著者名:関東取締出役研究会編『関東取締出役−シンポジウムの記録−』
評 者:坂本 達彦
掲載誌:「群馬歴史民俗」27(2006.7)

 本書は、一九九一年以来活動を続けてきた関東取締出役研究会が、二〇〇四年八月三〇日に開催したシンポジウムの成果を中心として刊行された論文集である。関東取締出役研究会は、これまで就任者の全貌すらあきらかになっていないという、関東取締出役研究の現状に鑑み組織されたものである(「刊行にあたって」)。本書の内容は関東取締出役の設置から江戸幕府の崩壊までを通史的に著述した論考三本と、関東取締出役研究のための基礎的なデータを提示する論考・資料、文献目録などからなる。構成は次の通りである。

 刊行にあたって(多仁照廣)
 関東取締出役シンポジウム開催にあたって(小松 修)
関東取締出役設置の背景(田淵正和)
文政・天保期の関東取締出役(桜井昭男)
 幕末期の関東取締出役(牛米 努)
 関東取締出役の定員・任期・臨時出役・持場(牛米 努)
 天保期以降の関東取締出役一覧(牛米 努)
 あとがき(小松 修)
 関東取締出役・改革組合村関係文献目録
 
 つづいて内容を見ていきたい。右のうち関東取締出役の通史をえがいた「関東取締出役設置の背景」・「文政・天保期の関東取締出役」・「幕末期の関東取締出役」はシンポジウムの報告をもととした論考である。

 田淵正和「関東取締出役設置の背景」は、天明期から文化期における評定所留役の動向や代官所による在方取締りを題材とし、これまで十分に解明されていない関東取締出役設置の背景を考察している。
 すなわち、寛政・享和期において関東農村の秩序紊乱と公事吟味の停滞が問題化しており、勘定奉行・代官の対応では十分な成果を挙げなかった。このような状況下、文化元年には「牛久助郷騒動」が発生し、幕府は在方秩序強化に関する新たな対応を迫られた。氏は以上のような事象を、関東取締出役の設置背景とするのである。そして、文化二年、関東取締出役は設置されるが、当初の職務は評定所留役による公事吟味物処理の円滑化であり、積極的に治安取締りに関与するものではなかったとする。
 氏は右のほかにも、関東取締出役の設置を命じた法令とされる史料を再検討され、本法令は二つから成っており、後半部分が関東取締出役の設置を命じたものであることをあきらかにしている。

 桜井昭男氏「文政・天保の関東取締出役」は、主に文政期から天保期(ペリー来航以前)の関東取締出役の活動・職掌の変化などの解明を課題としている。そのため、氏は文政改革以前、文政改革期、天保期と三つの時期に分けて関東取締出役の活動を検討している。
 寛政期以降の幕府は主に北関東を対象に勘定所を中心とした陣屋支配体制を志向し、関東代官と連動するかたちで関東取締出役の活動を展開させようとした。関東取締出役は無宿・悪党の捕縛と言った治安取締りと教諭活動を行っているが、氏は後者を特に重視している。
 化政期になると関東農村ではさらに治安が悪化し、幕府は文政九年に鉄炮・鑓・長脇差を所持する無宿・浪人を死罪・重科に処する触、「長脇差し禁令」を発布した。これにより囚人の増加と、それにともなう村々の負担増加が予測される事態が発生したため、幕府は代官三名を関東取締出役を監視する関東在々取締方御用掛に任命したうえで、改革組合村の設置を命じたのである。
 また、氏は、文政改革の触を検討し、前文にあたる請書部分は前年の「長脇差し禁令」の徹底を目的としたもので、関東取締出役廻村時に提出されたこと、これに対して後文である議定書は改革組合村の結成が完了した時点で提出するものであったと指摘している。
 組合の編成については、文政一〇年当初は関東取締出役が村々に対して原案を提示したが、それが村側にとって不都合と認識された場合、関東取締出役と村の間で組合変更をめぐる交渉が持たれた。その結果、地域により組合村編成完了の遅速が発生した。そこで、幕府は文政一二年に改革組合村の編成条件を緩和し、関東取締出役も廻村活動を強化し、編成作業を推し進めたのである。これが議定書提出日不統一の原因であった。
 氏は文政改革により関東取締出役が教諭ばかりではなく、より効率的な幕府の触の伝達役としての役割を「獲得」したと評価されている。さらに、改革組合村を基盤とした廻村活動は有効に機能し、天保期における関東取締出役の機能拡大につながったのではないかと言う見通しをたてている。
 天保期にいたると、改革組合村は実態にあわせた改編作業の終了や、大惣代設置の強制などがおこなわれることにより安定し、圏や道案内の負担も請け負うようになった。また、氏は天保一〇年に発覚した「合戦場宿一件」に言及され、この時期、勘定所内において関東取締出役の活動に改革が加えられるほか、関東取締出役の活動を統制するために、勘定奉行−取締代官−関東取締出役という文政一〇年以来の指揮系統が強調されている。しかし、この指揮系統は天保一二年三月以降、勘定奉行と関東取締出役がより直接的な関係を持つ体制へと変化する、と指摘している。
 氏は関東取締出役と改革組合村の関係を最初からワンセットのものと捉えるのではなく、改革組合村の整備とともに関東取締出役の活動も変化した点を強調して稿を閉じている。

