著者名:吉川祐子編著『昔話から“昔っこ”へ−白幡ミヨシ・菊池玉の語りより−』
評 者:大谷 めぐみ
掲載誌:「宗教民俗研究」16(2006.12)

 柳田國男が佐々木喜善の語りを基に『遠野物語』(一九一〇年)を著してから一世紀近くが経つ。この間、『遠野物語』によって紹介された岩手県遠野の民俗 伝承は、多くの人々の心を捉え、遠野の語り研究もこれを基盤として大いに進展をみせた。その一方で、柳田による叙情的表現は、遠野の人々の生活や民俗伝承 の幻想的な世界を形成させ、「遠野」のイメージを固定化させる功罪をももたらしたという。
 本書は、現在遠野市に在住し、観光昔話語りで活躍されている白幡ミヨシ(明治四十三年生)と菊池玉(昭和九年生)親子の語りを採録し、分析対 象としている。『遠野物語』における語りの世界とは異なる、現代の、それも女性の現実的な人生経験を通じた視点からの遠野の語りに注目している。そこで は、たとえ同じモチーフであっても、家督の嫁、弟嫁という立場の相違や、嫁世代、姑世代という世代の相違などが反映されてくる。さらに語るモチーフの選択 さえもが異なってくるのだという。遠野の語りをジェンダーの視点から捉え直す試みは、遠野のみならず、語り研究にとっても大きな意味をもつに違いない。
 それではまず、本書の構成を示しておく。

序 章 昔話から“昔つこ”へ
第一章 女性語りの“昔っこ”
 立場の異なる二人の嫁/昔話の記憶化と個性化/ジェンダーヘの目配り/男女差伝承の民俗/“昔っこ”の男女差伝承
第二章 他人から家族になる語り
 嫁・姑の葛藤(話ばりする嬶、極楽見てきた婆さま、我が子の教え、鬼になった婆さま)/嬶への道(髪のない女と鼻のない男、屁っぴり嫁ご、カブ売り男、菖蒲と蓬、炭焼き長者、田植えを手伝った座敷童子、酒飲みと碾き臼)
第三章 親子の絆と子育ての語り
 母の子育て父の役割(早瀬川原の親子石、お月お星、太郎次郎、童子の寿命)/親から子へのメッセージ(カラスに教えられたセヤミの息子、脂をと られたセヤミの話、カラスの巣作り、スズメとツバメ、カッコウとホトトギス)/子から親へのメッセージ(親を買った話、鬼の子小次郎、金のなるフクベ、ド ドッコの話)
第四章 女性が語る男性の語り
 父子の絆(石屋の一人息子、三人息子にベコのケッペ三つ、百尋の縄の灰)/家の繁栄と没落(さとりの藤兵衛、出ていく座敷童子、クラボッコの話)

 序章には、「昔話から“昔っこ”へ」の書名に込められた、著者の語りに対する考えがよく表されている。
 従来の昔話研究では、昔話だけを「ムガシ」または「ムガシッコ」と呼び、伝説や世間話とは区別して捉えられていたが、現在、遠野などの地域で は、昔話をはじめとした民間説話を総称して「ムガシ」「ムガシッコ」と呼ぶ傾向があるという。このことは、伝承地において口承文芸の分類が崩れてきている ことを示している。
 遠野では、世間話は昔話のモチーフやストーリー展開を上手に取り込んで語られるため昔話に近似し、一方、昔話も自らの民俗と経験を巧みに取り 込み語られて世間話に近い口調となったため、昔話と世間話は区別がつきにくい状況があるという。このような「ムカシ」(昔話)と「ハナシ」(世間話)の混 同を、著者は“昔っこ化”と呼ぶ。そして、「語りの基本的背景は、その人間性はもとより、生活環境や経験による生活実態にあ」り、このことが“昔っこ化” する所以とする点は大変示唆深い。
 こうした傾向の背景には、昭和に入り民話が観光資源とされ、観光客や地元市民に対し、民俗語彙や方言を生活語りによって補足説明する必要が生 じてきたことや、研究者など、ある種の目的を持つ民俗を一にしない聞き手に対して語りが行われるようになったこと、現地において語りが日常に行われず、次 世代へ十分に伝承されなくなったことなどがあると指摘する。これらの相乗作用によって、「昔話から“昔っこ”へ」、すなわち「生活語り化」へと傾斜して いったとしている。
 そこでは語り手の人間性はもちろん、生業や生活環境、人生経験、民俗文化などが問題となるが、本書では先に述べたように、白幡ミヨシ・菊池玉 親子の語りについて、「遠野という一地域の昔っこというより、女性が語る昔っこに重きをおいて、女性の立場、つまり嫁という立場、妻という立場、そして母 という立場から読む試みをした」点に特徴と意義が見出されよう。

