著者名:関東取締出役研究会編『関東取締出役』
評 者:吉岡 孝
掲載誌:「関東近世史研究」61(2007.3)


 関東取締出役は著名な存在であり、論文や自治体史に頻繁に登場するが、断片的記述に終始し、その全貌は未だに明らかになってはいない。その克服は大きな課題であろう。
 二〇〇四年八月三〇日に江戸東京博物館において、関東取締出役シンポジウムが開催された。主催は関東取締出役研究会(代表多仁照廣)であり、一九九一年に発足してから月例研究会や史料集の刊行等当該テーマに関する地道な活動を積み重ねてきた。このシンポジウムはこの会の活動の集大成といえよう。シンポジウムの目的の一つには 「関東取締出役の全体像を討論」することがあり、前述の課題から考えると意義深い。本書はこのシンポジウムに基づいて構成されている。では目次を掲げよう。

 刊行にあたって               多仁照廣
 関東取締出役シンポジウム開催にあたって
 関東取締出役設置の背景         田渕正和
 文政・天保期の関東取締出役         桜井昭男
 幕末期の関東取締出役         牛米 努
 関東取締出役の定員・任期・臨時出役・持場  牛米 努
 天保期以降の関東取締出役一覧        牛米 努
 あとがき
 関東取締出役・改革組合村関係文献目録

 「刊行にあたって」「関東取締出役シンポジウム開催にあたって」を読むと、本書の特徴は関東取締出役の全体像を考えるに当たり、「教化政策の側面が強い創設期」「治安警察機構として再編される天保期」「軍事機構の性格が加わる開港以後」の三つの時期に分けたことである。それぞれの時期を田渕・桜井・牛米が担当している。筆者は関東取締出役の活動を三つの時期に分けて検討すること自体には賛成である。ではそれぞれに検討してみよう。

 田渕正和「関東取締出役設置の背景」(以下田渕論文)は、関東取締出役の創設期(文化二年六月前後)を扱っている。田渕論文の特徴は、関東取締出役の成立を評定所留役の事務渋滞から説明している点である。関東農村では一八世紀末頃から博奕の流行や盗賊の横行などの治安悪化が顕著になってきた。このような問題は代官手代が現場に赴いて吟味し、その口書に基づき評定所で裁かれることも多い。評定所での裁きを実質的に担ったのは、勘定所から出向していた評定所留役であった。しかし当該時期において評定所留役の吟味は渋滞してしまう。その原因は評定所留役の人数の少なさ等もあるが、最も大きな原因は代官手代の口書の不備にある。当時の代官手代には不正な者が多く、手付制の導入等代官手代粛正政策は不発に終わった。そのため村落の治安問題を専管する関東取締出役を設置し、彼らに「一通りの吟味」をさせ、口書を取らせる。それは評定所留役の吟味を円滑に進めるためであった。田渕はこの設置の中心的人物を、当時の勘定吟味役兼評定所留役羽田藤右衛門保定と想定しているようである。田渕は「関東取締出役自身がより凶悪な犯罪者を逮捕し処罰するような積極的な行動力を持たされたわけではなかった」という結論を導いている。
 確かに関東取締出役を治安問題の専管にすれば、その分だけ正確な口書が作成される可能性はあろう。ただ関東取締出役に求められたのは、あくまでも「一通りの吟味」であり、厳重な吟味が要求されたわけではない。その点田渕の指摘は首肯できるものではあるが、あまり強調してしまうと、事実とそぐわなくなるのではないか。評定所留役の吟味の円滑化は一つの要素であり、関東取締出役設置の最大のポイントは、教諭活動にあると筆者は考える。
 しかしながら田渕の結論は秀逸であり、筆者も全く同感である。従来の関東取締出役研究においては、治安犯罪者を領主の違いを無視して積極的に捕縛していくことが、関東取締出役の最大の意義とされていたのである。田渕の結論はそのような関東取締出役研究に再考を促すものである。
 以上のように田渕論文には優れた指摘もあるが、関東取締出役設置の時期を示す史料(『牧民金鑑』上巻、二九六頁)を再検討した部分は、論理的混乱があるのではないか(本書三九頁)。筆者は従来の通説通り、前二条と別紙を一体と考えた方が正しいと判断する。

