著者名:井上定幸著『近世の北関東と商品流通』
評 者:宮坂 新
掲載誌:「関東近世史研究」60 (2006.7)

 本書は、元群馬県立文書館館長であり、群馬県史をはじめ群馬県内の多くの自治体史編纂に携わられた井上定幸氏が、長年の研究成果をまとめられたものである。「まえがき」によれば、井上氏が卒業論文での成果を地方史研究協議会群馬大会において発表したのが、昭和二八(一九五三)年。つまり本書は、五〇年以上の長きに渡り、群馬県域を中心とする近世史研究をリードしてきた研究者によって著されたものと言える。なお、井上氏の功績については、本書冒頭に掲載された、木村礎氏の「戦後地方史研究と井上定幸氏」に記されている。
 では、本書の章構成を以下に掲げる。

  まえがき
 T 農村の家族形態と雇用労働
第一章 近世における農村構造と家族形態に関する一考察
     −北関東・東上ノ宮五人組帳の分析−
第二章 近世期農村奉公人の展開過程
     −北関東・畑作(養蚕)地帯の一事例−
 U 領主米の地払いと流通
第三章 高崎藩城米のゆくえ
     −払米制度の成立と運用実態−
第四章 旗本領における貢租米の地払い形態
     −佐位郡東小保方村・久永氏陣屋元史料の紹介−
 V 信州米と越後米の流入
第五章 西上州における信州米市場をめぐる市立て紛争の展開
     −西牧領本宿村の天明五年「穀市立て訴訟記録」の紹介−
第六章 上州沼田藩領における米穀流通統制
     −他所米津留政策をめぐる二、三の問題−
 W 特産物の生産と流通
第七章 近世西上州における麻荷主の経営動向
     −下仁田町桜井家史料の紹介と若干の考察−
第八章 館煙草の流通をめぐる二、三の問題
     −産地荷主木部家文書の紹介を中心に−
 V 製糸地帯の形成と糸繭商人
第九章 幕末・維新期東上州における糸繭商人の実像
     −山田郡塩原村高草木家の経営動向をめぐって−
第十章 横浜開港後における越後生糸・繭の関東流入形態
  あとがき

 本書に収録された論文の発表年代は、昭和三一(一九五六)年〜平成一五(二〇〇三)年であり、基本的に初出当時そのままの形で掲載されているようである。その代わり、T〜Vの各部の冒頭に、各章の説明や著者によるその他の関連論文の紹介などが付されており、各章に配置された論文発表後の著者による研究の進展が参照できるようになっている。
 では、本書の章構成に従って、各章の概要と若干の私見を述べていきたい。

 第一章(昭和三一年発表)は、上州東上ノ宮における元禄〜明治期の五人組帳を分析することにより、同村の戸数・人口の推移や家族形態の変遷について論じたものである。これにより、戸数・人口の動向には、@地主手作経営の残存により、人口構成において下人の存在が多く確認できる元禄〜享保期、A地主手作経営が解体し、家庭労働による小規模経営と、分家等による戸数増加が特徴の宝暦〜安永期、B戸数・人口の著しい減少が見られる幕末期、C血縁構成の極端な単純化と、一戸あたり平均家族員数の増加が見られる明治初期、という四つの画期が存在したことを指摘した。
 第二章(昭和三三年発表)は、地主・商業高利貸的側面を持ち、さらに幕末期には養蚕経営規模を拡大していった群馬郡高井村の福島家を事例に、農村奉公人の展開について論じたものである。福島家に残る奉公人手形を分析した結果、奉公形態の展開を五つの時期に分類。そのうちの第五期(化政・天保期)について、福島家の経営内容を記した「諸事覚」を元に、同家の経営と奉公形態について分析を行った。奉公人を年季・短期・養蚕・日雇の四つに分類し、それぞれの賃銀支払い形態などについて論じている。特に開港以降、養蚕奉公人に高崎・前橋などの都市出身者が多くなるという点は、都市と農村との関係について考える上でも興味深い指摘である。

 第三章(平成一五年発表)は、高崎藩領における米穀流通のうち、貢租米の地払い制度について分析を行ったものである。特に藩から払い米業務を委任されていた有力商人である「払米掛屋」の経営や、地払米の附届け(売却)先について検討を行った。また高崎城下の造酒屋などの依頼を受けて、農民余剰米の買い付けを行っていた在村の米穀商人の存在も指摘している。なお本章は、本書に収録された論文のうち、最新のものである。
 第四章(昭和四三年発表)は、「貢租米の換金化過程を捨象して旗本領地域の流通問題を論ずることはできないのではないか」(一二一頁)という問題意識のもと、旗本久永氏の知行地における貢租米地払いについて論じたものである。領主の財政危機を克服するための方策である雑用金調達と、その元利金決裁方法としての収納蔵米地払いが、すでに寛政年間には実施されていた点を指摘。さらにそれが、化政期には蔵米前売りとして一般化していったと結論付ける。

 第五章(平成一四年発表)は、西上州西牧領で天明五(一七八五)年に起きた、信州米の流入をめぐる市立て紛争について、原告側の訴訟記録を丹念に読み込むことで詳細に論じたものである。その結果、紛争の背景には、信州佐久穀倉地帯における農民余剰米生産の増大を前提とした、西上州米穀市場の成立があったと結論付けた。本章は、訴訟をめぐる原告・被告と領主側の行動や関係性が具体的に読み取れるという点においても優れており、そのような視点で読み直しても興味深い論考である。
 第六章(昭和五九年発表)は、沼田藩における穀留政策について論じたものである。穀留政策は、領主地払米価格の維持安定を確保するために、毎年一定の期間を限って他国米の領内移入を禁止したものである。本章では、この政策によってもたらされた沼田市場の米相場引上げが、近隣地域の米穀流通や石代納にも影響を与えたことを明らかにした。さらに、幕末の米価高騰による穀留政策の限界性についても述べられている。なお穀留政策の背景として、沼田藩領村々における飯米・酒造米需要についても言及されている。