 牛米努「幕末期の関東取締出役」(以下、牛米@と記す)は、主に開港以降の関東取締出役の活動を対象としている。まず、その前提として、嘉永期の関東取締出役の活動である改革組合村の非常人足を検討している。嘉永期になると、関東取締出役は改革組合村単位で非常人足を動員し、大規模な博徒・悪党の取締りを実施するようになり、このさいの経験が幕末期の取締体制にいかされたことを指摘している。
 ペリー来航以降、幕府は臨時取締出役を増員し、街道筋を中心に、黒船騒動に乗じた悪党の行為を取締まるよう命じている。この時、関東取締出役(臨時も含む)は黒船情報を勘定奉行に伝達し、代官とは情報交換を行っている。氏は、開港後に成立した神奈川遊歩地警衛のための別段取締体制(見張番屋体制)とその成果についても言及している。
 文久期になると関東取締出役は更に増員され、文久元年から二年にかけて三〇人以上にもなっている。文久三年には将軍上洛があり、関東取締出役は将軍留守中の関東の取締強化を担った。また、天保期に続き、文政改革の再教諭がなされる。当該期以降、関東の支配政策は頻繁に変更が加えられ、関東取締出役はそれに対応したかたちで活動を展開した。
 最後に氏は、関東取締出役の廃止時期を検討され、その大部分が慶応四年二月末ころに活動を停止していることをあきらかにした。また関東取締役廃止後、同役をつとめていた者のその後の人生にも言及している。
 本論考において氏は右に整理したような関東取締出役の通史的側面と同時に個々の関東取締出役の経歴を可能な限りあきらかにしている。これは貴重な歴史的事実の発掘と言えよう。

 以上、シンポジウムをもとにした三論考は関東取締出役の設置・変質・廃止を通史的に検討することにより、多くの新事実の発見、指摘がなされており、関東取締出役研究を大きく進展させたと評価できる。
 この三論者に続く、牛米努「関東取締出役の定員・任期・臨時出役・持場」(以下、牛米Aと記す)・「天保期以降の関東取締出役一覧」(以下、牛米B)は、関東取締出役に関する基礎的データを提供している。牛米Aは牛米@を補足する内容ともなっている。牛米Bは天保期以降の関東取締出役の一覧をしめしたものである。このように牛米A・Bには今後の関東取締出役・改革組合村研究に必須のデータが凝縮されているのである。

