新城美恵子著『本山派修験と熊野先達』
評者・西海賢二 掲載誌・山岳修験25(2000.3)

 

 「新城美恵子著『本山派修験と熊野先達』の刊行をめぐって」
 著者の新城美恵子さんにはじめてお会いしたのは一九七四年のことである。芥川龍男教授を会長とする法政大学封建社会研究会のメンバーとして、神奈川県小田原市周辺の荘園をめぐる見学会に豊田武教授らとともに参加された時のことである。当時、私は大学を卒業して就職浪人をしながら神奈川県西部の近世史や民俗的世界に興味をもち「小田原地方史研究会」に参加していたこともあって、多少の土地観もあり、小田原市内の曽我・大友周辺を歩く見学会の案内役をしたことによっている。
 その時印象に残ったことが二点あった。一点は、歴史学者豊田武先生が曽我から大友への畔道を歩きながらぽつりともらした「あと十年長生きしたいね」という言葉と、もう一点は豊田先生の傍らでいろいろと質問をする新城さんの姿であった。このことは妙に覚えており、その時のことが二日間にわたって私の日記に認められている。この二日間にわたる封建社会研究会の方々との巡見がより鮮明に蘇ってくるのは、本書を前にしているからかもしれない。
「いろいろと質問をしている新城さん」と書いたが、それは今回出版された『本山派修験と熊野先達』序文で宮家準先生が書かれているように、「先生、そんな史料はありませんよ」という意味合いのことを言っていたのであった。中・高校の教科書に出てくるあの豊田先生にそんな質問ができる院生とは、これから大学院の受験をしようとする私にとっては驚きであったことも事実である。
 その驚きがもっと鮮明になったのが、その後発表される二本の論文である。
「中世後期熊野先達の在所とその地域的特徴―伊予・陸奥国を例として―」(法政大学大学院日本史学『法政史論』第六号、一九七九年三月)
「聖護院系教派修験道成立の過程」(法政大学史学会『法政史学』第三二号、一九八○年三月
 この論文が本書の中心をなすことは誰しもが認めるところである。一九八○年代の西日本山岳修験学会を母胎にして誕生した日本山岳修験学会の会員をはじめ、山岳修験研究に関わる多くの者たちにこの論文がその後与えた影響は、同時期に刊行された何冊かの修験道関係の書物より意味をもつものだと、個人的には思っている。とくに熊野先達の在所の研究は地域ごとには進んでいたものの、在地文書と発給文書との関連で正面切って論じたのは、やはり新城さんの論文だと断言してもいいだろう。
 その研究をさらに深めてまとめられたのが「補任状から見た修験道本山派の組織構造―中世から近世ヘ―」(日本山岳修験学会『山岳修験』第一四号、一九九四年二月、原題「発給文書から見た修験道本山派の組織構造―中世から近世ヘ―」)である。前掲した二本の論文とこの論文が刊行されるまでには十数年の間隔があるが、新城さんの思いのなかには二本の論文を何とか「本山派成立期の再検討」としてまとめようとする希望があったことを、論文からではなく、普段の会話の中で度々伺ったことである。この十数年は「子育てがあってなかなか研究会に出られないの」という言葉が象徴しているようであった。それが息子さんが独り立ちされた頃から、新城さんは日本山岳修験学会や他の研究会にも積極的に参加されるようになり、まさに水を得た魚のように本山派成立期のことを得々と語っておられた姿が忘れ難い。今、私の手元に宮古市での山岳修験学会の時の写真が一九九二年一○月一一日と裏書して残っている。
 近世史を中心に勉強している私には、中世後期の本山派修験の詳細はよく理解できないでいるが、それでも新城さんは「それじゃ駄目よ、この問題は中世の問題としてだけでなく、近世の修験の定着と絡めてやらなくちゃ」と御教示してくれたことが思いだされる。新城さんの指摘はいつも的を得ていた、時としてその言葉が強く感じることもあったが、実は暖かみのある示唆であったことは今更ながらにして考えさせられる。
 ところで、新城さんの評価をめぐって学問以外で話題になったことが二、三度あった。個人的にはこの話題に憤慨して席を立ってしまったこともある。それは有体にいえばこうである。論文はすごい、だけど新城さんは研究者ではないから、という研究者がいたのである。このことはいまでもこの研究者を個人的には許されるべきものではないと思っている。こんなことを言っているから、日本の歴史は本質的なことを見逃がすのだと憤りに思ったこともある。研究機関に所属していない人や、主婦の書いたものは、研究として学界の共有の財産にできないという嫌らしさを痛いほど知らされた。この点については、私の心の中にだけ止めて置きたかったが、この機会にはっきりと書いておきたい事であった。
 正直、新城さんの業績にいい意味で怯えている研究者もいた、それほど新城さんの前掲した三本の論文は、歴史学と民俗学をうまく融合させようとしていた萩原龍夫先生の言葉を彷彿とさせるようであった。「史料をもって史料を、伝承をもって伝承を」。新城さんは、この方法をものの見事に実行されていった方だと思っている。
 一九九七年二月八日から一○日にかけて、愛媛県西条市総合文化会館を会場にして日本山岳修験学会の第一八回石鎚山大会が開催されたが、不肖私が雑務係として大会実行委員長を勤めた、この大会に新城さんは「本山派成立期の再検討」というタイトルで発表要旨を添えて申し込まれた。これには、とうとう研究をまとめるべき時がきたなという思いがして、私は嬉しくパンフレット及び発表要旨の冊子作りに励んでいた。そんな折、八月頃だったろうか、御主人の本書「あとがき」によれば、この時期はまさに病魔との闘いのまっただ中だったようで、「病魔はすでに体内蝕んでおり、がんの告知を受けたのは一九九七年七月一五日午後でした」、さらに「結果は肺がんの末期とのことでした。主治医は私たち家族には、あと三か月から一年もつかどうかだといいました」、とある。このような状況下においても、新城さんは学問と真向から闘争しているように私に手紙をくれました。「本当に悪いけれど「本山派成立期の再検討」という題では大会報告ができないが、どんな形でも報告はさしていただく」という連絡がきた。病状を知らない私は、それを別に気にもとめなかった。
 今になって思えばがん告知から三か月後に大会報告をしていただいたのである。報告内容は案内とは異なるものであった。それは「武蔵国半沢覚円坊について」(日本山岳修験学会第一八回石鎚山大会口頭発表、一九九七年一一月九日)というものであった。
 しかし、この報告も新城さんの面目躍如たるものがあった。覚円坊の所在をめぐって、それまでの研究者が踏襲していた地と異なる所在を明示され、いわば定説を覆したのである。司会をしていた私は幕の裏で一人「やった、やった」と相槌を打っていたことを思い出す。その後、新城さんから「西海さんに迷惑をかけてごめんなさい」という手紙をいただいていたが、この報告は東国における本山派成立期の重要な論点を提示していたことはまぎれもない事実である。
 以下本書の構成と発表年を紹介しておこう。
序(宮家準)
中世後期熊野先達の在所とその地域的特徴―伊予・陸奥国を例として―」(一九七九年三月・四五歳)
聖護院系教派修験道成立の過程(一九八○年三月・四六歳)
坂東屋富松氏について―有力熊野先達の成立と商人の介入―(一九八一年二月・四七歳)
武蔵国十玉坊と聖護院(一九九四年一月・六○歳)
補任状から見た修験道本山派の組織構造―中世から近世ヘ―(一九九四年一一月・六○歳)
武蔵国半沢覚円坊について(一九九七年一一月・六三歳)
民間信仰調査の方法―寺院縁起・信仰資料―(一九八七年一一月・五三歳)
本山派修験玉林院関係文書について―饗庭武昭氏寄託「古文写」解説―(一九九四年三月・六○歳)
藤田定興著『近世修験道の地域的展開』を読んで(一九九七年一○月・六三歳)
武蔵国葛飾郡笹ケ崎村の人々とくらし「宗門人別帳」を中心に(一九八七年三月・五三歳)
武蔵国多摩郡乞田村の人々とくらし―明和七〜九年「日記并諸事控帳」から―(一九九一年三月・五七歳)
家のつきあいと信仰―多摩市域の近世社会―(一九九七年三月・六三歳)
「自由」の語義の変遷に見る思想史的意義(一九七七年二月・三九歳)
















