著者名:丹和浩著『近世庶民教育と出版文化−「往来物」制作の背景−』
評 者:小関悠一郎
掲載誌:「関東近世史研究」61(2007.3)


 本書は、草双紙・往来物を中心として近世文学の研究に取り組んできた著者の学位請求論文「『往来物』研究−江戸時代の教育と文化−」に加筆修正し、構成を変えたものである。これまで著者は、草双紙との出会いを契機に、黒本・青本等、数々の草双紙の翻刻・研究を行ってきた。著者はその過程で、草双紙と往来物が、享受層や書肆といった点で重なりを持っていることに着目し、東京学芸大学附属図書館望月文庫収蔵の二千冊をはじめとした往来物の調査を開始したのである。そして、「従来の方法とは異なった扱い方」による往来物研究=「草双紙研究で培った方法を活か」した研究の成果が本書の章段である(以上は主として本書「あとがき」による。筆者による多くの翻刻・解題作業の成果は、『江戸の絵本−初期草双紙集成』U〜W、近世文学研究「叢」の会『叢』一八〜二七、その他を参照)。以下、本書の概要を紹介し、併せて若干の考察を行ってみたい。
 本書の構成は以下の通りである。

  序章
第一章 「往来物」が採り入れた和歌、及び出版の問題
 第一節 「往来物」における七夕の歌 −類題集の利用−
 第二節 「大坂進状」「同返状」をめぐる出版書肆の問題
  付論 『直江状』について
第二章 「往来物」の作者と書肆 −一九・馬琴の方法と意識及び書肆とのかかわり−
 第一節 十返舎一九の文政期往来物の典拠と教訓意識
 第二節 曲亭馬琴著『雅俗要文』の成立と意義
  付論  明治初年の文章表現と馬琴 −『こがね丸』を中心に−
 資料編
  女中用文玉手箱/民間當用女筆花鳥文素/雅俗要文

 序章は、往来物に関する先行研究を整理し、「発達史観的な往来物の把捉の仕方」・「当代の文化状況をあまり考慮せずに割り切ってしまうこと」を問題として指摘する。「書物の扱い方」(作者のジャンル意識等)や「別の書物の記述の利用」といった「当時の文化状況や作者の考え方を無視してしまうと、実態から離れた理解がなされることになりかねない」からである。そこで本書では、「江戸時代の出版文化に関する研究成果と、往来物の研究の成果とを合わせて考察する方法」をとったとする。
 第一章第一節では、往来物の「巻頭・巻末や頭書」にみられる「七夕の歌」を取り上げ、そこに『和漢朗詠集』・『明題和歌全集』・近世に刊行された「近世堂上派の和歌を編集した類題集」が利用されていることを明らかにして、近世堂上派の和歌が「庶民の子どもたちの層−知的な社会構造の最も基底部まで」浸透しており、「江戸時代の社会から遊離したものではなかった」ことを指摘している。「出版の仕組みの拡大」が、寺子屋の学習内容に「文化的なふくらみ」を持たせたのである。
 第一章第二節は、「出版統制と往来物、及び書肆の関係の整理を試み」たもので、「家康」文言の改変・削除に焦点を当てて「大坂状」の単行版や各種の『古状揃』を取り上げ、書肆のあり方(書物問屋・地本問屋の区別や統制等)を加味して考察することによって、その改変過程の特質を解明している。また、「複雑な改変過程を経てまでも規制を免れ、「大坂状」を長く残そうとした理由」として、「古くから伝わってきたものに、みだりに私意を加えないという規範意識」があったとする。
 第二章第一節は、十返舎一九が関わった「往来物が直接依拠した素材を明らかにすることで、その意義を」考察する。まず、山口屋藤兵衛版の往来物のシリーズが、「『和漢三才図会』を縦横に利用したところに成り立っている」ことを明らかにした上で、それらの商品としての魅力や「百科事彙的要素」・「視覚的要素」という学習形態の側面での意義が論じられる。また、西宮新六版の道中記型の往来物=『金毘羅詣』等における『筑紫紀行』(菱屋平七著)等の素材の「使いまわし」が、書肆の経営や編著者にとっての利点となったこと、西宮版往来物が「新鮮」なものとして人々に迎えられたことを指摘する。ただし、「これら新機軸の往来物がどこまで必要とされたかという点については、疑問の余地がある」という。また、教訓意識という点から一九の往来物への関与の姿勢を指摘している。
 第二章第二節では、馬琴の著作の「周辺部分である実用書−往来物−」として『雅俗要文』の特徴や意義を考察する。まず、『雅俗要文』諸本を検討した上で、『馬琴日記』等によって、馬琴の校正へのこだわりや「曲亭馬琴」号の削除を書肆に申し入れている事実を指摘し、『雅俗要文』は、馬琴が低く位置づけていた合巻等とは全く別のものと意識され、それなりに心血を注いで作成されたものだったとする。馬琴にとっての「雅」は、「伝統的な和漢の文化・文学に裏付けられた表現」であり、馬琴は、『雅俗要文』執筆・刊行によって、「漢語の運用法や和漢の故事の知識」・「風流人士の精神世界」など「彼の考える、「雅」なる世界を示したかった」とする。また、考証随筆が商品として力を持たない状況が、「雅」を表現でき、俗世間にも広く受け容れられるもの=雅俗折衷の用文章として『雅俗要文』を成立させたことを指摘する。

