著者名:鈴木哲雄著『中世関東の内海世界』
評 者:木村 修
掲載誌:「日本歴史」707(2007.4)

 本書は、一九八〇年代以来、中世関東の地域社会像を追究してきた著者が、現時点でその関係論考を集成した一書である。構成は次のようになっている。

  序 地域の区分
 T 中世の利根川下流域
  第一章 古代から中世ヘ−下総国葛飾郡の変遷−
   付論 地域史の方法としての東京低地論
  第二章 古隅田川地域史ノート
  第三章 古隅田川地域史における中世的地域構造
 V 中世の香取内海世界
  第四章 香取内海の歴史風景
  第五章 御厨の風景−下総国相馬御厨−
 V 中世香取社と内海世界
  第六章 中世香取社による内海支配
  第七章 河関の風景−長島関と行徳関−
  結 二つの内海世界を結ぶ道

 まず、序で地域区分が定義される。その基本は古代・中世の大河川を地域区分の境と見るのではなく、それを核として中世関東の地域区分を捉える考え方である。これにより関東は、二つの内海に注目して二大地域に区分できるとしている。

 ひとつが、関東東部に該当する地域である。現在の菅生沼・牛久沼・手賀沼・印旛沼・霞ケ浦・北浦などは古代・中世にはひと続きの内海であった。これを「香取内海」と名付け、そこに注ぎ込んでいた鬼怒川・小貝川とともに一つの地域を形成していたとみて、これを「鬼怒川=香取内海」地域(ここでは香取内海地域と略す)と呼んでいる。下野東部・常陸・下総がこの地域にあたるとされる。

 これに対し、現在の東京湾と同湾に注ぎ込む諸河川、江戸時代の初めまでは同湾に流れ出ていた利根川の流域を一帯とみて、これを「利根川=江戸内海」地域(ここでは江戸内海地域と略す)と呼んでいる。上野・下野南部・武蔵・下総西部・上総・安房がこの地域に該当するとされる。

 著者は、この二大地域のほかに、「相模川=相模湾地域」・「那珂川=涸沼地域」を設定し、さらに房総半島の太平洋側と九十九里浜一帯も独自の地域に区分されるとしている。このように区分したなかの、先の二大地域に関する論考が本書に集録されているのである。


 第一章は、葛飾区郷土と天文の博物館が催した地域史フォーラム「古代末期の葛飾郡」における報告がもとになっている。「高橋氏文」の分析をもとに、江戸内海地域は大化前代から一体性をもった一つの地域を構成し、その中央部分に葛飾郡が成立したこと。平将門の乱は香取内海地域に起こり江戸内海地域まで制圧し関東の支配権を確保したもので、続く平忠常の乱を経て荘園公領制が成立して下河辺庄・葛西郡や葛西・相馬・大庭の各御厨が展開したこと。平安中期以降の東京低地=葛西地域は、関東における水陸交通の要衝であったことなどが指摘されている。

 付論は、第一章のもとになったフォーラムより前に行われた、同博物館企画のシンポジウム「東京低地の中世を考える」での報告者諸氏の報告要旨を紹介し、コメントを加えたもの。

 第二章・第三章は、著者の地域史研究の原点となったものである。第二章では、春日部市内を流れる古隅田川周辺の地形的特徴に基づいて「古隅田川地域」を設定し、そのなかをさらに三地帯に区分した上で、利根川の流路を復元し歴史的な生活空間の変遷を見事な手法で明らかにしている。

 第三章では第二章の成果を踏まえて、同地域の中世的地域構造を明らかにし、中世に成立した地域的一体性が近世初頭における国郡領域の再編成を必要とさせたと結論づける。なお、二章と三章のそれぞれの付記は、初出以後の研究動向と本書集録に当たって施した修正内容を記したもの。


 第四章では、香取内海地域が歴史的に一つの地域世界を構成していたことを明らかにし、将門の乱を香取内海地域と那珂川=涸沼地域の水運をめぐる争いと位置づけ、坂東の兵さらには鎌倉武士の多くが内海の領主であったことを主張する。東国武士が、地理や地域性に規定された条件に適合した多様な活動を展開したことが理解される。

 第五章は、相馬御厨関係地名の現地比定を丹念に行いながら、同御厨の成立過程を辿ったもの。十一世紀中頃以降の郡郷再編によって生まれた中世的な郡や郷を前提にして、布施郷を拠点として相馬御厨が成立したとし、領域型荘園の典型である相馬御厨の前史に、布施郷内の保・村→布施・黒崎別符→布施・黒崎御厨→「布施御厨」の変遷があったことを説いている。


 第六章は、中世の香取社が境界領域である香取内海と中世の利根川下流域に有していた支配権の根拠を、従来のような「梶取社」としての香取社の個性からではなく、国衙・一宮論の枠組みの中で解明しようとしたもの。

 香取文書にみえる「浦・海夫・関」は本来は国衙行政下に位置づけられていたはずであり、下総国一宮としての香取社の神主(大宮司)職は国衙行政に関わる公的性格を持っており、そのため「浦・海夫・関」の支配権は神主職領に属していた。それが南北朝時代に、大禰宜である大中臣長房が神主職領を集積し香取社領を再編することに伴い大禰宜長房の私領になった。そして長房が、国行事職を除いたそれらを一括して嫡子万寿丸(幸房)に譲与したことで、かつての神主職領は大禰宜の私領に完全に転化した。また、本来は在国司の国衙神事権に関わる所職であった国行事職は、長房から次男のかん寿丸(憲房)に譲られることで香取社の神官職の一つに変質し、大宮司(神主)職と国行事職は大禰宜職のもとに編成され、長房・幸房の家系に相伝される神職になり、大禰宜を頂点とする香取社の神官組織全体の再編が完成した。しかし、これは香取社が国衙行政に関わる下総国の一宮としての役割を終え、公的性格を喪失したことを意味し、香取社の香取内海や利根川下流域に対する支配権は、新たな公権としての鎌倉府に取り込まれていくことになったと指摘される。


 第七章は、中世香取社の支配下にあった長島関と行徳関について、現地を探訪して両関の位置と中世の風景の復元を試みたもの。現地を歩くことの大切さをあらためて教えられる。


 結では、平安時代の東海道新ルートについて考察し、二つの内海地域がその新ルートによって結ばれていたこと、江戸内海から太日川を遡上し、茜津駅(流山市付近)から陸路で東海道を志子多谷(柏市篠籠田)に向かい、そこからは大堀川や手賀水海を利用するなど、陸運と水運は併用されたであろうことを説いている。

 近年の地域史研究の貴重な成果であり、今後の東国史研究が踏まえるべき基本となる一書である。


(きむら・おさむ 千葉県立千葉高等学校教頭)
 
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