 この女性語りに注目する意図や、男女の“昔っこ”に生じる相違の背景と構造については、第一章に詳述されている。そのなかで、ミヨシ・玉親子の語りは女性の現実的民俗が中心で、『遠野物語』は男性の心意的民俗が中心と分析する点は大変興味深い。
 さらに第二章以降はミヨシ・玉親子による“昔っこ”の聞き書きが記され、各話に対する著者の解説が付される。著者が指摘するとおり、母娘とはいえ、二人の女性の語る内容にも相違がみられる。
 第二章は「他人から家族になる語り」として、若嫁と姑との確執、嫁と姑の張り合い、立場の逆転、家督の嫁と家の盛衰をはじめとする十一話が、 嫁・姑あるいは家督の嫁・弟嫁など、女性の異なる立場から語られている。時間経過とともに変化していく家庭での関係性や、生業や家の盛衰とも密接な女性の 姿を充分に捉えている。
 続いて第三章「親子の絆と子育ての語り」では、シングルマザーヘの風当たり、異母姉妹と継母の対立、子の誕生と父の役割、子のしつけ、親の再 婚と子の犠牲、娘の恋愛・結婚と父親などを主題とした十三の語りが収録されている。子育てをめぐる母の立場からの語り、夫の子育てに対する妻の立場の語り などが記される。
 第四章「女性が語る男性の語り」は、男性の立場の“昔っこ”で、女性語り化しなかったもの六話を収録している。主題は、父の後継者への期待、 総領相続の正当性、長者家の盛衰などである。多くはミヨシ・玉親子が観光語りのなかで語るものであって、本来は家督や職業、家の盛衰について男性が子や孫 へ、家督から家督へと語ったものがほとんどのようである。登場人物も男性が主であることが多い。中には『遠野物語』の男性的語りがそのまま影響しているも のもあるという。

 このように、ミヨシ・玉親子が語る“昔っこ”には、語る側の様々な女性としての立場や想い、人生経験が投影されている。それは、我々がよく知る 昔話の類型・モチーフでありながら、現実に世間話やメディアのなかで度々耳にし、時に実体験の記憶を有するストーリーでもある。それだけに実にリアルで、 聞く(読む)者を惹きつけ、教訓性と愉快さを兼ね備えている。さらに各話の特徴やその背景的状況を指摘する著者の解説は、核心を捉えるものである。
 一点だけ述べるならば、昭和に入り民話が観光資源とされたことや、現地において語りが日常に行われず、次世代へ十分に伝承されなくなったこと などが“昔っこ化”の要因と指摘されるが、家や在地社会における語りはいつの世も実生活と密接と考えられ、「生活語り化」は昭和以前から行われていたと思 われるので、それらの関係性を伺ってみたい。
 なお、白幡ミヨシの“昔っこ”は、著者の手によって『白幡ミヨシの遠野がたり』(一九九六年)、『遠野物語は生きている』(一九九七年)とし て上梓され、また同氏から聞き取った遠野の民俗誌は『遠野昔話の民俗誌的研究』(二〇〇二年)として刊行されているので、併せて参照されたい。
 
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