著者名:園田学園女子大学歴史民俗学会編『漂泊の芸能者』
評 者:西海賢二
掲載誌:「地方史研究」326(2007.4)


 一九九〇年代以降の「身分的周縁論」は第一次・第二次の研究成果をすでに七冊刊行し、近世以降の都市及びその周辺に集う多くの人々を紹介し、二〇〇六年には第三次の研究成果を世に問い始めている。これによって近世の都市周辺に居住もしくは参集する人々の実態が具体的に明らかになり、歴史学では一つの潮流になっているとの風評を聞く。
 しかし、この身分的周縁に関わる人々の具体層が本当に描写されているかは識者によってことなっていることは否めない。潮流には乗らないむしろ学問的周縁にいる人々からの仕事は余り反映されていないというより明らかに抹殺されているように写るのは穿った見方なのだろうか。そのような点からすると本書は潮流を意識するどころか、新たな模索を提示する著作と言えるだろうか。
 本書は園田学園女子大学歴史民俗学会が二〇〇三年度のテーマに取り上げた「漂泊する芸能者たち」を選択して、さらに日本の歴史と民俗専攻の授業と関連させた企画をシンポジウムとして開催した時の報告をまとめたものである。

 目次
 伊勢大神楽の回檀と地域社会     北川 央
 万歳考−散所との関わりを中心に−    村上紀夫
 浄瑠璃操り成立期の語り手    井上勝志
 兵庫県下の民間芸能者    久下隆史
 奪衣婆を持つ聖    久下正史

 北川氏の「伊勢大神楽の回檀と地域社会」はすでに身分的周縁に関わる研究会の著作にも報告されているものである。今回は地域をより限定し、かつ北川氏の中世史をも視野に入れた近世的世界に気配りした報告であり、伊勢大神楽の回檀を徹底したフィールド調査により、これまでの大神楽を行う(巡廻)する立場からではなく、むしろ大神楽を受容する体制を克明に紹介しており、それも文献史学の立場だけでなく、地理学・民俗学・さらには北川さんの得意とする大阪学(関西学?)の眼差しが随所に展開しており刺激的な論文である。
 村上紀夫氏の「万歳考−散所との関わりを中心に−」は近年の林淳氏や小池淳一氏らによって近世の陰陽師の実態が制度論や口承文芸におけるテキスト論をも視野におきつつ、かつ村上氏のこれまでの中近世の身分論を取り込みながら、かつ畿内という地域史を意識しての万歳と陰陽師との連携を紹介した論考であり、北川氏の論考と対をなしている。
 これに対して井上勝志氏の「浄瑠璃操り成立期の語り手」は日本近世文学を専門にしつつ、園田学園の看板でもある近松研究所の諸史料を駆使して、兵庫という地域性を考えながら西宮の夷かきを題材にし浄瑠璃という語り物と人形操りという芸能との結合、さらには人形師と座頭などとの関連性を引き出した論考は注目に値する。
 久下隆史氏の論は兵庫県下の猿まわし、伊勢大神楽、法花寺万歳をとりあげ、兵庫という地域性を意識しての回村動向が展開していたことを報告したものである。
 久下正史氏の「奪衣婆を持つ聖」は一九八〇年代以降、多くの研究者が注目するところとなっている「社寺参詣曼荼羅」を絵解きする人々や人形をともなって各地を遍歴する人々のうち、奪衣婆の像を持ち歩きその信仰を説く者たちに注目してその実態を報告することによって今後こうした下層宗教者の関連性を促したものである。
 かつて、民俗社会では一年に一度、正月や節分などに様々な宗教者や芸能者が村々を廻り、門付けし、祈祷し、正月の寿ぎをする行事が年中行事として行われていた。時代とともに彼らの多くは姿を消していったが、近畿地方を中心に門付けする伊勢大神楽は国指定文化財に指定され、現在でも定期的に決まった村々を回っている。彼らのような芸能者たちを民俗社会の人々はどのように受けとめていたのか、また彼らはどのように生き抜いていたのか、本書はその一端を紹介しており興味深い。もし一九五〇年代にテレビという「モノ」が登場しなかったならば、彼らの多くは今も我々の前に現れてくれるのだろうか、想像するだけでもわくわくしてくるのは年をとった私だけだろうか。


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