八木康幸著『民俗村落の空間構造』
評者・内田忠賢 掲載誌・京都民俗17号(1999.12)


本書は、民俗学と地理学という二つの学問分野の境界を、丁寧につなぐ仕事である。著者によれば、村落研究における「民俗学による「空間論」ヘの関心と、地理学による「意味」(民俗学の文脈に即していえば「心意」)ヘの関心が交差する」(本書一三頁)領域をめぐる論文集である。精力的に調査・研究を行う著者(関西学院大学文学部教授)の、現在の関心は、本書で扱っているような伝統的村落(著者のいう「民俗村落」)の空間構造論から、伝統芸能のフォークロリズムと地域文化の生成というテーマに移りつつある(八木、一九九八a)。したがって、本書は、彼のこれまでの村落研究の、とりあえずの総括、集大成と位置付けることができよう。新稿からなる緒言と結語を除けば、すでに学術雑誌に掲載され、高い評価を受けた諸論文に若干の加筆がなされている。
本書は、次のように構成される。
(目次省略)
まず、緒言では、前半で、村落空間論の動向を、著者の関心に沿って整理し、本書の問題意識を明確にする。第十章に再録された論文でも、すでに同様の整理をしているが、第十章のもとの論文が一九八九年刊行であり、その補論と読むこともできる。なお、著者は最近、民俗学と地埋学の動向について、改めて整理をしている(八木、一九九八b)。この「緒言」と第十章、そして最近の論文の三つを読めば、二つの分野の関わりを概観できる。
第一章から第九章の内容は、緒言の後半(一三〜一六頁)で、著者自らが要領良くまとめている。したがって、私がここで内容を短く紹介しても、あまり意味がないかもしれない。しかし、この本をまだ手にしていない読者に、内容を紹介する必要があるので、以下の不十分な要約をお許しいただきたい。
第一・二章は、長崎県五島列島福江島をフィールドにした調査報告である。それぞれ、ひとつの村落での社会組織や空間構成、方位観などを記述、分析している。第一章では、村落社会の変化をも視野に入れ、報告する。また、第二章では、綱引き行事をモノグラフ的に記録し、また祭祀・行事での構造論的な二項対立を析出する。
第三章は、滋賀県信楽町の一村落をフィールドとし、宮座祭祀を軸に分析する。社会構造と祭祀構造の対応関係がポイントである。現実の社会組織/祭祀組織が、日常的空間秩序/儀礼的空間秩序に対応すると見る構造主義の立場である。時間軸をも視野に入れながら、詳細な調査に基づき、前章と同じく、村落が二項対立の多様な連関で構成されると結論づける。
第四章は、これまでの三つの章とは異なり、理論的な論考である。村落において、たとえば、村境が特別な場所となる論理、様々な象徴的意味を与えられる要因について考察する。著者はまず、具体的な民俗事例とそれに対する一般的解釈を列挙し、新たに「境の場所」という分析概念を設定する。次に、「境の場所」が象徴性を帯びるのは、そのアノマリー(「分類できないもの」(一二四頁)、「あちらでもなくこちらでもない」(一三四頁))的認識にあると説く。このアノマリー性は、日常体験での民俗分類を、人間が概念化、抽象化させた象徴分類のレベルで発生すると論じる。
第五章では、滋賀県湖北町の一村落での葬送儀礼を取り上げ、村落空間をふたつの位相で理解することを提案する。ふたつの位相での理解とは、生態的・認知論的理解と象徴論的理解である。前者は「環境利用・生業活動の次元=民俗分類、日常活動・生産の次元=村落領域」であり、後者は「社会生活・祭祀の次元=双分制、世界観の次元=方位と境界」(一四八頁)というレベルである。そして、「論じられる分類次元を把握すること」だけでなく、さらに「空間構造を支える時間に着目すること、分類を生み出す空間のスケールやコンテキストに注目すること」(一四八・一四九頁)を提案する。
第六章では、滋賀県の二集落を事例に、葬式道と御旅道という特定の時にだけ使われる道の意味を理解する視点を提示する。ここでは、著者が繰り返し主張する構造論的理解に止まらず、意味を生むリアリティを身体論に呼び戻す提案をする。
第七〜九章では、兵庫県淡路島をフィールドにした墓制の分布論的研究である。この本の中では、もっとも地埋学的な論文群である。第七章では、淡路島中部での悉皆調査を通して、島全体に分布する両墓制と、島の一部に見られる単墓制の、特徴や時系列的変化を追う。その結果、両墓制が単墓制に先立つとの推論を示す。第八章では、洲本市と南淡町の一七の村落における墓制の地域差について報告する。第九章では、各村落の共同墓地の形態と規模を、集落の立地条件や村落形態により整理・分類する。
