著者名:田中智彦著『聖地を巡る人と道』
評 者:山本 博子
掲載誌:「日本史研究」516(2005.8)

    一

 本書は、二〇〇二年一二月四日、四九歳の若さで急逝した著者の遺稿を、著者が主要メンバーとして活動していた巡礼研究会を中心に、有縁の人びとにより編集されたものである。著者は歴史地理学の立場から、巡礼という現象に見る空間の組織化を研究課題とし、とくに巡礼路について徹底した現地調査を行い、巡礼案内記や絵図のみならず、巡礼者の道中日記の分析から巡礼路を復元し、巡礼の実態を解明する手法は高く評価されている。その研究は、秩父巡礼、西国巡礼とその地域的巡礼地、四国遍路、伊勢参宮、金比羅参詣、大坂の巡礼(参詣)、歴史の道調査、自治体史など広範に亘り、到底本書一冊に収まるものではない。

    二

 まず、本書の概要を紹介する。
 序章「巡礼の成立と展開」は、聖地数を基準に巡礼を分類し、とくに西国巡礼の成立と発展、その札所間を結ぶ経路、道中日記から巡礼の実態などを概説する。
 第一編は「西国巡礼路の復元」(解説 北川 央)と題し四論文を収める。
 第一〜三章は、巡礼案内記や絵図に示す経路を、「純粋に順次札所間を結ぶ」だけの基本的経路と、「それ以外」の著名社寺の参詣などを含み迂回する発展的経路とに形態的に二分し、両経路を復元し、東国からの巡礼者の道中日記を用いて、両経路の利用状況を比較し、発展的経路の派生原因を明らかにする。
 第一章「愛宕越えと東国の巡礼者−西国巡礼路の復元−」では、(19)(札所番付、以下同じ)革堂→(22)総持寺間の基本的経路から派生し、愛宕山を経由して(21)穴太寺→(20)善峰寺→(22)総持寺へ行く発展的経路は、愛宕山や石清水八幡宮などの道標から、元禄頃から「固定した経路」と推定し、その派生は(21)穴太寺→(22)総持寺間の宿茶屋の不便さ、および嵯峨清涼寺・愛宕山・石清水八幡宮など著名社寺や名所旧跡巡りが可能であることに起因するという。
 第二章「石山より逆打と東国の巡礼者−西国巡礼路の復元−」では、(13)石山寺→(14)三井寺の基本的経路の間に、(32)観音寺→(31)長命寺を先に入れ逆打して巡る発展的経路は、(30)竹生島→(31)長命寺間の琵琶湖渡航を竹生島→長浜間に距離を短縮する危険回避の目的で派生し、明和・安永頃から利用され始めたとする。
 第三章「大坂廻りと東国の巡礼者−西国巡礼路の復元−」では、(4)槇尾寺→(5)葛井寺の基本的経路の間に、堺・大坂市中を経由する「大坂廻り」を利用する発展的経路は、大坂での物見遊山と堺での刃物類の購入が目的であるとする。
 第四章「西国巡礼の始点と終点」では、東国からの巡礼者は伊勢参宮後、山田から西国巡礼の開始を意識し、田丸までの間は笈摺や案内記を購入する巡礼の準備の「漸移帯」で、田丸から熊野街道に入り、番外札所的な柳原の千福寺(順礼手引観音)など、(1)那智山へ導く構造があるので、山田→千福寺間を巡礼空間上の始点とする。終点は(33)谷汲寺での笈摺納めなどの儀礼に集約されるとし、また、(33)谷汲寺の寺外に「順礼箸納所」があることや、善光寺を西国巡礼と信仰上結びつく番外札所的存在とし、巡礼空間の外延的拡大を指摘する。
 第二編は「地域的巡礼地」(解説 小嶋博巳)と題し三論文を収める。
 第五章「近畿地方における地域的巡礼地」では、巡礼地を全国的巡礼地、地域的巡礼地(国巡礼地、郡巡礼地、都市巡礼地と細分)、ミニチュア巡礼地に分類した上で、観音三十三所の地域的巡礼地の存在とその成立年を示し、とくに摂津国・近江国の地域的巡礼地の相互に、西国巡礼地も含め、札所の共有、巡礼地の包含関係があることを明らかにする。
 第六章「近世大坂における巡礼」では、延享四年(一七四七)刊の『浪花寺社巡』などを史料として、大坂の巡礼の成立時期、道のり、巡礼日、札所の変遷などを明らかにする。
 第七章「地域的巡礼のデータベース作成に関する基礎研究」では、観音三十三所の地域的巡礼地について、地域別の概況とデータベース化の問題点を指摘する。
 第三編は「四国遍路と近世の参詣」(解説 小野寺 淳)と題し四論文を収める。
 第八章「『四国●〔へん〕礼絵図』と『四国辺路道指南』」では、両者の記載情報を定質的・定量的に比較検討し、両者はその利用目的において相互補完的存在であるとする。
 第九章「道中日記にみる金比羅参詣経路−東北・関東地方の事例−」では、四国への渡海の経路や航路の所要時間を伊勢参宮者と西国巡礼者に分けて解明し、経路の選択に宿の影響があり、宿の旅人確保と宿相互の協力関係を推定する。
 第十章「道中記にみる畿内・近国からの寺社参詣」では、参詣対象社寺への経路や所要日数を示し、とくに伊勢参宮について、国別に参詣者の利用経路を解明する。
 第十一章「近世末、大坂近在の参詣遊山地」では、一枚刷の名所案内を用い、参詣遊山地の人気度、分布、大坂からの距離・所要時間を示し、日帰り参詣遊山地の範囲を推定する。
 終章「日本における諸巡礼の発達」では、主として西国巡礼・四国遍路を例に、宗教者から民衆への巡礼者の変化、巡礼者の増加や出身範囲の拡大、巡礼手段の変化、地域的巡礼地やミニチュア巡礼地の成立による巡礼地の簡略化・縮小化、西国巡礼と善光寺や四国遍路と高野山との関係に見られる巡礼地の外延的拡大、番外札所の出現や発展的経路の利用という巡礼地の内部的発展などの諸相をもって、巡礼の発展の現象であると指摘する。

