著者名:湯浅治久著『中世東国の地域社会史』(中世史研究叢書)
評 者:鈴木 敏弘
掲載誌:「日本歴史」703(2006.12)

 中世東国史研究は、かつて史料の僅少性から研究が停滞していたが、一九八〇年代以降には史資料の発掘がなされ、多角的な視点からの研究が進められた。本 書の著者である湯浅治久氏は、一九九〇年代以降独自の視点からさまざまな史資料を駆使し、陸続と成果を公表されてきた。その精力的な活動は、東国史研究の 中心的役割を担ってきたといっても過言ではない。
 湯浅氏は、すでに主として西国を対象とした『中世後期の地域と在地領主』(吉川弘文館、二〇〇二年)を刊行されており、在地社会の研究については定評がある。これに対して本書は、これまで発表されてきた東国に関する論考を集大成した論文集である。

 第一部「東国寺院と地域社会」は、第一章「東国の日蓮宗」・第二章「東国寺院の所領と安堵」・附論一「東国寺院資料の伝来と宝蔵」・附論二「六 浦上行寺の成立とその時代−聖教奥書から考える−」・附論三「史料としての曼荼羅本尊−僧侶の活動から見える地域社会−」の五本の論考によって構成されて いる。
 第一部の「東国寺院と地域社会」は、中山法華経寺を中心に東国における日蓮宗の展開過程を明らかにしている。法華経寺は、下総国守護千葉氏の 吏僚である富木常忍が日蓮に帰依した関係から、日蓮は守護所八幡庄にしばしば滞在し、八幡庄周辺には、千葉氏家臣を中心とした日蓮門徒が集中していた。そ して、日蓮が八幡から鎌倉へ至る経路は、六浦を経由する海路を通っていたことも指摘する。鎌倉後期には、有力信徒である千葉胤貞が数多の所領を寄進し、胤 貞の領主権をバックボーンに寺院としての基盤を整備していった。このように寺院の存立基盤には、在地領主層の領主権があることを指摘する。なお、法華経寺 は、胤貞流千葉氏が没落するとともに、永徳年間(一三八一〜一三八四)以降衰退していくが、子院の法宣院が本寺をしのぐ勢力を持つようになる。その原因 は、法宣院の院主日英が、武蔵国守護犬懸上杉氏の守護代埴谷氏の出身であることによるという。そして法宣院の末寺・講演職の分布は、法華経寺のそれをしの ぎ、主に犬懸上杉氏の守護管国を中心に分布していることから、その保護のもとに展開していたことを指摘する。なお、犬懸上杉氏の没落後には、これらの末 寺・講は退転している。
 これらの事例から、寺院の教線伸長に為政者の外護が必要であり、その没落は寺院勢力にも影響を及ぼしていることを明らかにしている。そして南 北朝以降の日蓮宗は、在来の村堂や辻堂の取り込みによって教線をのばしていくという。これは以前の外護者との関係から一歩進んだものであり、村落と辻 (「都市的な場」)の展開という中世後期の成熟しつつある地域社会へ積極的に布教を展開した結果であるという。
 特に「都市的な場」における教線の伸張過程について湯浅氏は、つぎのように興味深い指摘をされている。「都市的な場」においては、日蓮宗・時 宗・浄土宗などが布教のために教線を伸ばしていた。それは、都市的な場が強固な領主支配を受けない場であり、無主の地、開放された空間であることに由来す るという。つまり領主は、流通を活発化し、そこから富を得るために有徳人を養成し、都市を主従の論理で支配することを欲しないからであるという。領主支配 の場である郷村に布教を行うことは、支配者との折衝などそうたやすいことではなかったはずであり、それゆえ、「都市的な場」をまず拠点とし、その上で領主 との交渉や日常的な交流を通じ、次第に周辺農村へとその教線を伸ばしていったのではないだろうかとされる。そして、江戸湾に展開するこうした場は、水路で 緊密に結ばれており、流通の場であるとともに宗教の道ともなっていたという。
 確かに湯浅氏が指摘されるように、今後は都市と農村の相互関係の中で、宗教の浸透を考えていかなければならないであろう。そして郷村に比較し て「都市的な場」が強固な領主支配を受けない場であり、開放された空間であるという側面は否定できない。ただし、領主支配権が「都市的な場」に比較して農 村の方が強固であったとする点は、今後も検討が必要ではないかと思われる。「都市的な場」における信仰空間の存在は、やはり湯浅氏自身が指摘されたよう に、雑多な信仰心を有する雑多な人々が集うという都市の特性、それは新たな信者を獲得できる可能性と信者が存在する可能性、さらには都市に集う人々の帰依 者が信仰の拠点を欲した等々の理由の方が、より説得力があるように思われる。
 第二章では、同じ中山法華経寺の分析を通して、所領と上級権力の安堵について論じる。湯浅氏は、安堵とは、時の政治的保護と被保護の関係に規 定されたものであった。そして、極論すれば誰の安堵であるかが問題ではなく、安堵の事実とその文書事態が歴史的事実として蓄積されていくことが必要であっ たと指摘する。附論一は、法華経寺における資料保存装置としての宝蔵のありかたについて論じている。聖教類は、基本的には法華経寺の前身のうちの一つであ る本妙寺に保管されていたが、一部は六浦の有力商人であり信徒六浦妙法の坊や金沢寺(金沢称名寺)・真間御堂(真間弘法寺)・檀那・信徒などのもとにも保 管され、さらに他の地域や日蓮宗以外の寺院にも貸与されている。それによって、教線の拡大と聖教類の重視・流通などについて指摘している。附論二は、聖教 の奥書を手がかりに六浦上行寺を事例に千葉と鎌倉等の流通と末寺の展開について指摘する。附論三は、曼荼羅本尊の象徴性と機能について論じ、その分布か ら、埴谷氏が首謀者となった反持氏の一揆の背景には、日蓮宗の信仰にあらわれた上総・下総での在地の結合があるとの推測をされている。
 以上のように、第一部は中世寺院の存立過程を通してその基盤と権力、さらに流通・交通という視点を加味して地域社会像を明らかにしようという ものである。このような視点から検討された研究は皆無であり、単なる寺院史ではなく、地域社会のあり方を寺院を中心に研究する視点からの解明は、先駆的成 果といえる。