 第七章(昭和五六年発表)は、下仁田町の麻荷主であった桜井家の経営帳簿類をもとに、西上州の特産物である麻の流通について述べたものである。これにより、西上州麻の流通経路には大坂・名古屋の都市問屋を経由しないルート、すなわち麻荷主から直接、あるいは江戸の麻荷船積問屋を通して江州を主とする麻布生産地問屋へ送られるルートが存在したことを明らかにした。また桜井家の経営が寛政期以降、不振に陥った背景として、麻仕入問屋による生産者からの直接買付けの動きを指摘した。本章は特に帳簿の詳細な読み込みによる販売形態の分析が秀逸である。なお、ここでは著者は言及していないが、三〇四〜五頁に引用された史料の差出人である「丁字屋吟次郎」は、織物類を扱った近江商人として著名な丁子屋吟右衛門ではないだろうか。初代丁子屋吟右衛門(一七七七〜一八五四)は、初め「吟次郎」を名乗り、少年時代から行商を始めたという(林玲子「近代につながる新興商人」、同編『日本の近世5 商人の活動』所収、中央公論社、一九九二年)。つまり、引用史料中の吟次郎が初代丁子屋吟右衛門を指すとすれば、本史料は、初代吟右衛門が商業活動を開始した当初の経営実態が窺える史料としても重要であると言える。
 第八章(平成五年発表)は、高崎の特産物として知られた「館煙草」の流通について、産地(多胡郡山名村)の館葉荷主であった木部家の経営関係文書によって論じたものである。その結果、江戸館問屋・産地荷主・産地買付け商人の間における資金と館煙草の流れを分析することにより、江戸問屋資本による館煙草集荷機構を明らかにした。また、このように産地荷主が江戸問屋資本によって支配されていた状況が、一八世紀末以降、高崎館問屋との取引きを主流とする形に変化したと指摘。その背景に高崎城下における刻煙草の加工生産の増大があったとした。なお、瑣末なことではあるが、高崎城下で活動していた刻職人を「農間稼ぎ」や「兼業農民」としている点には疑問が残る。また著者も述べているように、高崎館問屋と刻職人との関係についてはまだ不明な点が多い。この点は今後の史料発掘が期待されるところである。

 第九章(平成一二年発表)は、幕末・維新期に糸繭商人として積極的に活動した山田郡塩原村高草木家の経営について分析したものである。横浜開港以前の同家が、沼田・利根などの産地や大間々市での糸繭買付けを主流にしていた点を指摘した。開港後の同家は、多くの糸繭商人と同じく浜向け生糸商人へと転身。上州製糸業地帯における原料繭の不足と価格の上昇への対策として、開港前とは異なり、奥州繭産地への出買を積極的に行うようになった点を具体的に明らかにした。
 第十章(昭和五七年発表)は、慶応期における八木沢口留番所の糸・繭通手形の分析により、越後産の糸・繭の関東への移出状況について論じたものである。横浜向け生糸の流通経路を明らかにするとともに、上州絹の原料糸として流通したものも存在した点を指摘した。

 以上、各章の概要とともに、若干の私見を述べてきた。最後に本書全体に関する所感を述べたい。
 先述したように、本書は一書として再構成したものではなく、著者の研究成果のうち主に流通史に関する論文を選んで各章にあてた論文集の体裁を取っている。この点から言えば仕方のないことなのかもしれないが、欲を言えば、各章で導き出された成果の関連性についても言及していただきたかった。Tに所収された第一・二章と、Wに所収された第七・八章との関連を例に挙げれば、特産物産地における家族形態や農村奉公人の奉公形態はどのように展開したのか。また、農村奉公人と煙草刻職人(第七章)の階層や存在形態は、どのような関係にあるのか(共通性は見られるのか)。このような点についても言及することで、本書全体の結論がより明らかになったのではないだろうか。
 しかしながら、右のような無いものねだりをした所で、本書の価値は全く失われるものではない。本書が経営帳簿などの難解な史料までもを丹念に分析した、実証的な流通経済史として優れているのは勿論であるが、それだけではない。本書の最大の魅力は、流通という視点によって、上州の地域像を描き出している点にあるのである。流通に注目することは、モノや貨幣の動きだけでなく、人々の交流についても明らかにすることだということを本書は教えてくれる。この点から言えば、本書は流通に関心がある方だけでなく、様々な視点・方法によって地域像を描こうとするすべての研究者にとって必読の書であると言える。

 以上、本書の概要と評者の所感を述べてきた。評者の能力不足により、本書の内容や意義を十分に理解できず、的外れの指摘となった部分も多々あると思われる。その点はご容赦いただければ幸いである。
 なお、「あとがき」によれば、本書は井上氏の研究成果のうち、近江商人に関するものをはずしたものである。これは、近江商人をテーマとする単独の冊子を刊行予定であったためとのことであるが、その出版を迎えることなく、井上氏は昨年秋にご逝去された。「あとがき」に表れた意欲的な様子を想像すると、さぞかし無念であったと思う。
 また、評者の怠慢により執筆が遅れ、井上氏がお元気なうちにこの書評を読んで頂くことができなかったのは本当に残念であり、この点をお詫びするとともに、井上氏のご冥福を心よりお祈り申上げたい。
 
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