    三

 本書には各編に詳細な解説があり、屋上屋を架すことになるが、巡礼路の復元、巡礼の類型論と地域的巡礼地、巡礼の発展、巡礼の地域性の四視点から論評を試みることにする。
 第一に巡礼路の復元の問題である。著者の巡礼研究の一貫した視点は、巡礼が巡礼地(聖地)・巡礼路(経路)・巡礼者の構成要素をもち、巡礼地とはそれらと各札所を繋ぐ巡礼路で構成される「巨大な聖地の体系」であるとし、巡礼路を重視したことにある。しかも、その巡礼路も、道がもつ様々な機能の中、移動空間という機能に絞り、経路に注目する。それは巡礼の「歩く」という行為が、札所での礼拝よりも巡礼の本質的部分に近いとする著者の認識に由来し(第一章)、また、「足で学ぶ歴史」を提唱し古道研究を展開した戸田芳實の指導を受けた影響もある(北川の解説)。道中日記を史料とする研究は、既に新城常三の『新稿社寺参詣の社会経済史的研究』(塙書房、一九八二)に見られるが、歴史地理学の分野でも、小野寺「伊勢参宮道中日記の分析」(『東洋史論』二、一九八一)や岩鼻通明「道中記にみる出羽三山参詣の旅」(『歴史地理学』一三九、一九八七)があり、著者は両者と道中日記を交換し(小野寺の解説)、道中日記による巡礼路の研究が一層深められることとなった。
 まず、第一章で、著者は元禄三年(一六九〇)刊『三十三所西国道しるべ』には「全く愛宕越えを案内していない」とするが、「丹波の穴太寺へ行道有、此あたこ山へ京より三里也、又嵯峨より峯まで五十丁也」と記され、既に経路と認められている。また、「愛宕越え」の利用原因に著名社寺・名所旧跡巡りを挙げるが、嵯峨の寺社を巡りながら、「愛宕越え」を回避し(20)穴太寺へ行く天保一二年(一八四一)の道中日記の例もあり(福島県『石川町史』下、一九六八)、元禄頃以降に「固定した経路」とも一概にはいえない。「愛宕越え」の利用原因には東国への広範な愛宕信仰の伝播を考慮に入れる必要もあろう。
 第二章で、著者は(30)竹生島→(31)長命寺の札所を順次結ぶ「船嫌いの人」の経路として十返舎一九の『金草鞋』に記す「堅田まはり」を挙げるが、この経路は寛政三年(一七九一)刊『西国順礼細見記』他にも記され、安永六〜七年(一七七七〜八)の道中日記に利用例もある(『寒河江市史編纂叢書』二三、一九七七)。さらに『西国順礼細見記』には、「はやざき(早崎)のりといふは、米原・長はま(長浜)へ舟を着て、長命寺・観音寺へまはり」と記す経路もある。(30)竹生島→(31)長命寺間の乗船だけでなく、札所を順次結ぶ順打の経路は複数ある。また、経路変更の原因を春先の強風による水難の危険性回避とするが、道中日記を比較検討すれば、巡礼は必ずしも春先のみでなく、風の穏やかな季節にも分散して行われている。基本的経路を目指しながら、長浜への着船を余儀なくされた天明三年(一七八三)の道中日記の例もあるように(『大越町史』二、一九九八)、船頭側の理由(帰路の簡便性など)から長浜への着船経路が主流となり、さらに東国からの巡礼者は、帰路に(31)長命寺→(32)観音寺を巡り、同じ道を戻って(33)谷汲山へ行くよりも、(13)石山寺から(32)観音寺→(31)長命寺を先に巡り、(31)長命寺→(14)三井寺間を陸路だけでなく乗船も選択できる経路を選んだと考えられる。
 第三章で、(4)槇尾寺→(5)葛井寺間に富田林を経由する経路が「順礼街道」と呼ばれ、文政一二年(一八二九)刊『新増補細見指南車』他に記すことから基本経路とするが、より早い寛政一一年(一七九九)刊『順礼指南車』他にも記す狭山経由の経路は「不自然」として基本的経路としない。ところが、著者は「葛井寺への道−巡礼案内記・道中記にみる堺・大阪−」(『宗教の路・舟の路』歴史の道調査報告書七、大阪府教育委員会、一九九一)では、「案内記・絵図とも(中略)基本的経路の中では、狭山経由が広く認められていた」と変更する。また、堺を経由し刃物類を購入する者は、著者が論文執筆時に未見の道中日記一〇点を評者も確認したところ、二点しかなかった。堺を経由せず大坂市中を物見遊山するためには、(4)槇尾寺→(5)葛井寺間の経路で、復路に一部同じ道を通り、また、「大坂廻り」をするほとんどの者が、堺の妙国寺での蘇鉄見物や住吉大社に参詣している。堺経由は同じ道を通らず、大坂を含めより多くの物見遊山ができる経路であることから選ばれたのであろう。
 著者は、初期には基本的経路を「純粋に順次札所間を結ぶだけのもの」(第一章)、発展的経路を「巡礼の大衆化の中で次第に派生的に生じてきたもの」(第三章)とし、晩年には基本的経路を「札所間を最短距離で結ぶ経路」(序章)、「元来の経路」(終章)、発展的経路を「基本的経路以外の後に発達した付随的経路」(終章)などと、概念規定を変える。札所間を順次結ぶ経路が複数ある場合、その一つのみを基本町経路とする選択基準は何であるのか、「距離」なのか、それとも「元来」とは史料で確認できる古さなのか、不明確さが残る。また、巡礼路は一定でなく、巡礼者の価値判断によって選択されるものではないか。