 第二部「東国「郷村」社会の展開」は、第三章「室町期東国の荘園公領制と「郷村」社会−上総国を事例として−」・第四章「中世郷村の変貌−下総 国八幡庄大野郷の十五・六世紀−」・第五章「中世〜近世における葛西御厨の「郷村」の展開」・附論四「お寺がまるごと買った話−中世東国村落における末寺 の形成−」によって構成され、いわゆる村落史を中心に構成されている。とりわけ中世後期社会の基本的枠組みを「郷村」に求め、第三章では上総国を事例とし て東国における荘園公領制と「郷村」との関連を梵鐘・鰐口などの金石文の分析を通して、荘園公領制の枠組みを母胎とした「郷村」が、一五・六世紀の地域社 会の範域を規定し、その主体は、「郷村」を基盤とした侍層であることを論じる。第四章では下総台地に所在した八幡荘大野郷を事例として、第五章では低湿地 である下総国葛西御厨を事例に郷村の中世から近世への展開について論じている。これらの作業では、元禄期の検地帳や『武蔵田園簿』などの近世史料類を手が かりとして中世村落の復元を試みている。附論四では、東国の村の支配について論じる。
 これまでも東国における中世村落の景観復元は試みられているが、今日のような都市化された状況においては、その復元は困難を窮めている。その ような状況の中で、第二部では、明治期の迅速図や近世史料など様々な史資料を駆使して村落の復元がなされており、学ぶところが多い。

 第三部「地域経済と「都市的な場」」は、第六章「鎌倉時代の千葉氏と武蔵国豊島郡千束郷」・第七章「肥前千葉氏に関する基礎的考察−地域と交流 の視点から−」・第八章「東京低地と江戸湾交通」・第九章「中世東国の「都市的な場」と宗教−地域史のための方法的一試論−」で構成されている。第六章 は、『日蓮遺文紙背文書』を手がかりに、千葉氏と武蔵国豊島郡千束郷の関係を軸に幕府直轄地としての為替・年貢の流通形態など東国の経済システムについて 明らかにした。第七章も第六章同様『日蓮遺文紙背文書』の分析から、下総から分流し、九州の肥前国小城郡に西遷した肥前千葉氏について、鎌倉期における下 総と小城とをめぐる財の運用および千葉氏の土着過程を明らかにしたものである。第八章・第九章は、東国、とりわけ東京湾とその周辺に散在する「都市的な 場」をとりあげ、東国の流通・交流等について論じている。そして、「都市的な場」の形成と領主・宗教などとの関わりについて明らかにしている。

 以上のように、第一部から第三部までの諸論考を通読してみると、その根幹には、「都市的な場」「流通」「地域景観」というキーワードが存在して いることが読みとれる。湯浅氏は、東国史研究に「都市的な場」の概念を積極的に導入し、筆者も影響をうけた一人である。東国に限らないが、「都市」または 「都市的な場」という概念規定およびその実態について改めて考える好機となった。本書は、東国社会を理解するための必読の書といえるが、湯浅氏の史資料の 分析手法は、他の地域においても援用することが可能であろう。
             (すずき・としひろ 成城大学民俗学研究所研究員)
 
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