 桜井昭男「文政・天保期の関東取締出役」(以下桜井論文)は力作である。関東取締出役設置当時、八人の出役は四人の関東代官の下僚のなかから二人ずつ選ばれた。四人の代官は二人の枠組のなかで、自分の下僚たちを流動的に交代させた。つまり設立当初には関東取締出役は人的に固定的な存在ではなかったのである。関東取締出役という名前さえ確立していなかった。従来の研究史は、関東取締出役の存在を明確な組織として考え過ぎていたのである。
 桜井によれば、当該時期では関東取締出役は日常的な廻村における百姓への教諭活動を重視していた。無宿・悪党の場合でも「逮捕することが目的なのではなく、何よりも教諭によって彼らを『改心帰農』させることが重要な役目であった」とされる。
 文政一〇(一八二七)年に関東取締出役の活動は大きな変化を迎える。改革組合村の設置である。悪党などの横行は「文政九年にいたって一つの頂点を迎える」。そのため同年九月長脇差を帯びて歩行する者を、悪事の有無、無宿有宿の差別なく捕縛して死罪などの重科に処すべきことが謳われた(『御触書天保集成』第六三六二号)。しかし捕縛した者を吟味するにしろ、江戸送りするにしろ、村方に多くの費用を委ねることになる。そこで幕府は三人の代官を「関東在々取締方御用掛」にして関東取締出役を監視する一方、改革組合村で費用を分担することにより、一村当たりの負担を軽減したのであった。
 改革組合村の設置を示す「四四か条の触書」については、なぜ前文と後文に分かれているのか、また村落に残るこの史料の日付が、文政一〇年から一二年までみられ、一定していないのはなぜか、という疑問を述べている。この点については筆者は旧稿(「近世後期関東における長脇差禁令と文政改革」『史潮』新四三号、一九九八年)で以下のように指摘した。前文は長脇差禁令の請書であり、元来後文とは別なものである。それが一つに纏められたのは、長脇差禁令が改革組合村結成の基本法令だったからである。桜井は基本的にそのことを承認しているようであるが、長脇差禁令の意義についての理解がない。日付が一定していないのは、村側が関東取締出役の提示した組合編成に納得しない場合、村と関東取締出役との間で交渉が行われたからであり、それが時間差となってあらわれたと桜井は主張する。筆者も基本的にはこの指摘に賛成である。しかしそうであれば、改革組合村の自律的性格を強調すべきであろう。改革組合村は天保期になり、組合村の再編成や大惣代の強制的設置によってようやく安定した。
 註をみると、桜井には筆者の旧稿二本(先述の『史潮』論文と「関東取締出役成立についての再検討」『日本歴史』六三一号、二〇〇〇年)を六回も引用して頂いている。黙殺されたに等しい拙稿に光を当ててもらい、涙が出る程嬉しいが、このような「学恩」に対しては、厳しい批判で報いるのが「研究者魂」であろう。
 桜井論文は、身分制社会に対する基本的な認識が欠如している。桜井は「当時重要な触と見なされ、高札に掲げることとされていた長脇差し禁令を含んだ触の請書と、改革組合村の編成を了承したことを示す議定書をセットにすることによって、今後の取り締まり体制を確実なものにしていこうとする幕府の姿勢を示している」と記している。この記述自体に異論はない。しかしなぜ長脇差禁令の請書と議定書をセットにすることが取締体制を確実にするという認識を幕府はもったのであろうか。桜井の見解では長脇差禁令は悪党の逮捕を厳密にした治安維持令という理解である。故に治安警察機関である改革組合村とはセットになる。それは「跳梁跋扈する無宿や浪人に対して鉄砲や鑓はもちろん長脇差しを持ち歩く者は、悪事の有無や有宿・無宿の差別なく、死罪あるいは重科に処する」という桜井の長脇差禁令の解釈によって明らかである。
 この桜井の解釈には問題が存在する。原文をみれば明らかなように、長脇差禁令は「無宿共」が長脇差を帯びるなどして狼籍をするのを真似て「百姓町人」のなかにも同様のことをする者がいるという認識が示されている。つまり対象は治安悪化の元凶である「無宿や浪人」だけではなく、「百姓・町人」も含まれているのである。そしてこの法令は桜井が引用している芝与一右衛門の史料をみてもわかるように、長脇差の禁令が主眼である。しかし真に治安悪化を恐れるなら、長脇差より鉄砲・鑓の取締に力を入れるのではないか。いや、それよりも犯罪者の適切な逮捕にこそ力を注ぐべきであり、なぜ回りくどく長脇差の取り上げに固執するという迂遠な方法をとる必要があるのか。長脇差禁令においては無罪の百姓も対象になるが、無罪の者を取締る法令が、なぜ治安維持令なのであろうか。
