池田昭著『ヴェーバーの日本近代化論と宗教』−宗教と攻治の視座から−
評者・橋本章 掲載誌・日本民俗学No.221(2000.2)

近年、日本民俗学の分野において、マックス=ウェーバーの理論が直接的に応用された著述を目にする事はほとんど無い。ヴェーバーの日本に関する論考は、その記述が少々難解であることに加えて、既存の理解に比べてやや特殊な概念によって試みられたヴェーバー日本論の視座が、日本に対する無知の上に成り立っているものと判断されがちであったため、その理論を日本の事例に当てはめて考察することについては、否定的な意見が展開される場合もこれまで多く見られた。
「理念型」という言葉に代表されるウェーバーの分析概念は、簡略化して述べるならば、現実に展開される諸事例を集めてその主たる特徴を取り出し、それらを広義に包括し得る理想的な枠組で捉えようとする社会科学のひとつの方法論である。ところが、同様に事例の集積をもってことにあたる民俗学では、それのみに粉骨砕身してしウェーバーのような明確な分析枠組を持ち得なかったために、むしろ「理念型」に当てはまらないイレギュラーの収集と提示が先行してしまったと見る向きもある。またそれ故に、ウェーバーの理論が民俗学には採用され難かったのだとも言えよう。
しかしながら、ウェーバーが検証を試みた共同体についての問題や、それに連なる長老制や家父長制に対する論説は、今も民俗学を含む近接諸科学の主要な研究テーマであり続けており、その他にもウェーバーによる分析概念の影響を受けた研究は、これまでにも数多くのものが世に出されている。
今回書評で取り上げる池田昭の著書『ヴェーバーの日本近代化論と宗教―宗教と政治の視座から―』では、基本的には氏の専攻分野である宗教社会学の視点に立った論説が展開されているのだが、その分析のための基礎資料として引用された研究報告の中には、民俗学の成果を元にしたものも数多く含まれている。本書では、ウェーバー的分析枠組の中で諸事例の民俗学的な考察を再構成すると、それらをどのように位置付けることが出来るのかが示唆的に論述されており、その意味において民俗学を志す者にとっても大変興味深い内容となっている。
先ず最初に本書の内容を目次に沿って見てみると、次のような二部構成がなされている。
(目次省略)
この二部構成について池田は、第二部に収録された三つの章がこれまで論述及び口頭で発表したものであり、第一部については、主に第二部第一章の内容を敷衍して書き著したものであることを、あとがきの中で示している。
さて、本書の内容についてであるが、まず序論において、宗教と政治の関係についてウェーバーが設定したのではないかと氏の解釈する次の三つの分析枠組が示されている。この枠組は本書の根幹を為すものと理解されるので、最初に紹介しようとおもう。
(l)政治権力が宗教権力を掌握し、自己の権力の一次的な発展の基礎として自己の軍事的カリスマを置いている場合。
(2)政治権力が、第一の場合と同じように宗教権力を掌握しているが、しかし第一の場合と違って自己権力の一次的な発展の基礎として、宗教権力の平和主義的カリスマを置いている場合。
(3)第一・第二の場合とは違って宗教権力と政治権力がそれぞれ独立し、自己のカリスマに基づいている場合。〔一〇頁〕
本書では主にこの枠組に則して論が展開され、まず事例の分析が主体となる第一部が示される。第一章では、日本の近代化に対して宗教が果たした役割についての自らの見通しが述べられ、日本社会が近代化を推進し得た背景としてウェーバーは、自己の利益のために多種多様な宗教を導入し受容できる神道の習合能力こそが、ある一定の役割を果たしていたと考えていた可能性の高いことを指摘する。
そして第二章以下では、徳川幕藩体制下における将軍と天皇、あるいは琉球王国の国王と聞得大君、そして村落社会における長老と一年神主、という前近代から近代にかけての日本社会の様々な関係性を、政治と宗教という前述の分析枠組の中で捉え直そうと試みている。
第二部では、近現代の日本の民衆社会における宗教思想の構造について、それが形成されてゆく過程とその源泉について触れ、ウェーバーの分析による前近代日本の宗教に対する構想の検証や、中国やインドの近代化の過程と日本社会のそれとの比較、そして大正から昭和初期にかけて大規模な宗教的大衆思想運動を繰り広げた新宗教「ひとのみち」を事例とした、近代日本における民衆の宗教思想についての検討がなされている。
