著者名: 渡辺尚志編『藩地域の構造と変容 信濃国松代藩地域の研究』
評 者: 原田 和彦
掲載誌: 「日本歴史」704(2007.1)

 本書は一橋大学の渡辺尚志氏を中心としたグループによって実施されている、信濃国松代藩領をフィールドとした共同研究の成果報告書としての性格を持つ。
 本書における問題の所在や所載論文の概要については、渡辺氏が序章において詳しく触れられており、詳細はそちらに譲りたい。なお本稿はこの序章に依拠する部分が多いことをあらかじめお断りしておきたい。
 本書あとがき(渡辺氏執筆)では、刊行の契機となった事項を二つあげている。まずは第四三回近世史サマーセミナー(二〇〇四年七月、長野県・山 ノ内町にて開催)であり、そして文部科学省科学研究費助成金基盤研究(B)(1)「戦国末〜明治前期畿内村落の総合的地域研究」の交付があったこととす る。ことに前者については、統一テーマを「松代藩にみる大名権力と在地社会」と掲げ、藩政史研究の「総花的な個別研究」では藩の相対的把捉は困難であると いう認識のなかから、四つの分析視角を設定している(一橋大学若尾・渡辺ゼミ『第四三回 近世史サマーセミナーの記録』二〇〇五年七月)。
 @幕領・藩領の入り組み地帯のなかで、「藩」という枠組み・領域をどのように認識していたであろうか。在地の状況・要求と藩の対応、地主−小作関係からあきらかにする。
 A真田家文書に残った一件文書から百姓−領主関係をみることで、藩の裁許・裁判から見える法意識、「片意地もの」「偏気もの」と藩政とのかかわりを検討し、地域社会論との対話を試みる。
 B一九世紀、「松代の三山」(山寺常山・佐久間象山・鎌原桐山)が出現する学問・思想的背景を探る。
 C幕府−大名家−家臣団−地域社会、諸集団との相互関連性と規定性をあきらかにする。

 ところで、本書・書名に用いられている「藩地域」とはいかなる意味を持つものか。この言葉は本書を貫くテーマでもある。この用語について渡辺氏 の言葉をそのまま引用すると、まずは「武士−百姓関係や都市−農村関係、身分集団間の相互関係など、多様な諸関係の坩堝としての」存在であり、具体的に は、「地域社会論と、藩政史・都市史・身分論・思想史などとの架橋・総合化の試み」であるとする。この「藩地域」の実証研究を重ねることが近世史の全体像 に迫るための方法論の提起にもなるという。
 「藩地域」という言葉は、深谷克己氏の提起する「藩世界」の問題提起に端緒がある。深谷氏の提起は「藩領をまたいで存存する諸集団や、藩領内 外の集団間の相互関係までも視野に入れた概念であり、これを用いることによって、ともすると各分野に分断されがちな諸問題を総合的に把握しうるもの」であ る。本書はこの考え方を発展的継承している。すなわち、「藩領域を対象として、そこに生起する諸問題を総合的に扱うことは、近世社会のトータルな把握にい たる有効な接近方法」であると。この帰結するところが、前述したような近世史研究への問題提起となるというのである。
 確かにこの説明は納得がいく。地域社会はさまざまな関係の中で成り立っているのであり、そうした意味で「藩地域」という言葉の響きから新しい 学問への期待を抱くのである。主題がそれてしまうが、各地で出版されてきた自治体史(誌)も遠からぬ位置づけだったのかもしれない。当地域においてもさま ざまな自治体史が発行され、現在はすべて出尽くしたという感がある。こうした自治体史のうち、鈴木寿氏が中心となって編集された『更級埴科地方誌』近世編 上・下の二冊(一九八〇年・一九八一年)は、当該地域に関する概説書としては好著である。長野県の更級郡・埴科郡域の自治体史であり、幕領や藩領などが入 り組んだ地域を取り上げ、藩政史はもとより近世村落や文化史をも網羅している。
 ともあれ、本書はおもに領主−百姓関係を訴訟関係に重点をおいて「藩地域」のあり方を考えている点は特筆すべきであろう。いわゆる、真田家文 書のうちの一件文書からの視点である。このほか、松代藩の「家中」意識や学問、そして真田家の養子相続の実態解明など、真田宝物館に奉職するものとしては 実に興味深い論考が収められている。
 巻末には、松代藩関係文献目録も収録されている。松代藩に関する研究史の整理もしっかりと行われており、後学の私にはとても有用である。
 所収されている各論文について、また本書の構成については、渡辺氏の詳細な解説があるのでここでは所収論文を紹介するにとどめる。

 第一編 訴訟にみる藩地域の特質
  第一章 大名家文書の中の「村方文書」               渡辺尚志
  第二章 村方騒動からみた領主と百姓                渡辺尚志
  第三章 近世後期における領主支配と裁判
        −下真嶋村寅吉不法田畑譲渡一件を事例に−       野尻泰弘
  第四章 近世後期松代藩の村役人と処罰
        −福嶋村沖八差紙不出頭問題をてがかりに−       重田麻紀
  第五章 文化・文政期の松代藩と代官所役人の関係          福澤徹三
  第六章 松代藩領下の役代と地主・村落              小酒井大悟
  第七章 松代藩領の盲人
        −弘化三午年東寺尾村飴屋兵助女子一件−        山田耕太
 第二編 藩地域の多彩な展開
  第八章 元禄・享保期松代藩の家中意識
        −落合保考を中心に−                 綱川歩美
  第九章 宝暦期松代藩における学問奨励
        −菊池南陽と小松成章を中心に−           小関悠一郎
  第十章 大名家を継ぐ
        −松代藩の家中騒動と養子相続−            佐藤宏之
 松代藩関係文献目録                       小関悠一郎編

 なお、あとがきによれば、本書は松代藩地域研究の第一歩であり、今後さらに新たなテーマに挑戦して、次の論集の刊行を予定されているようである。松代藩資料の収蔵館に勤務するものとしては、ぜひとも続刊を期待したい。
 全国的にみても質量ともに豊かな近世武家文書である真田家文書や、北信濃の農村・町に多く残されてきた近世文書がますます研究に供され、「松代藩地域」の解明が進み、近世史研究が方法論的にも深まることを望むのである。

(はらだ・かずひこ 真田宝物館学芸員)
 
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