 文政九(一八二六)年一一月、幕府代官伊奈半左衛門の支配所であった武蔵国粕壁宿で刀改めが行われ、宿役人が刀剣類の種類や寸法などを届け出ている(拙著『江戸のバガボンドたち』ぶんか社、二〇〇三年、二〇一〜二〇二頁)。総計槍二〇筋・長刀六振・刀二四腰・長脇差一七七腰である。一つの宿にこれだけの刀剣類があったことにも驚かされるが、これらの刀剣類は没収されたわけではなく、帯びて外出しないこと、紛失したら届け出ることを誓っただけであった。文政一二(一八二九)年には武蔵国古大滝村大達原組でも「刀脇差御尋」が行われて、槍二本・刀二腰・長脇差二八腰が確認されているから、決して粕壁宿の事例は孤立したものではない。もしこの法令が武器没収を目指した治安維持令ならば、刀剣類を没収しているはずであろう。帯びて外出しなければ所持していても構わないというのであれば、身分表象規制令としか考えられない。
 筆者はこの文政九年の長脇差は端的にいって、近世後期の刀狩令だと考えている。刀狩令とは勿論豊臣平和令の一環として発令され、自検断権を否定された百姓・町人は、刀を帯びて歩行することを禁じられた。武士には帯刀が認められ、帯刀は武士の身分表象になつた。徳川政権が刀狩令を積極的に継承しなかったためか、江戸時代の初期には帯刀した百姓町人も多かった。しかし一七世紀半ば頃から規制が厳しくなり、一七世紀末には百姓町人の帯刀は、公式には特別な免許を得た者以外は存在しなくなった。刀自体は地域に多く存在していたであろうが、持ち歩くことは厳しく禁じられたのである。一七世紀の帯刀規制は「百姓に不似合い」という発想で行われたと指摘されている(藤木久志『刀狩り』岩波新書、二〇〇五年)。身分表象規制として帯刀は禁じられたのである。身分制社会が確立した時に刀狩令は社会的に浸透した。別な言い方をすれば、江戸時代という身分制社会においては、刀狩令は絶対に放棄することにできない法として存在していたのである。
 故に一八世紀の徳川政権も刀狩令を放棄していない。寛政一〇年令等も刀狩令の範疇で理解する必要がある(前掲拙稿『日本歴史』論文)。文政九年令も先述の粕壁宿の事例が示しているように治安維持令ではなく、身分表象規制令であり刀狩令の範疇である。治安が悪化しているからこそ、刀狩令を実行し、身分表象を規制し、風俗を糺して治安の回復を図るのである。それが身分制社会に内在した論理である。現在警察とは「社会生活を営む各個人の生命、身分、自由、及び財産」に生じる障害を未然に予防したり、事後に鎮圧する機関である。これは近代市民社会にならなければ成立しない概念であり、江戸時代に警察があったという考えは、そもそも成り立たない。
 このようにいうと意味のないスコラ談義と解釈されるかもしれない。概念はどうであれ、犯罪者を捕らえる活動を徳川政権は続けているのであるから、それを警察といって何が悪いのか。しかしそのような思考が、以下述べるように改革組合村をめぐる権力と地域の関係を隠蔽してきたのである。
 関東取締出役も改革組合村も政策的意図としては、身分制社会の秩序に基づいた身分統制活動を行う存在である。しかし治安悪化の実害を直接受けるのは地域社会である。ならば警察活動を求めたのは地域社会と考えるのが自然である。政策的意図が身分統制であり、地域的要望が治安警察である。これは当該事例における階級矛盾の現象形態といっていい。こう考えれば改革組合村における治安警察活動は、地域社会の自律性の表現であり、それを従来の研究史は政策的と誤解し、改革組合村を官制御用組合のように扱ってきたのである。長脇差禁令の請書と議定書がセットだったのは、身分統制を目指す幕閣と、領主を超えた治安警察を実現したい地域と、両者の「顔を立てたい」関東取締出役の妥協の産物だったからである。