本書における池田の論の方向性は、日本が近代化を推進し得た背景には、西欧の近代産業資本主義を導入し、しかも受容できる経済的生活態度に相応する宗教的生活態度が、日本の伝統的宗教の中に用意されていたのではないか、というウェーバーの分析の論証にあると考えられる。
本書は、池田のウェーバー理解に立脚し、歴史学や社会学、人類学など関連する諸科学の成果を縦横に活用して構成されている。ここでその全てに触れる事は評者の能力を大きく上回る作業となるので、本評では、主に民俗学の研究成果が多く引用されている村落共同体の政治と宗教に関する考察を中心に取り上げる事で、その責務を果たしたいと思う。
池田は、第一部第四章において、ウェーバーの提示した伝統的支配の一次類型である長老制あるいは家父長制の村落について言及し、その内部での宗教と政治の関係を、長老と一年神主、あるいは同族集団とその中の総本家に対置して考察している。
氏はその前の章で、徳川将軍家と天皇との関係性においてウェーバーの分析枠組を応用し、宗教的かつ政治的に最高の政治権力を持つ将軍が、ただ宗教権威のみを持つ天皇より「マナ」としての「征夷大将軍」の位を授かり、将軍の権威、つまり武威による宗教権威(=軍事カリスマ)の正当性が付与されるプロセスを示している。そして将軍宣下の式を宗教儀礼と位置付け、これによる政治と宗教の関係を「こうした関係を持つ政治権力と宗教権力は、祭祀執行に即して表現すると、それぞれ執行の主宰者と中心実行者とも云える。祭祀執行の主宰者は(中略)執行のための伝統的知識ないしは経験をもつとされ、したがって祭祀執行権を掌握していた。これによって、祭祀執行の中心的実行者は、統禦される。けれどもこの実行者は、自立的ではなく、自律的に、祭祀の執行の主体となっている」〔九六頁〕とし、「一時的に、すなわち祭祀時には、祭祀執行の中心的実行者の宗教権威は、祭祀執行の主宰者のそれと対等、もしくはそれ以上となる」〔九七頁〕と分析する。この場合、主宰者が将軍であり中心実行者が天皇に等置されるが、ここで氏は、このような呪術的な様式をもつ日本の「王権神授」の姿が、日本の呪術的宗教儀式の特質であり、同時にそれは日本の社会構造や文化体系にも影響を及ぼしていると指摘する。
そして池田は、さらにその分析手法を長老制の見られる村落における長老と一年神主との関係にも当てはめて分析を試みている。氏は日本における長老制の祭祀共同体を広義の意味での宮座事例の中に見出そうとし、次のように述べている。
宮座の年齢階梯制をみると、一老あるいは一和尚という最年長者は、祭祀共同体のみならず、村落共同体の最高の宗教的・政治的権威をもち、また政治権力者でもあった。ただ、ここで注目しなければならないことは、この最年長者=祭祀執行の最高の主宰者のもつ最高の宗教権威の意味である。これと以下で指摘する祭祀共同体の中心的祭祀実行者=一年神主のもつ宗教権威との相違が明らかにしておかねばならない。最年長者の宗教権威は、当該祭祀共同体の「政治経験」と「祭祀経験」を最も多くもっているために、あり得る宗教権威である。このような「経験」を最多にもち得るのは、通常、経験的な伝統の支配する当該村落共同体と祭祀共同体では最年長者であるので、この宗教権威は宗教的政治的「年齢カリスマ」ゆえの宗教権威と云えよう。〔七三〜七四頁〕
日本の村落社会における長老制の研究に関しては、高橋統一のそれが知られているが、これについて池田は、高橋の見解が「明治・大正・昭和初期の社会変動を無視した資料に基づいているのか、あるいは年齢階梯制の仮説に基づいて日本のそれに当てはめようとしているのか、いずれかにあるのかも知れない。いずれによるのかわからないが、長老の役割が充分捉えられていない」〔六七頁〕と述べ、高橋の展開する長老制に対する理解に疑問を投げかけている。
また、長老の持つ宗教権威の根拠として、長老が神と交流可能な「神示現の〈器〉」であるとの説を掲げた関沢まゆみの論についても触れ、数々のタブーを遵守せねばならない一年神主の役割と長老の役割とがおのずから違う事を指摘し、長老の宗教権威の根拠が決して「神との交流」にあるのではなく、ウェーバーの言う神聖な知識の精通者のカリスマ、すなわち宗教的政治的年齢カリスマに求められるとして、関沢の論を却下する。