 第二に巡礼の類型論と地域的巡礼地の問題である。巡礼の類型論は種々あるが(小田匡保「巡礼類型論の再検討」(『京都民俗』七、一九八九)、著者は巡礼地を全国的巡礼地、地域的巡礼地、ミニチュア巡礼地に分類する(第五章)。その一方で、一貫して聖地数を基準に巡礼の形式を分類する。さらに本尊巡礼、神々をめぐる巡礼、祖師巡礼、種々の巡礼、近年の巡礼に分けるなど、分類の指標が一定しない。また、著者は四十八阿弥陀の聖地数の根拠は『無量寿経』であるのに『阿弥陀経』に求め、九品仏・十二光仏は阿弥陀仏の巡礼であるのに独立した諸尊の巡礼とし、六阿弥陀の成立は江戸が古いのに京都が古いとするなど(終章)、阿弥陀巡礼に関し誤った記述が見えるのは残念である。
 地域的巡礼地については、その所在の多くを確認したことは著者の大きな功績である。地方霊場・地方巡礼・写し霊場などと呼ばれていたものを地域的巡礼地と呼称し、巡礼研究の用語として定着させたのは著者の仕事を通じて広まったのである(小嶋の解説)。ただし、その概念規定は、初期の論文では、全国的巡礼地の「地方移植版」(第五章)、「模倣」(第四章)から、後には「限定された地域からのみ巡礼者を集積する」(第六章、第七章・終章も同内容の規定)と信仰圏による巡礼地の規定へと変化する。また、著者は地域的巡礼地が全国的巡礼地への「時間的・空間的・経済的負担の軽減を目的に成立」し、「全国的巡礼の普及と、地域的巡礼地の成立が不可分に結びついている」(第五章)と巡礼地の相互関係性を見出して、全国的巡礼地の「簡略化・縮小化」(終章)が地域的巡礼地を成立させると考える。しかし、既に小嶋は「利根川下流域の新四国巡礼−いわゆる地方巡礼の理解に向けて−」(『成城文芸』一一三・一一四、一九八五)で、地域的巡礼地が全国的巡礼地の縮小した形と見ることを改め、それぞれの「巡礼の形態や性格に即したタイポロジカルな分析」が必要であり、「地域や時代の諸条件の中で、単純にモデルに帰すことのできない独自の形態と存在価値とを培ってきた」と指摘し、地域的巡礼地は、単に全国的巡礼地からの簡略化・縮小化という派生型で一概には把握できず、地域的巡礼地個々の詳細な研究の必要性を訴えていたが、著者は個別的な地域的巡礼地の研究にはあまり関心を示していない。

