著者名:森田 悌著『推古朝と聖徳太子』
評 者:宮永 廣美
掲載誌:「地方史研究」322(2006.8)

 本書は、すでに日本古代史に関する多数の著書を刊行されている著者が、「日本史の大きな転換点」とする推古朝に関する見解をまとめたものである。推古朝については、いわゆる推古朝遺文への疑問をはじめ、活発な議論が展開されているが、本書はそうしたこれまでの論説への疑問を中心にした、刺激的な著作となっている。

 第一章「六世紀朝廷の課題」では、まず五世紀から六世紀の移行期の大型前方後円墳から群集墳への変化に注目し、畿内の倭王権は、大型古墳を築いた大豪族・首長らを配下に置く安定した支配体制から、有力首長・大豪族の下にいる中小豪族・上層農民を直接把握する体制へと再編されると説く。この時期のもう一つの課題として朝鮮半島問題があり、任那が滅亡した欽明朝以降、任那復興は朝廷において大きな課題として引き継がれるとする。
 第二章「推古女帝の即位と廐戸皇子」では、推古天皇即位疑問説や聖徳太子虚構説など、近年話題となった諸説の検討がなされる。特に、大山誠一氏による「廐戸皇子は実在していたが、聖徳太子は虚構の所産で実在しない」という聖徳太子虚構説について、大宝令の注釈書である『古記』に上宮太子の諡号を聖徳王としたとあることを重視して、「聖徳が廐戸皇子の諡号で、廐戸皇子の実在が確実となれば、聖徳太子も自と実在の人物となる」と批判される。このほか、廐戸皇子の万機総摂を皇太子制の先蹤とみなし、廐戸皇子の斑鳩居住の一因に、海外情報の迅速な入手をあげ、斑鳩移住後の一族が上宮王家を称している理由を「山背大兄らが父死後も上宮を飛鳥における居所にしていたこと」を想定するなどの見解を示している。上宮王家の経済的基盤の検討では、西日本での所領の展開、東日本での部民設定を指摘する。
 第三章「推古朝の政治改革」で特に注目されるのは、萌芽期の官司制を窺う推古朝の史料として、近年話題になった「法隆寺釈迦三尊像台座墨書」の解釈について、著者は新たに「屏官」説を提示していることである。また冠位十二階や十七条憲法への廐戸皇子の参画を疑う説を著者は否定する。天皇号の創始については、推古十五年(六〇七)の遣隋使派遣に先立ち、倭王の称号として「天子」の他に「天皇」「皇帝」なども検討されていた可能性を指摘し、天皇の和訓であるスメラミコトのスメラは、「仏教用語であるスメル山(須弥山)に由来する」ことや、天皇の字音が呉音読みのテンノウであることからも、仏教の興隆する推古朝がふさわしいとする。
 第四章「仏教と推古朝」では、現在の議論の中心にある、法隆寺金堂釈迦三尊造像銘や法隆寺薬師如来造像銘、天寿国曼荼羅繍帳の系譜などの再検討を行い、推古朝遺文であることを確認する。
 最後の第五章「聖徳太子と廐戸皇子」では、再び大山誠一氏が指摘する聖徳太子虚構説を取り上げ、虚構説の作成が藤原不比等による聖天子像創出にあるとする聖徳太子聖君子説の批判を行う。

 本書は、天皇号の成立を天武朝とする見解が有力視される中で、これを推古朝とし、またマスコミなどにも取り上げられ話題となっている聖徳太子虚構説に対し、その論拠を一つひとつ取り上げて徹底的に検討し、批判を加えているところが評価されよう。
 ハンディなサイズで平易な文章で書かれたものであり、批判の対象である大山誠一氏の著書(『〈聖徳太子〉の誕生』吉川弘文館)なども手に入り易いものが多いので、両者の著書を読み、基本となる史料の再検討を通して、推古朝や廐戸皇子に関する議論に新たな視点が加わることを期待したい。
 
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