著者名:井上隆弘著『霜月神楽の祝祭学−』
評 者:長澤壮平
掲載誌:「宗教研究」79-3(2005.12)

 民俗芸能研究は現在、社会科学の方法や近隣諸国の事例との比較など、さまざまなアプローチにより展開されているが、芸能の所作などの様式そのものを対象とした芸態研究の限界や、昭和初期から採用されてきた神楽の分類の見直しなど、なおも多くの課題を抱えている。この状況にあって本書は、代表的な民俗芸能のひとつである霜月神楽を対象に、民俗芸能研究における現在的な課題のいくつかに対して新しい方向性を提案する意欲的な著作となっている。本書は、一九九四年から二〇〇〇年にかけてすでに発表された論文に大幅に手を加えたうえで、新たに書き下ろした論文を加えたものであり、対象となる奥三河の地に足を踏み入れてから二〇年ほどの歳月を経た、著者の神楽研究の集大成ともいえるものである。全体に二部に分かれており、第一部では花祭りを中心として舞の構造分析が展開され、第二部では霜月神楽全般をおもに古文書読解に基づいて議論している。

 構成は以下のとおりである。

序説
第一部 舞の宇宙
 第一章 花祭りの舞の形態
 第二章 神楽における神下ろしの舞
 第三章 花祭りの舞と椎葉神楽の舞
 第四章 花祭りの鬼
第二部 祭儀の森
 第五章 「神子入り」と祭祀の構造
       ―長野県天龍村坂部を中心として―
 第六章 湯立・穀霊・死霊鎮め ―二つの「玉取り」―
 第七章 霜月神楽における破邪の舞
終章 神楽研究の地平
       ―岩田勝著『神楽源流考』の方法をめぐって―

 以下、本書の内容を順を追って紹介していきたい。

 第一部では、花祭りを中心とした霜月神楽全般の諸事例における舞の空間構造をまず提示したうえで、文書、口伝、先行研究などを適宜参照しながら、舞にこめられている意味を読み解いていくという方法がとられる。舞の所作が造形していく空間構造の形態や、所作の形式的な性格(たとえば方向性や垂直性)を、舞の意味を追究するうえでの基礎とするのは、管見のかぎりでは芸態研究におけるまったく新しい方法である。

 まず第一章では、花祭りにおける舞の空間秩序が提示される。「地固めの舞」という演目は、「五方式」・「入り目」・「へんべ」などといった所作の次第によって空間秩序を創出していく。この「地固めの舞」は二人による演目で、後に続く演目の基本的な構造をなしている。続いて、三人による「三つ舞」、四人による「四つ舞」、同じく四人による「ゆばやし」へと進行するなかで、単純であった空間秩序が枝葉を広げるように創出されていく。そして、祭り全体のクライマックスで、湯釜において行われる「湯をはやす」所作が、その空間の頂点に仕組まれているとするのである。

 第二章では、所作の意味の慎重な検証を行い、第一章で提示された空間構造にいわば肉付けしていくような議論が展開される。そこでは、島根県の大元神楽などに見られる神下ろしの神楽を参照しながら、「入る」というキーワードに基づいて、花祭りにおける「入り目」という所作が神下ろしにあたるとされている。さらに、この「入り目」によって舞手はわが身に神を勧請しパワーアップをはかり、空間秩序を創出していく力を得るという。

 第三章においては、舞の空間の全体構造の意味が、宮崎県の椎葉神楽との比較検討のなかで追究される。そこで議論の中心となるのは、舞手が対角に相対して角から角へ入れ替わるような、角を「割る」所作と、舞手が地を踏みしめる「固め」の所作である。これらの所作は、「三つ舞」「四つ舞」などの演目で繰り返し行われる基本的な動作である。空間を形成するこれらの所作の意味が、文書資料や口伝などをも参照しつつ椎葉神楽と比較する中で明らかにされていく。その結果、「割る」所作は陰陽道から取り入れられたものとされ、さらに、仏教儀礼の修正会にみられる四天王の勧請による四方結界と、密教の修法である五大明王の勧請による五方結界とが加えられたとする。そして、文書資料の記述に拠りながら、その意義を「大地とそれによってたつ共同体の浄化と再生」としている。