 第三に巡礼の発展の問題である。終章で巡礼の発展過程に様々な現象が生じるとする。(一)巡礼地の簡易化・縮小化。巡礼地の簡易化・縮小化を進めると、本来の巡礼地を模倣した地域的巡礼地(第二次的巡礼地)からミニチュア巡礼地(第三次的巡礼地)が派生し、その例として、大阪の法然上人(円光大師)二十五霊場を挙げる。しかし、著者が第三次的巡礼地と認識するミニチュア巡礼地は、評者の調査では本来の巡礼地の〈うつし〉であり、著者のいう第二次的巡礼地に当たる。大坂にあった地域的巡礼地の〈うつし〉からできた第三次的巡礼地ではなく、例としては不適切である。また、地域的巡礼地やミニチュア巡礼地の量的拡大や、それに伴う巡礼者の増加は発展といえるかもしれないが、巡礼地の簡易化・縮小化現象の質的問題はどうであろうか。巡礼の本質を著者が「歩く」という行為に求めるならば、それは巡礼地の簡易化・縮小化により次第に減少する。また、オリジナルな巡礼地がもつ様々な要素をできる限り〈うつし〉ても、オリジナルな巡礼地と同価値をもつとはいえず、簡易化・縮小化により価値は低下していく。評者は同じ聖地数(札所数)で、地域的巡礼地から全国的巡礼地に拡大する例を示したことがあり(「円光大師廿五所廻」『宗教研究』三三五、二〇〇三)、巡礼地の簡易化・縮小化のみが発展とはいえない。
 (二)巡礼地の外延的拡大について、西国巡礼で「最初と最後の札所の前後方向への巡礼地の拡大」が起きていることを巡礼の発展とし(終章)、まず、山田→田丸間を巡礼の準備を行う「漸移帯」とする(第四章)。しかし、文化二年(一八〇五)の道中日記では、新宮で笈摺・道中記(案内記)を買い(『柏崎の民俗』柏崎市史資料集民俗編、一九八六)、同七年(一八一〇)の道中日記では、西国絵図を松坂で買っている(『湯河原町史』資料編一、一九八四)。また、安永六〜七年(一七七七〜八)の道中日記(既出)では、山田から「西国順礼に趣」とし、文化九年(一八一二)の道中日記では、宮川で「西国廻り」と記す例もあり(『松戸市史』史料編一、一九七一)、巡礼者の意識は様々である。次に、西国巡礼と善光寺参詣が不可分に結びつく根拠を信仰内容の共通性に求めるが、既に新城は東国の巡礼者が帰途に善光寺に参詣するのは、「必ずしも善光寺と西国巡礼との間の信仰的関係によるものではない」とし、善光寺が番外札所として西国巡礼者にその参詣を半ば強制するなら、西国民衆の西国巡礼の道中日記の多くに善光寺参詣が記されるはずであると指摘していた(新城『前掲書』)。著者は居住地と聖地(日常空間と非日常空間)との関係を全く考慮に入れない。しかし、巡礼者においては、居住地で巡礼を決意し準備を始めた時、聖地へ到る過程、聖地での滞在中、再び居住地に戻るまでの間、経路や個々の聖地との関わりに意識の強弱が見られ、また、個々の巡礼者によっても差異が現れる。