著者名:井上 定幸著『近世の北関東と商品流通』
評 者:田中 康雄
掲載誌:「利根川文化研究」28(2006.6)


 本書は、著者の既発表論文のうち商品流通史を中心とするものを選んで収録した論文集である。
 構成は、T農村の家族形態と雇用労働、U領主米の地払いと流通、V信州米と越後米の流入、W特産物の生産と流通、X製糸地帯の形成と糸繭商人、の五部で成り、各部には2章(1章が1論文)ずつ収録されている。
 全体としてのテーマは、近世上州の地場産品(生糸と麻、煙草)及び米の流通に関する問題(U〜X)が主体であり、これにいわば農村構造の問題が併置されている(T)。この場合、各章における課題検証の対象フィールドは殆ど上州国内である。

 各章の内容をまとめてみると、米については、第一に旗本久永氏領と高崎藩の領主米の地払いが陣屋元や払米掛屋等を通じて行われた仕組みを解明し、旗本久永氏の場合はその「雑用金」調達が収納蔵米で決済される方法と、高崎藩の場合は払米現物の最終的な付届け先にいたる経路を明らかにしている(U)。
 第二に、沼田藩の「津留」(他所米の移入制限)が年貢米収納期における米価維持政策であったこと、及び信州から西上州への移入米の事情について米市をめぐる地域間紛争の事例を詳述している(V)。
 特産物の麻については、吾妻地域とならんだ産地であった西上州の麻を対象とし、下仁田町の有力な在地荷主であった桜井家の経営を通じて、各種の集荷方法や江州への直接販売と江戸を中間拠点とした名古屋・大坂への販売比較を詳述し、加えて逆の立場にある江州商人の前貸し仕入への移行を展望している。煙草については館煙草(たてたばこ、高崎町近辺産)を対象として、産地荷主である木部家の活動を通じ、直接、間接に生産者から仕入れた各種の仕入経路と、それが江戸煙草問屋の豊富な前貸し資金によってまかなわれたこと、さらに高崎市中の刻み煙草生産の展開を推測し、高崎館問屋への出荷が主となっている幕末の状況を説明している(W)。
 生糸については、東上州大間々町の糸繭商高草木家の各種商業帳簿類を分析し、天保期には沼円、尾島、信州、秩父等へ出買いしていたものが、開港後は福島方面への出張買い入れに及ぶこと、仕入活動は乗合い等の共同で行われていたことを詳述する。一方、越後と上州との国境にある八木沢口留番所の通行手形の記載内容から、越後の生糸・繭が関東へ流通する場合、産地荷主により直接ないしは江戸問屋を通じて横浜へ、沼田・前橋・桐生・伊勢崎等の上州商人が買い付けたものを江戸・横浜へ、また桐生等の上州国内加工へ、という流通形態があることを検出、提示した(X)。
 右に対して農村構造の問題は、上州非山間部農村について、家族構成の変化と、農家経営における雇用労働の変化を長期的なスパンで観察したものである。前者では那波郡東上ノ宮村五人組帳の分析により、元禄〜享保期における非血縁構成員の存在は前代からの残存ではなく手作り経営が展開した時期における一時的なものと推定し、後者では群馬郡高井村の一農家に寛永期〜明治期に残存する奉公人手形が、身分的関係の強い譜代奉公人手形から季節・日割奉公人手形へと、五類型と五期に変遷し、とくに幕末文久期を境に短期奉公人雇用へ激変する実態を明らかにした(T)。

 以上を総括すれば、上州地場産業の最たる蚕糸業は、戦後では著者も参加した『群馬県蚕糸業史』以来の成果があり、本書所収の論文はそれを更に推進したものと見ることができ、さらに他の地場産業について新たに解明した点は大きな成果で、商品流通分野における近世上州の地域的な特色をかつてなく鮮明に描き出しているといえよう。他面、農村構造については、関東農村の一般図式を先駆的に提示したものの一つと位置づけられよう。
 ただ本書では、著者の基本的な課題設定や研究の全体展望が必ずしも体系的に示されているわけでない。その点で著者の総括として『群馬県史』通史編5の「概説・産業の展開と交通」、各論として本書各部扉裏頁に記載された関連研究や、他の業績も参照する必要がある。

 上州は、おしなべて畑作卓越地域であり、政治支配的には細分化され領国を形成していない地域である。その全体像を把握するという点で、著者が農村構造から商品流通に視点を移していったことが成果を得た所以であるが(本書・木村礎の序文)、両者の構造連関を明らかにしてはじめて全体像が浮かび上がることも確かであると考える。著者にもう一度構造の問題へ立ち戻る余裕があったらと残念に思うが、これは残された課題とせざるを得ない。
 なお、著者の業績一覧及び本書収録論文の明細は、群馬県地域文化研究協議会『群馬文化』二八六号を参照されたい。


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