 第四章「花祭りの鬼」は、前の三章とはある程度独立した内容になっている。花祭りで最も目立った存在は「榊鬼」であるが、これまであまり論じられなかった「山見鬼」が本章における焦点となる。山見鬼は花祭りにおいて最初に登場する鬼で、舞処の中央にある釜のうえでマサカリを振るう「釜割り」の所作が見どころになっている。まず、近隣の諸事例における鬼を参照しながら、「見る」「切る」という、鬼の基本的な所作の意味が検討される。これによって、「見る」ことが「道を開く」、「切る」ことが「道を開く」「清める」を意味することがそれぞれ提示される。そのうえで、山見鬼は、鬼門を「見」、魔障を退けたうえで、マサカリで釜を「切って」魔障を払うとされる。重要な点は、それが中央にある釜を割るのではなく、花祭りでは祭場全体を意味する「山」を割ることである。つまり、最初に登場する鬼である山見鬼は、「釜割り」の所作によって舞処全体の魔障を払う。そして、これによってはじめて主要な次第が行えるようになるというのである。続いて、花祭りの主要な鬼である「榊鬼」の所作「反閇(へんばい)」が考察される。まず榊鬼の反閇が陰陽道・密教の悪魔を払う呪術であることが提示される。次いで、マサカリを振るう「悪魔切り」が「反閇」へと推移したとされ、また、かつての土公神の信仰に関わる反閇が、やがて陰陽道・密教の呪術に変容したなどとして、歴史的変遷が跡づけられる。これにより、「反閇を踏む鬼」のユニークさが強調されるのである。


 第二部「祭儀の森」では、第一部の議論とは異なり、歴史的な問題に比重が置かれている。

 まず、第五章における問題は、霜月神楽がいかにして形成されたかである。これを検討するにあたって、長野県天竜村坂部の「神子(かご)入り儀礼」に焦点が当てられる。「神子」とは、一般の村人で祭りのときに特定の神役として奉仕する者のことで、「神子入り儀礼」は、新しい神子を生み出す儀礼をさす。「神子入り儀礼」は在地の神に関わる祭りの中で行われるものであり村落共同体内にて完結する。他方、外部からの宗教者の影響によってムラのなかに祀られない「火の王・水の王」が祀られるようになった。この議論のなかで浮かび上がってくるのは、在地の神の祭りと外部からの神の祭りとの対照である。坂部における「九月の祭り」は在地の神の祭りであり、「霜月祭」は在地の神の祭りと外部からの神の祭りが混合したものとされる。この坂部特有の祭祀のあり方は、近世初期の天正検地によって専門的宗教者の支配力が後退するなどの歴史的経緯によって形づくられたとしている。他方、遠山や奥三河などの近隣地域における祭祀のあり方は、明治期に至るまで専門的宗教者の支配力が維持されたことを反映している。こうした議論によって、現在も明白に見て取れる各事例それぞれの性格の違いがいかなる経緯によるのかが、納得のいくかたちで示されたといえよう。

 第六章では、霜月祭における湯立と新穀儀礼の意義が追究される。まず、静岡県水窪町上村における霜月祭の次第を詳細に検討するなかで、死霊を浄化し、祀り鎮めることにより福徳を授かるという、古層の湯立のあり方が明らかにされる。続いて、いくつかの事例を参照しながら、霜月祭における新穀の神霊への献饌の意義は、新穀の穀霊のパワーによる神霊の更新であるとし、さらに、宮崎県の神楽や花祭りを採り上げた議論のなかで、神霊を祀ることによって神霊から宝を受け取るという、神と人との交換関係が示された。次いで、伊勢神宮の摂社である志摩の伊雑宮の文書と、霜月祭の文書を比較検討するなかで、北遠の霜月祭が死霊鎮魂の神楽である浄土神楽の性格を持つものだったのではないかと議論される。この際、キーワードとなるのが「玉取る」という文言で、それに関わる部分は湯立と新穀儀礼がそれぞれ神霊の復活再生のために行われることを表現しているとされる。それはまた、荒霊を祀り鎮めることで守護霊へと高め、その功徳を得るということも意味している。そして著者は、この「玉取り」こそが霜月神楽の根底にあると主張するのである。