第十章では、民俗学と地理学の研究動向をいくつかの論点から、的確かつ詳細に整理、提示する。ところで、地理学の分野で、著者の仕事は「文化地理学」に分類される。文化地理学は民俗学だけでなく、文化人類学や民族学、歴史学(文化史)、社会学などとの境界領域である。このジャンルの日本での全体的動向については、久武哲也のレヴューに詳しい(久武、一九九一・Hisatake,1996)。この章では、対象を民俗学との関わりに絞って説明し、今後の展望にも触れる。
以上を民俗学の立場から読めば、この論文群の特徴としては、@明確な問題意識と理論的枠組、A論理的飛躍を極力排した空間論、B限定した地域(空間)と時期(時間)での実証、C先行研究の動向を踏まえた、詳細な調査・研究、という四点が指摘できよう。
@では、人類学の構造論や象徴論の成果がベースになっている。たとえば小松和彦の一連の業績同様、国内の民俗事象を対象に理論的考察を行う貴重な仕事である。もっとも、構造論の枠組みが先行しすぎ、単純な二項対立に還元される感がなきにしもあらずだが、論理展開に弱いと思われる民俗学研究に大いに刺激を与えるものと期待される。
Aでは、従来の世界観研究の欠点を意識しながら、空間論を展開する。民俗分類体系の研究や村落領域論が実態に即していたのに対し、これまでの民俗学の世界観研究は安易に実態と観念を結びつけすぎていた。著者も指摘するように「ほんらい位相空間として把握されるべき同心円が実態モデルとしてとらえられてしまい、図的表現を与えられる過程で可塑性を喪失した」(一四一頁)のである。本書は、このような論理的飛躍を注意深く避けながら、空間をめぐる構造論や象徴論を展開させている。
Bでは、民俗学にありがちな超時代的な議論や、時に空間スケールを無視した議論に注意を喚起する。民俗変化を扱う場合には、対象となる民俗事象の時期を同定しながら、論を進める。空間スケールも、同様に注意深く意識されている。単純な話をすれば、たとえば、多くの民俗学の報告書には地図があっても、スケール(距離目盛)が記入されていない場合が多い(しかもラフな製図が多い)。さらに、他の地域との比較の場合に、空間スケールを無視して議論される場合さえある。また、分布論的な分析をする場合、伝播を想定せず、遠く離れた場所の事例を安易に結び付けることも目につく。むろん、著者は地理学のトレーニングを積んでいるので、このようなミスをしないが、民俗学研究に不可欠な注意点と言える。
Cに関して言えば、在野で頑張っている民俗学者と著者を安易に比べられない。大学という研究機関に属する著者だから、欧文も含め、先行研究をレヴューすることが可能だからである。だが、著者の精力的な文献検索や精密な読解は、学ぶべき点がひじょうに多いことは事実である。なお、無いものねだりをすれば、著者にとって、民俗学と人類学の違いがあるのか聞きたいものである。なるほど、かねてより小松和彦が主張するように、民俗学と人類学を分けることは無意味かもしれない(小松、一九九七)。しかし、一般の民俗学者が読めば、本書の大部分は「民俗村落の空間構造に関する人類学的研究」と理解する可能性は大きい。逆に言えば、一般の民俗学論文に、切れ味の鋭い武器、あるいは魅力ある方法論的なセールスポイントは必要である。
最後に、本書の結語に触れておこう。ここでは、各章の課題が明快に示され、同感する箇所が少なくない。特に、「単純な幾何学的図式よりも厚い記述」や「抽象化を排して地表から遊離することのない村落の描き方」(二三五頁)は、我々の課題でもある。また、「静態的なコスモロジーの発見ゲームでおわらないためには、行為主体の回復をはかりつつ「生きられた空問」を探求する」(二三四頁)ことが試みられねばならない。
本書は、民俗学研究に、民俗事象の有機的・動態的理解と理論的枠組が必要であると教えてくれる一冊であった。
〔参考文献〕
小松和彦(一九九七)「ポストモダンの時代の壮大な物語構想を」『AERAムック・民俗学がわかる』朝日新聞社
久武哲也(一九九一)「日本における文化地理学の展開:一八六八〜一九四五」久武(編)『日本における文化地理学の展開』(平成二年度福武学術文化財団研究助成報告書)
Hisatake,T. (1996)Recent developments in Japanese cultural Geography, 1980-1995,Geographical Review of Japan69B-1
八木康幸(一九九八a)「地理学と民俗学」福田アジオ・小松和彦(編)『講座日本の民俗学1:民俗学の方法』雄山閣
八木康幸(一九九八b)「祭りと踊りの地域文化:地方博覧会とフォークロリズム」宮田登(編)『現代民俗学の視点3:民俗の思想』朝倉書店

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