 これらの一九七三年から一九九七年まで、著者三九歳から六三歳までの二五年間に発表された論文を、夫君新城敏男氏が体系的に編集されたものである。いわば新城さんの大学院修士論文から、博士課程以降に執筆されたものを、ほとんど網羅的にまとめたものである。
 ちなみに一四の論文が納められているが、そのうち三○歳代のものが一本、四○代のものが三本、五○代のものが三本、六○代のものが六本となっている。しかし、本書の中心は四○代の半ばに集中してまとめられた前掲した高い評価を得た二論文と、六○代に入ってそれをまとめるスタートとなった「補任状から見た修験道本山派の組織構造―中世から近世ヘ―」であるだろう。
 論文全体の紹介は私の能力不足でその任を全うすることができないので、本山派修験と熊野先達に関わるもので、新城さんの指摘した重要部分を掲げることにする。
 従来、地方修験の拠点が、旧仏教系寺院であること、ことに本迹思想の濃厚な熊野社、同社領および一宮ないし有力大社を主とすることとを区別することに集約する嫌いがあるが、神仏習合の風の著しかった中世において無意味ではなかろうか、さらに地方修験の在所の地域的特徴と、御師による檀那掌握の形態の相違とは無関係ではない、そのためには先達寺院の動乱期における武士団への主体性ないし従属性の度合いにかかわり、それぞれの地域社会の歴史的環境に応じる形態をとることによってその特性を見出せる、と結論を出している。
さらに聖護院系教派修験道成立の過程について、応仁の乱終結後の聖護院門跡道興の姿勢の背景には、京都の荒庵、幕府権力の失墜、荘園制崩壊などの当時の社会的変動によって余儀なくされた一面を認めつつも、より以上に京都を中心とした政治的世界に集約されるだけでなく、関東・東北地方の身分の低い熊野先達らにとって、三山の権威失墜に比例し、前将軍や関白殿下という権威のもつ形式的意義に大きなものがあり、道興の三山検校としての自覚と行動が、政家の関白就任に期を同じくして活発となり、以後実質的に諸国山伏の頂点に立つことになった、としている。
さらにこの結果として、一五世紀後半における「聖護院支配下の山伏」の組織体、すなわち聖護院中心教派の成立が認められ、十五世紀中葉には関東八カ国で成立していたごとき先達の組織は、ほぼそのまま聖護院門跡の締宰を受ける形となっていたことを実証したのである。