 第七章では、第一部に見られたような所作の造形の検証に比重をおきながら、霜月神楽一般に見られる破邪の舞が考察される。詞章を検証するなかで、まず悪魔を切り払う剣の意義が確認され、ついで、三信遠の霜月神楽の採り物舞の基本的な形態が「天・地・中を切る」であるとする。そして、このような「切る」所作こそは、破邪の舞の基本的な所作であり、天竜川東岸と西岸とのあいだで性格が異なるものの、花祭りの採り物舞にも顕著に見られる特徴であると結論される。

 
 終章では、岩田勝著『神楽源流考』の批判的検討を通して、神楽研究に対する新たな問題提起がなされている。これをまとめると以下のようになる。@岩田氏の著作において重要な論点のひとつは「託宣型」と「悪霊強制型」の類型論であるが、著者はこの二つを岩田氏の考えるようには截然と区別することは出来ないと断ずる。A岩田氏は「託宣型」を一人称語り=守護霊の語りとするが、著者は、神霊の一人称語りは必ずしも守護霊に限らないと主張する。B岩田氏は悪霊強制型の神楽能への展開として、「使霊の舞」という類型を示している。それは、呪者が仏神を勧請し、その威霊によって悪霊や死霊を払い鎮めるものだという。しかし著者は、神楽事は神楽能への展開のみでなく、様々な回路があるとして、その類型化に疑義を唱えている。C著者は、岩田氏の議論における共時的概念と歴史的変化に関わる概念の混乱を指摘し、両者は区別して論じる必要があると強調する。これらの批判を踏まえたうえで、著者は本書の序説においてすでに神楽の類型論の試案を提示しているので、ここに紹介しよう。それによれば、まずヨコの軸としてA:地神的な性格をもつ村落共同体の守護霊の祭儀と、B:悪霊を鎮送する祭儀とに区別される。そして、タテの軸としてC:生まれ清まりの祭儀と、D:死霊を浄化して祖霊に加える、あるいは浄土に再生させる祭儀とに区別される。ヨコの軸A・Bが共同体の中心と周縁に関わる祭儀類型であり、タテの軸C・Dは人々の人生儀礼に関わる祭儀類型である。さらに、いまひとつ重要な祭儀類型として「祭祀者の祭り」が挙げられている。それは、祭の本体とは相対的に独自な、祭祀者が自らの守護霊を勧請して祀る祭儀である。


 以上、本書を大まかに紹介してきたが、最後に全体的な批評をして小稿を締めくくりたい。本書の対象である霜月神楽は、民俗芸能研究草創当時から最大級の注目をあつめたわが国第一の民俗芸能であるため、非常に多くの研究が積み重ねられてきた。こうした状況にもかかわらず、本書があらゆる角度から新しい知見をもたらした功績は非常に大きいであろう。

 芸態研究一般の方法として注目されるのは、筆者のいう舞の「構造分析」である。舞うことによって、空間秩序が創出される。それは、単純な構造が次第に枝葉を広げるように、複雑で大きく、それでいて秩序に則った空間構造へともたらされていくのである。方位と天地は、陰陽道・密教などの理念に対応し、舞による「創出」は、「入り目」「へんべ」などの節々の所作において力を得、また、空間秩序に杭を打ち込んでいく。このような、舞における時間・空間を明確に意識し、その構造を宗教思想と対応させていく緻密な作業は、さらなる高度な研究への発展を予感させる。また、この議論によって、演者が舞うという時間的過程と、それによって創出されていく空間構造が、それ自体意味を持っていることが明らかになった。とりわけ重要なのは、従来は後天的な芸能的工夫とみなされがちであった舞の造形が、儀礼に付属するのみでない独自の意義を持っていることに焦点が当てられたことである。これは、本書全体に一貫したアイデアだといってよいだろう。たとえば、キリスト教・仏教などに関する芸術においては、宗教性を喚起する力と芸術性とがまったく不可分であることを思い起こせば、舞という芸術的要素が宗教的な機能と一体であることは、むしろ当然のことといってもよいはずである。いずれにせよ、舞の造形そのものが独自の意味を持っているという議論は、重要な問題を投げかけていると思われる。