伊勢参宮・西国巡礼・金比羅参詣などを一連の旅とすることは著者が史料に用いる道中日記の例からも明らかであり(第九章)、ある聖地の旅と別の聖地との旅をことさら区別する必要もなく、区別することさえ困難な場合が多い。巡礼者にとっては、個々人(または集団)の関心に基づき、居住地から出発し、再び戻るまでに関わる一つ一つの聖地を繋いでいく一連の旅に意義があるのではないか。ただ、著者の没後、著者の構想と資料を基に夫人の田中一美が執筆した「西国巡礼の経路の複合性」『大阪商業大学商業史博物館紀要』四、二〇〇三)には、東国からの西国巡礼者が必ずしも伊勢参宮をしないこと、善光寺は西国からの巡礼者の満願後の参詣対象でないことから、善光寺が巡礼の終点の延長上にないこと、西国巡礼の意識が儀礼と結び合うのは、那智山から巡礼を開始し谷汲山で終了する巡礼者であり、他の巡礼者には谷汲山の儀礼や善光寺参詣に付与された意味は異なるものであるとし、著者の考えが変化していた可能性も窺える。
 (三)巡礼地の内部的発展として、番外札所の成立と発展的経路の出現に巡礼の発展を捉える。著者は番外札所という考え方は近代以降であるとする。しかしながら、法然上人二十五霊場の場合、宝暦一二年(一七六二)の成立時から、「番外」と明確に記した寺院を加えて札所を形成している(霊沢『円光大師御遺跡廿五箇所案内記』明和三年〔一七六六〕刊)。番外札所は近代以降の出現でなく、また、巡礼地の内部的発展過程で生じない例もある。

 第四に巡礼の地域性の問題である。著者は初期の論文から、ミクロスケールよりも、マクロスケールからの分析が必要と考え(第五章)、都市巡礼(第六章)、観音三十三所の地域的巡礼地(第七章)、伊勢参宮経路(第十章)などについて、マクロスケールから地域別に検討し、地域的特性(差異性)を見つけ出そうとした。既に巡礼(参詣)対象別に巡礼者の地域性を解明している例もあるが(新城『前掲書』)、特に巡礼地の比較研究は未開拓の分野であり、著者が先鞭をつけた意義は大きい。さらに巡礼地の形態的比較だけにとどまらず、巡礼の発展過程に伴う様々な現象についても、諸外国の巡礼と比較検討する「比較巡礼研究」まで構想していたが(終章)、その望みは果たせなかった。

    四

 以上、本書の一部について、至って恣意的に論評し、些細な問題点の指摘に終始した。現在、日本の巡礼研究は、歴史学・民俗学・社会学・地理学・宗教学など諸分野からアプローチされているが、日本の巡礼の構造や特質については、いまだ十分に解明されていない。巡礼は一学問分野からの研究では到底その全体像を把握できず、学際的研究の必要性が求められる。著者が残した巡礼研究の課題が、学問分野を超えて解明されることを期待し、ご冥福を祈りつつ、擱筆する。
 
詳細へ 注文へ 戻る