「大川家文書」『豆州内浦漁民史料』四〇号・一七五八号。
(2)「大川家文書」『豆州内浦漁民史料」七三号・一七四二号。
(3)類似史料として「重寺室伏繁一家文書」『沼津市歴史民俗資料館資料集3 古文書(3)近世・近代文書目録』Ie7、があり、こちらには、村内の山などに関する六右衛門の問題行為も記されている。
(4)「大川家文書」『豆州内浦漁民史料』七五号。
(5)「重寺室伏繁一家文書」『沼津市史』史料編漁村(内浦地区)、一五五号。
(6)「大川家文書」『豆州内浦漁民史料』二八八号。

【付記】本書評は、評者が参加している「海村と山村研究会」で本書をとりあげた際に出された議論もふまえている。参加者の方々には、ここに記しておことわりと御礼を申し上げます。



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