著者名:竹谷靱負著『富士山の祭神論』
評 者:西海賢二
掲載誌:「地方史研究」326(2007.4)


 本書の著者竹谷靱負(たけやゆきえ)という名前をはじめて目にして宗教関係に連なる方だと思ったのが丁度十年前のことである。それは氏の前著『富士山の精神史−なぜ富士山を三峰に描くのか』(青山社・一九九七年)を拝読したことにはじまる。その後、平成十年だったか、戦後の富士信仰研究を引導してきた岩科小一郎先生亡きあと、その弟子筋の方々が立ち上げた「富士山信仰研究会」の研究会においてはじめてお会いしたと記憶している。名刺交換をした時に「拓殖大学工学部情報工学科 理学博士」とあり、まさに理系である先生の存在に興味を覚えたのが先日のように想起される。その後、どういうわけか先生からは原稿の件、富士山信仰研究会の件、講演依頼の件といつもお手紙を戴くばかりで気が引けていたのが本音である。そこに新著の紹介依頼が舞い込み、何か因縁めいたものを感じる。
 さて、本書は前著に続き、「なぜ富士山の祭神守護神は女神として示現するのか」を論の中心にすえて論究している。タイトルからも竹谷氏の理系の片鱗がのぞかれると思うのは私だけであろうか。「富士山の祭神研究」ではなく、あくまでも「富士山の祭神論」としたところなどである。
 本書では、古伝の「富士山縁起」を精読することによって、不動明王、大日如来、天照大神、浅間大菩薩、赫夜姫、木花開耶姫命という、富士山の祭神の系譜を確認することに終始している。
 祭神が女神であるのは、大日如来が本地仏となった時点で必然的に帰結されるものであり、その根源は、富士山の守護神が不動明王になったことである。すべては、村山修験の不動明王信仰に端を発するものである。また赫夜姫を富士山の祭神とする思想も、村山修験の古伝の「富士山縁起」にその起源があったことを明らかにしている。
 以下に主要目次を紹介する。

 まえがき
序 章 「富士山縁起」の原本とは −「富士山縁起」は「東泉院縁起」ではないか−
第一章 古伝の「富士山縁起」に基づく問題提起
第二章 不動明王と浅間大神 −なぜ不動明王は富士山の地主の神なのか−
第三章 大日如来と浅間大菩薩 −なぜ大日如来は富士山の本地仏なのか−
第四章 千眼大菩薩 −なぜ浅間大菩薩が富士山の垂迹神なのか−
第五章 赫夜姫(T)−なぜ赫夜姫は富士山の仙女なのか−
第六章 赫夜姫(U)−なぜ赫夜姫は浅間大菩薩なのか−
第七章 仙元大菩薩 −なぜ浅間大菩薩を仙元大菩薩と書くのか−
第八章 木花開耶姫命 −なぜ木花開耶姫命は浅間大菩薩なのか−
第九章 金色姫 −金色姫は赫夜姫かそれとも木花開耶姫命か−
第十章 天照大神(T)−なぜ赫夜姫は天照大神なのか−
第十一章 天照大神(U)−なぜ天照大神は富士山の祭神なのか−
終 章 なぜ富士山の祭神は女神なのか

 本書の特徴を個人的には次の二点にこだわり考えてみたい。著者が「まえがき」でふれている、「従来の富士山の諸神・諸仏に関する学説で、未だ解明されていない諸事項について議論することを主目的とする。特に、中世の富士信仰の歴史は、未解決の問題が多い。ひとつには、宝永の大噴火により、禅定道が破壊されて、多くの霊場の所在地さえも不明となつているためである。もうひとつには、明治初年の廃仏毀釈の嵐が、村山修験の本拠地の村山浅間神社をはじめ、各所の仏教関連の霊場に吹き荒れたことによる。そのため、村山修験関係の史蹟の多くが荒廃しており、また史料の多くが散逸しているのが現状である。したがって、中世を中心に富士山の祭神に関する未解決の問題も多い。そこで、それらの諸問題に対して、著者の持論を展開する。」(3頁)この視点はこれまで多くの歴史学をはじめとして隣接の学問からもあったものの、ありていにいえば富士信仰の研究が各登山口を中心にというより、史料の多少によって研究が展開してきたことを露見してきた結果でもある。もし史料の散逸が宝永の砂降りをはじめとして災害によっていたとしても表口の研究が等閑にされ続けてきたことは否めない。この点は研究者が史料を多量に発見もしくは碓認された近世以降の北口に集中しすぎてきたためであることは反省すべき点である。こうした状況のなかで北口の御師の末裔である竹谷氏がこの問題にアプローチしたことに全面的に賛辞を送りたい。

 次に本書の切り口が文献を多用しているにも関わらず、さらにはこれまで史料の信憑性が低いとされる「富士山縁起」を精読することによって、荒唐無稽とされていた内容を再吟味することによって、古形の「富士山縁起」との共通項を導き出し、伝承性にも注目したことは評価されるものである。
 この点ついては近年の「偽文書」のもつ有効性がようやく歴史学よりも国文学・文化人類学などから再評価されている現状などから鑑みても注目に値する。この切り口が出せたのはやはり竹谷氏の理系の「モノ」の見方の潜在性というものがあって、どちらかというとロマン的解釈に陥りやすい国文学や歴史学に比すると、本書の全般にわたって「−なぜ…なのか−」という問いかけにはじまり徹底した史料分析をされ、これまでなかった「富士山の祭神論」となったものであり、今後富士山の祭神をめぐるバイブル的著作となることは疑いないであろう。


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