池田の指摘は、長老制に対する理解をウェーバーによって提示された伝統的支配の分析枠組に沿っておこなったものであり、高橋の唱える年齢階梯制の説がそれとは軌を一にしないであろう事を明示している。また関沢に対する批判も同様の文脈で明快であり、民俗学はこれまで無批判に受け入れていた祭祀長老制に対する理解を問い直す必要に追られるものと思う。
池田は、ウェーバーの言う、強いカリスマの所有者による宗教行為は「神への奉仕」ではなく神の力を自由に強制し得る「神々の強制」である、とする論に依拠し、「祭祀執行の主宰者が、宗教権威と政治権力をもつカリスマの所有者で、より低い宗教権威と宗教権力をもつ中心的実行者に、同族団の宗教の祖霊神あるいは地域神を自由に強制して、憑依させ、あるいはこれがなくても、彼らからこれらの神々のマナを与えてもらう、という儀礼様式」〔一○三頁〕を「神々の強制の呪術」と認知する。
そしてこうした神観念(池田はこれを広い意味での神道と定義する)においては、現世利益、つまりはマナの働きを求めて、どのような場合でも、そして神道以外の他のどんな神々でも要請し得るとし、この欲求こそが自己の利害に応じた欲望をそのまま肯定し現世利益を追求することになり、それ故に日本社会には「利害関心にしたがって、外来文化ないしは異文化を導入し、利用することは、当然のこと」〔一○五頁〕、つまり近代化を受け入れ、推進する環境が整えられていたのだと結論づける。
先にも述べたが、池田による長老制の事例についての捉え方は、ウェーバーによって提示された概念に立ち返ってより正確な分析を試みた点で評価できるものと思う。長老制というタームのみが先行した観のある高橋の論考は、ウェーバー理論からの乖離と齟齬を引き起こし、結果的には矛盾を孕んでしまうものであった。これは関沢の論についても言える事であろう。両者の研究は多数の事例の集積をベースとしたものであり、またそうであるが故に、あまりにも事例に論を語らせすぎてしまったのではあるまいか。そしてこの事は評者を含む大半の民俗学者に言える事なのではないかと、本書は言外に問いかけているようにも思われる。
確かに、本書において池田の示した分析枠組にも幾多の納得しかねる簡所が見られる。例えば家父長制について述べた部分では研究史の精査が不充分な点が見受けられ、また徳川幕藩体制下の将軍と天皇との関係性を、同じ文脈でそのまま村落社会内部の関係性にオーバーラップさせてしまう論述の展開には、疑念を差し挟む余地もありそうである。殊に氏の想定する政治もしくは政治権力については、もうすこし踏み込んだ説明が必要であったようにも思われる。しかしそうした部分を含めてもなお、氏によってなされた民俗学的成果の「理念型」の中で位置付けには興味を覚える。
その他にも本書では、琉球における宗教と政治の関係性や日本人のケガレ観念に対する分析など、多くの民俗学者が長年興味を持って取り組んできた事例に対するウェーバーの分析枠組からの言及がなされている。
殊に「ケガレ」に関しては、これをキリスト教における「罪」に対応する日本人の観念とウェーバーが認知していたしてことを示して、ベネディクトのいう「恥」とは異なる視点からの日本人の宗教観や社会観についての分析を行っている。氏はケガレを「生命にとって不必要なもの、社会秩序を阻害するもの―いずれも生活にとって功利主義的視点から有用と思われないものに注目すべきである―、さらにこれらを扱う者に対し、審美的に貶視すること、あるいは貶視されたもの」〔一三三頁〕と位置付け、「ケガレ」を「キヨメル」ことが日本の宗教による救済の方法であるとも述べている。
池田はこうした記述の中で、宗教学・民俗学・人類学などの近接諸科学が、諸処の事例に対し未だに説得性のある見解を提示しきれていないことを述べて独自の考察を展開している。その是非は別として、特定の枠組の中での分析作業がある程度の論理性を発揮する様には、民俗学を志す者が普段そうした視点を容易には持ち得ないが故に魅力を感じる。
これまでの民俗学は、事例報告の追及に勤しむあまり、その分析過程において自らが何を相対化しようとしているのがを見つめる作業を怠ってきたのではあるまいか。本書は、そうした現状を再認識させる内容を持っているものと思う。

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