 最後に、がんと壮絶な闘いのなか、一九九七年の一一月九日の日本山岳修験学会で発表しようとした「本山派成立期の再検討」の大会実行委員会に提出された「発表要旨」を紹介する(この「要旨」は夫君の新城敏男氏によって本書の「あとがき」にも収録されている)。
 近世以前の本山派組織化過程のもつ個々の意味を再度考えてみたい。ここでは二点取りあげる。
 (1) 平泉澄から新城常三にいたる熊野御師や先達を対象とした比較的初期の諸研究で、 ほぼ触れられて いる檀那の掌握方法の推移は、守護大名・戦国大名の没落と近世村落の成立という社会的背景の変化に対応すると結論される。一歩踏み込んで、この状況が近世本末制度に先行したとみることができないだろうか。
 (2)一五世紀から聖護院の補任状が発給されるが、近世中期に至る長期にわたるスパンでは、位階と寺格に同呼称が存在するため、近年の細分化された研究で混乱が生しているのではなかろうか。






 この二点からも、新城さんは、中世社会から近世社会への移行期における檀那の変質を、政治史を中心とした切口だけでなく、近世仏教史の本末制度との関わりで論じていくこと、その実態を聖護院の補任状の発給状況から検討していくことの可能性を論じようとしていたことがわかる。さらに、この可能性をより地域史のなかで積み上げていくことの重要性を指摘しようとしたのである。当日はタイトルを変えて「武蔵国半沢覚円坊について」として報告されたが、それは「本山派成立期の再検討」の一環であったからである。
 それにしても、一九九七年一一月九日の三○分間の報告は、病魔と闘っている新城さんにとって生死をかけた叫びであったのだろうと思うと、胸が痛くなる。そして「主治医にあと三カ年もつかどうかを尋ねたそうです。三カ年あれば、いま考えているテーマをなんとかまとめられるからと」(「あとがき」より)というこの言葉の持つ意味を、我々後学の者は真摯に受け止めて精進したい。
 編集委員会から書評をとの依頼であったが、感情に先走りとても書評などできる状況になく、書誌紹介と新城さんの歴史研究への志の一端を紹介するに終始してしまったことをお許しいただきたい。
 最後に、新城さんどうぞ安らかにお眠りください。常日頃いただきました御指導に対して深く御礼申し上げます。
 合掌
 (にしがい・けんじ 東京家政学院大学助教授)

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