 次に所感を述べたい。田淵氏の論考で最も不明な点は、代官手代・手附から関東取締出役が任命された理由である。氏は従来の勘定所や代官所、代官手代・手附による在方取締りと、公事吟味の停滞への対応として関東取締出役が設置されたとされる。
 なお、田淵氏の論考と桜井氏の論考は一部検討対象とした時期が重複しており、次のような相違点を確認できる。すなわち、関東取締出役設置について、田淵氏はその画期(断絶)性を評価し、桜井氏は寛政期以来の諸政策との連続性を評価しているように読み取れる。このような評価の違いは興味深い。
 話しがやや横道に逸れたが、田淵氏も述べている通り、手代等は以前より取締りのための廻村活動を行っていた。氏によれば、彼らも含みこんだ代官所による在方取締りは機能的限界を有していた。それにもかかわらず、幕府・勘定所は手代・手附から関東取締出役を任命し、彼らの廻村活動により当時の社会状況に対応したのである。手代・手附から「出役」させた理由や意味ついて言及すべきであろう。
 また、関東取締出役設置の背景として寛政四年に改易される代官伊奈氏について言及する必要があろう。伊奈氏の関東農村における影響力の大きさは伝馬騒動のさいの活躍を想起すれば十分であろう。その伊奈氏が改易された時期と氏の指摘する関東農村において秩序の乱れが問題化する時期は重なっている。

 桜井氏の論考は関東取締出役の教諭機能に注目する一方で、治安取締りの具体像が提示されていない。当然、関東取締出役単独での捕縛活動では限界があり、治安取締りをめぐる関東取締出役と村役人層や道案内などとの関係の解明は今後の課題であろう。
 また、「合戦場宿一件」に対する評価に疑問が残る。先行研究では合戦場宿一件を関東取締出役の交替を意図したものと評価しているが、何ゆえ一斉交替が必要なのか言及されてこなかった。本論考においてもこの課題は解決されていない。また、本一件と天保改革との関係を見通しているが、遠山と羽倉の関与のみで両者を結びつけるのは性急すぎるのではないだろうか。天保改革を主導したのはあくまでも老中首座の水野忠邦である。水野の動向を検討しないまま、本一件と改革の関連を指摘するのは実証的とは言えないであろう。
 評者も、拙稿「天保一〇年野州合戦場宿一件処罰者の全貌」(『専修史学』三五、二〇〇三年)・同「天保期における幕府関東支配政策の展開」(『地方史研究』三一八、二〇〇五年)において合戦場宿一件について論じている。評者の合戦場宿一件に対する評価は次の通りである。天保七年頃に開始された「旧弊改革」期の幕府は、幕府役人との癒着関係をはじめとする村役人層の不正行為を問題視していた。また、天保九年段階で道案内の統制を意図していた。このような流れの到達点に合戦場宿一件があると考える。
 実際、川越藩の記録によれば、本一件の審議担当者である勘定奉行遠山は審議過程を老中水野忠邦へ報告している。また、当該期の水野を中心とした幕閣は惣代層(村役人)の流弊・不取締りを問題視しており、「旧弊改革」との連続性を指摘し得る。つまり、合戦場宿一件における関東取締出役の一斉交替に先行して、幕閣が村役人による不正の恒常化、幕府下級役人との癒着関係を問題視しており、その克服を意図していたのである(あくまでもここで問題化している「不正」・「癒着関係」は幕閣の視点からの評価である)。その結果、合戦場宿一件では関東取締出役以上に多くの村役人層が処罰を受けているのである。なお、水野の関与から本一件と天保改革との関係を展望できよう。

 牛米@は政策面(特に治安取締り)に注目するあまり、関東取締出役と地域の関係について不透明な部分が残されている。例えば、嘉永期に非常人足体制が整ったとするが、現実の取結りの場において人足から死傷者が出ている。このような危険をともなう動員が何ゆえ可能であったのであろうか。
 また、関東取締出役は在方廻村を繰り返し、常に改革組合村の惣代層と交渉を持っていた。刻々と社会状況が変化する幕末期における地域の問題に関東取締出役が如何なる対応をしたのかも検討する必要があろう。つまり、幕末期における関東取締出役の活動を考えるうえでも惣代層との関係や道案内の実態・活動を検討する必要があろう。

 以上、本書の内容の要約と私見を述べてきたが、評者の力不足から本書の成果を十分に理解できず、内容を紹介しきれていないと思われる。また、的外れな指摘をした点も多々あるかと思われる。ご海容いただければ幸いである。
              (〒242-0006 神奈川県大和市南林間7−23−10)
 
詳細へ 注文へ 戻る