著者名:藤井一二編著『古代の地域社会と交流』
評 者:谷口 榮
掲載誌:「地方史研究」324(2006.12)

 本書は、日本沿岸地域を中心とする各地域の内実、地域間の比較、対岸アジア諸地域と日本海諸地域の交流などを研究の目的とする日本海地域史研究会によって「古代の地域社
会と交流」と題して一書に編まれたものである(編者は藤井一二氏)。
 本書には、以下の五本の論文と研究ノート一本が掲載されている。

 平安初期の浪人支配と僧尼           堅田 理
 奈良・平安期における郡司任用の変遷
   −越中国砺波郡司の任用例を中心として−  中条充子
 古代における物資輸送の一形態         根津明義
 渤海使の来往と日本海地域           藤井一二
 研究ノート・長屋王の雑役労働者について    吉本 明

 各論文と研究ノートの内容について少し触れると、堅田理氏の「平安初期の浪人支配と僧尼」は、八世紀において民間修行者を含む僧尼以外、移動や 移住など国境を越える自由な交通が禁止されていたが、その後どのように変化していくかを述べている。堅田氏によると、八世紀末から新たな浪人身分支配が成 立すると、移動する人々は国衙によって部内に寄住するものと把握されるようになり、国境を枠とした移動の規制が緩められるようになり、九世紀には、僧俗と もに人や物の自由な移動が可能となる社会へと変化したとしている。
 中条充子氏の「奈良・平安期における郡司任用の変遷−越中国砺波郡司の任用例を中心として」では、奈良・平安期の郡司任用基準の変化を示す天 平勝宝元年(七四九)二月二十七日勅、延暦十七年(七九八)三月十六日勅、弘仁二年(八一一)十一月勅の三史料の検討を通して、越中国砺波郡司砺波臣の任 用実態を『越中石黒系図』なども用いながら分析を行っている。政府は、延暦期に実力主義という律令の理念を郡司任用という地方行政で試みたが、砺波郡司で は位階(内位)の授与という形でその影響が認められたものの、地方行政の実務面では譜第家を重視して官職就任させざるをえなかった状況が確認できるとい う。
 根津明義氏の「古代における物資輸送の一形態」は、石川県高岡市に所在する中保B遺跡から発見された船着場遺構をはじめとする水上交通関連に 伴うものと判断される遺構群について検討し、どのような遺構が船着場遺構としてとらえるのか、その特徴の指標を十一項目挙げ試案を提示している。根津氏 は、中保B遺跡は国府や郡衙の中継地点として機能し、一時礪波郡衙の出先機関としての役割を担ったと推定し、史料に見える越中国の水上交通の検討を加えな がら、越中国における水陸交通の併用の重要性を説明している。
 藤井一二氏の「渤海使の来往と日本海地域」は、八世紀に来着した渤海使から日本海沿岸を舞台とした日本と渤海国との交流の様子について分析し ている。『続日本紀』『日本後紀』『続日本後紀』『三代実録』『類聚国史』によると、奈良時代に渤海使が十二回来日しており、使節の来着地での対応や入京 状況、入京後の書簡・進物等の献上や宮中での饗宴などの歓待行事、帰国に際しての行事などから、交流の事実関係を検証し既往の解釈の再点検を試みている。
 吉本明氏の「長屋王の雑役労働者について」は、高市皇子の家政機関及び宮が長屋王へと継承されていたことを前提として、トネリと奴婢の長屋王 邸内における役割と人数を検討している。主従関係を持ったトネリや奴婢、その他の雑役労働者も含め兵力ヘも転化するという古代軍事力一般の特質を明らかに した上で、長屋王には和銅四年(七一一)から霊亀三年(七一七)には千百人、神亀年間には千五百人近くの軍団規模の人数が潜在的に存在していたと推定して いる。

 なお「後記」によると、本書は当初地域史分野の出版を手掛けていた文献出版から 『日本海地域史研究』十五輯として刊行される予定であったが、 文献出版社長栗田治美氏の逝去により、岩田書院から刊行されたものであるという。刊行にあたって本書と『近世の地域域支配と文化』との二冊に分冊して刊行 がなされたことを付記しておく。
 
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