 牛米努「幕末期の関東取締出役」(以下牛米論文)は文久期から廃止までの関東取締出役の活動を中心に描く。しかし牛米によれば画期は嘉永二年である。幸次郎一件などの大規模な博徒捕縛作戦が実施され、この経験が文久以降の幕末期に活かされることになる。斬新な指摘といっていいであろう。
 ペリー来航後の嘉永七(一八五四)年には関東取締出役は九名の本役に加えて臨時取締出役一四名が増員される。そして「組合村を基盤とする代官持場制から関東郡代制・関東在方掛制が敷かれ治安体制が強化され」、活発化する浪士活動に対応する。非常人足体制とともに農兵取立てが進み、改革組合村の武装化が促進される。
 牛米論文を読むと、従来の通説的関東取締出役・改革組合村のイメージは、幕末期の存在形態に基づいてつくられたものであることがわかる。しかしこのような行為が倒錯であることは明白である。本書の構成のように、幾つかの時期に分割して関東取締出役を位置づける作業が、必要な所以である。

 「関東取締出役の定員・任期・臨時出役・持場」・「天保期以降の関東取締出役一覧」・「関東取締出役・改革組合村関係文献目録」は、基礎的な史料の整備さえできていない関東取締出役を研究する上で大変貴重なものであり、関係者の労をねぎらいたい。

 本書がこれからの関東取締出役研究を、大いに裨益していくことは疑いないところである。しかしそうであればなおさら本書の構造的な問題について一言しておく必要がある。既に述べたように本書に収録された個々の論文においては、注目すべき問題提起が散見される。しかし全体としてみた場合、旧態依然たる印象をうける。その理由は従来の関東取締出役研究の地平を、トータルに克服しようという批判的精神が欠如しているからである。
 現在に至るまで関東取締出役研究を規定してきたのは、森安彦『幕藩制国家の基礎構造』(吉川弘文館、一九八一年)である。この本は題名からも容易に推測できるように、幕藩制構造論に基盤をおいている。幕藩制国家は、農民層分解によって析出される無宿等を弾圧しなければならない。そのための尖兵が関東取締出役−組合村体制である。森が明らかにした関東取締出役の実態は、史料に基づいた実証的なものというよりは、幕藩制構造論に要請された理論的抽象態である。理論がいけないといっているのではない。歴史科学とは理論と実証の弁証法的統一に基づくべきだといっているのである。理論と実証は「矛盾」する。故に発展する。しかし森の成果においては実証が理論に従属しているため、「矛盾」がなく、発展が望めない。それゆえ関東取締出役研究は、森の世界観に史料をパズルのように当てはめる形でしか進展しなかった。
 さらに関東取締出役−組合村体制論は、関東一円支配体制論の一環とされてきた。この個別領主権を極度に軽視する論においては、徳川政権は常に関東を直接支配したいという妄執に取りつかれていたことが前提にされている。鷹場は儀礼的本質を捨象され、支配関係が錯綜している関東地域において広域支配を補完する場とされ、「関東郡代」伊奈氏の失脚も、実証的根拠を欠いたまま、一円支配を目論む勘定所との対立が原因とされてきた。大石学の「首都圏論」が、関東一円支配体制論の最新バージョンである。
 筆者が考えるところ、関東一円支配体制論は徳川絶対主義という理論的要請に応えた抽象態であり、実証性を欠いている。少なくともこの議論が深まるためには、絶対主義論の深化が前提のはずであるが、現在この論は研究史の表舞台からは消えている。このことは関東一円支配体制論の破綻を意味している。
 八〇年代以降、他地域においては刺激的な久留島浩の組合村−惣代庄屋制論が席巻したが、関東一円支配体制論に固執する関東地方においては、十全な発展は望めなかった。現在研究史は久留島説の批判的継承の段階に移り、実に多くの地域社会論が学会を賑わしているが(この点は渡辺尚志「近世村落社会論」『日本歴史』七〇〇号、二〇〇六年、参照)、関東の地域史研究は、関東取締出役−組合村体制論を克服できないので、このような研究史の流れと真摯に対峙できない。これは悲劇というより喜劇である。
 近年平川新は地域的公共圏を論じ、関東取締出役と改革組合村について、「単に幕府の支配強化とみなすのではなく、地域社会の要望にもとづき、地域社会と一体となった治安・犯罪対策と評価したほうが適切であろう」と指摘している(平川「『郡中』公共圏の形成」『日本史研究』五一一号、二〇〇五年、五九頁)。平川の指摘は、これからの関東取締出役研究の方向性を示唆した、極めて重要な指摘であると筆者は考える。
 本書の構造的欠陥は関東一円支配体制論に対する統一的批判を欠いている点にある。しかし細部は魅力的であり、新しい可能性を感じさせる。本書の実証的な細部を平川の指摘等を参考にしながら体系化すれば、全く新しい関東取締出役像を創出しえよう。機は熟したのである。


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