 評者の関心からいえば、舞の構造分析は「現在的」状態を問題とする社会科学的議論にも関わると考えられる。もちろん、著者の問題関心は「現在的」様態ではなく、すでに成立している祭りのいわば「構造的」様態にある。しかしながら、「切る」「踏む」といった所作や、「東西南北」「天・地・中」といった空間構造は、現在の舞手や観衆の心性に作用するような、神楽の象徴体系がもつポテンシャルとしても考えられうる。たとえば、所作は「切る」ことによる爽快感や、「踏む」ことによる引き締まる感じ、そして空間構造は、場の空間感覚などとして、舞手や観衆の心性に作用する。評者は、早池峰神楽を事例として、たとえば「真剣さ」「こだわり」といった当事者の心性に焦点を当て、神楽に関わる実践がいかなる力によってなされているかを問題にしてきたが、当事者の心性を追究するうえで、神楽の象徴体系がもつポテンシャルの考察は重要な課題である。この意味で、著者の示した舞の構造分析は、それに対するひとつの方法を示唆しているように思われた。

 ところで、評者が花祭りや霜月神楽を調査した際、上演中に周りにいる友人と談笑する舞手や、練習不足でたどたどしく踊る若い舞手などが見受けられた。それは、この現在における祭りの楽しさや当事者の動機づけを表していたように思われる。しかし本書では、こうした現在的状態は捨象され、祭りは近代以前の姿として「理想化」されていたように見える。もちろん、このような現在的状態に関する議論は、ようするに社会科学的なもので、歴史的視角の研究とは別のものである。しかし、著者は「永遠の過去」を明らかにすると前提しているにも関わらず、「共同体の更新」といったエリアーデ的記述や、「本質」というコトバの用い方に見られるように、「現在の祭り」の代表として祭りを記述しているように見える。「理想化」に対してはすでに1990年代から厳しい批判があるように、歴史的ないし民俗学的視角による民俗芸能研究は、現実の民俗芸能と乖離している感が生じる場合が多い。この問題は、民俗芸能が歴史的事柄を抱えながらも、同時に現在的事柄とも関わりあっていることに由来すると思われる。いずれにせよ、本書にもまたある種の「理想化」が見え隠れしている。ひとつの提案としては、現在の状態を参照するにしても、「古態」を追究する歴史的研究として前提と記述を徹底させることが考えられるが、いかがだろうか。

 他方、序説にて提案された著者の類型論の試案は、神楽の多義性とさまざまな歴史的変化を深く掘り下げた著者ならではの見識を示しており、一定の有効性をもつと思われる。すなわち、たとえばある事例を「地神的な性格をもつ村落共同体の守護霊の祭儀」と類別すれば、悪霊強制、託宣事、利益の享受といった多義的な性格を包含するゆえにそれぞれの性格の間に齟齬も起こらず、それでいて、共同体の中心に関わるような、ある次元の一般的性格のなかに収めることができると考えられる。ここでは詳しく触れられないが、いずれにせよ、この議論は今後も入念な検討が重ねられるであろう。

 本書の全体的な印象としては、着実かつ膨大な実証的作業によって多くが明らかになったことはもとより、時間・空間の概念、および神楽の類型に関する理論的な明晰さは、後学に資すところ非常に大きいと思われ、評者も大変勉強になった。最後に、霜月神楽というわが国にとって大切な芸能に対し、真摯かつ丁重に取り組まれたことに敬意を表し、小稿を終えることにしたい。
 
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