 本書は、著者が草双紙研究で培った「当代の文化状況」を十分考慮するという方法によって、従来ともすれば実用や文字学習といった側面に重きを置いて捉えられがちだった往来物に、新たな角度から光を当てたものと言うことができる。例えば、第一章第一節では、「類題集」やその一部を利用した往来物の刊行が、「庶民の子どもたち」による「近世堂上派の和歌」享受の背景となったことが指摘される。言い換えれば、書物の出版状況や往来物における他の書物の利用を踏まえた分析によって、往来物等の寺子屋の学習内容に「実生活に役立つ知識・情報から離れた別の一端」=「文化的ふくらみ」が含まれることが明らかにされたのである。このようにみると、本書の他の章節も右の方法によって、それぞれの往来物に「文化的ふくらみ」(に通じる要素)を見出したものと見ることができるように思われる。例えば、第二章第一節では、『筑紫紀行』の利用を分析しつつ、「京都・江戸間」や「伊勢参宮」以外の土地や街道についての記述を含む西宮版の往来物を、「生活上必要な最低限の学習」に対する「新機軸の往来物」とする(但し、「新機軸」の定着には疑問が呈されている)。また、第二章第二節は、実用や生活心得等の特徴も注目されてきた『雅俗要文』を、「雅」の提示に力点を置いて捉え返したものである。これらの、実用に対する「新機軸」や「雅」は、さきの「文化的ふくらみ」につながる要素であると言えよう。以上のように、本書は、近世における「出版文化」のありようや作者の考え方、依拠した書物を十分に踏まえることによって、「往来物」に「文化的ふくらみ」を見出し、その新たな史料的価値を浮かび上がらせたと言うことができよう。
 それでは、往来物が帯びる、右のような「文化的ふくらみ」は、近世の社会や文化構造において、いかなる意味を持ったのだろうか。この点は、本書の検討課題からは若干ずれるかもしれないが、右でみてきた往来物の「文化的ふくらみ」論を発展・深化させる上で、欠かせない論点になるのではないかと思われる。本書に即して言えば、例えば、庶民が享受した「近世堂上派和歌」は庶民の学習階梯においてどのような位置にあるのか。手習所での最終コースでは、和歌を中心とした伝統文化の学習に力が入れられたことが知られているが、庶民教育における「伝統文化の学習」と「近世堂上派和歌」の享受が、どのような関係にあるのか知りたいところである。また、第一章第二節では、「大坂状」を長く残そうとした理由として「規範意識」が想定されているが、この「理由」については、学習者の側における需要のあり方・要因まで含めて検討することで、より多角的に明らかにすることができるように思われる。そして、以上のように近世の社会・文化における往来物の位置を考える際に重要になるのが、往来物の受容者(実際の学習者)という観点ではないだろうか。往来物の役割を、学習の主体や庶民の具体的な学習の場・事情に即して検討することによって、往来物と他の書物との関係、ひいては往来物の帯びる「文化的ふくらみ」が、近世の社会・文化においていかなる意義を持ったのか、といった点が一層明らかになるだろう。

 以上、本書に対する所感を二三述べてきたが、評者の力量不足や往来物研究への理解の浅さから、誤読や見当外れな意見を書き連ねてしまっているかもしれない。著者のご海容を乞いたい。著者が見通すように、「今後とも日本近世史と往来物との接点は拡がっていく」(序章)ものと思われる。その足がかりとなり得る本書が、多くの分野の研究者の手に取られ、近世の文化・教育と社会についての議論が活発に行われることを願うものである。


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