著者名:金井清光著『一遍聖絵新考』
評 者:西海 賢二
掲載誌:「地方史研究」323(2006.10)

 鎌倉時代末期におこつた浄土教の一宗派である時宗は、鎌倉新仏教の最後を飾るように登場した。しかし我々が学生のころ、時宗研究をされている方はほとん どいなかったように記憶している。当然、近世の社会経済史を勉強している者にとって不勉強のために、一遍=時宗をつなぎ合わせる程度であったことを反省し ている。そうしたなか大橋俊雄氏とともに一九五〇年代以降の時宗研究を先導してきたのが金井清光氏である。これまでに『一遍と時衆教団』(角川書店、一九 七五年)・『時衆教団の地方展開』(東京美術、一九八三年)・『一遍の宗教とその変容』(岩田書院・二〇〇〇年)・『中世の癩者と差別』(二〇〇三年)な ど一連の著作があり、八十歳を超えてなお旺盛な研究活動を継続されている。そして八十代の半ばを迎えて、あとがきによると本人は最後の仕事になるであろう と覚悟してまとめられたのが本書である。
 以下に主要目次を掲げる。
 
 『一遍聖絵』の十二名画
  巻一 「善光寺」−これが宗教画だ
  巻二 「菅生の岩屋」−秋の女神の紅葉
  巻二 「桜井の別れ」−春の女神の桜花
  巻三 「那智の滝」−山犬は御先
  巻三 「熊野本宮」−童子は不浄者
    付 餞視は南北朝・室町以降に非ず
  巻四 「福岡の市」−創作神話と空想画
  巻五 「祖父通信の墓」−転経念仏
  巻五 「雪中遊行」−村はずれの一本杉
  巻六 「富士山」−宗教画と創作神話
  巻七 「市屋道場」−堀川いかだ曳き
  巻八 「丹後久美浜」−竜と非人
  巻十二 「一遍入滅」−嘆きノ一遍
  総括ト反省−柳宗悦批判
  補 巻七 「市屋道場」−乞食と癩者
 一遍の天王寺賦算と乞食
 『一遍聖絵』に見る草履・草鞋と被差別民の草鞋作り
 『一遍聖絵』作成と聖戒・真教
 書評 武田佐知子氏編『一遍聖絵を読み解く』
 書評 今井雅晴氏著『一遍と中世の時衆』
 書評 栗田勇氏著『捨ててこそ生きる 一遍 遊行上人』
 書評 砂川博氏著『平家物語の形成と琵琶法師』
 書評 砂川博氏著『一遍聖絵研究』
 大橋俊雄氏の人と学問

 目次構成はあきらかに不自然だが、これは、金井氏がすでに病の身にあり、弟子筋(金井氏は弟子は一人も育成していない、いるとしたら同志として の砂川博氏一人だと銘記している)の砂川氏が金井氏の既発表の論文を一書にまとめられたためであろう。それでも本書の意味は、中世絵巻物の最高傑作とされ て歴史学だけでなく美術史の立場からも高い評価のある『一遍聖絵』の中から十二の名画(名場面)を選択して、宗教絵巻のもつ本質や原点がどこに表出してい るか、かつどのような意味をもっているかを多くの研究史を踏まえ論じることによって、一遍の宗教の本質を明らかにしているもので、著者の時衆研究者への遺 言書のように迫力のあるものである。さらに前著『中世の癩者と差別』で詳細した『一遍聖絵』に多くの乞食、癩者が被差別者として描かれていることから、一 遍の宗教と乞食・癩者とはどのような関係にあったかを究明したことを普遍化させるために再度、一遍聖絵の十二の名場面を再評価しつつ、乞食・癩者などの被 差別民について再検討を加えたものである。
 また、紹介者個人としてはこの名場面の紹介以上に刺激的だったのは一連の書評である。金井氏独特の辛辣なものばかりで学問研究者としては当た り前にすべきことだが、今後より以上に時衆研究が進展を願っての指摘に、後学が聞く耳を願っての叫びのように読めたのは私だけだろうか。
 
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