著者名:渡邊昭五著『昭五昭和史』
評 者:江本 裕
掲載誌:藝能文化史」23号(2006.7)

 渡邊昭五氏が大妻女子大学在職中(二〇〇三年三月退職)から公言していた『昭五昭和史』の第一期四冊が完成して、二〇〇五年中に岩田書院から上梓された(一冊目二月、二冊目五月、三冊目六月、四冊目七月)。総頁数二三〇六頁、各冊を平均すると五七〇頁に達する大著である。著者が辛酸をなめ尽くした青少年時代の苦難への怒りと悔恨を紙面にたたきつけた、まさしき時代への告発書と、総評できるであろう。

 時あたかも二〇〇五年は、昭和二十年(一九四五)の敗戦から六十年目にあたり、人の年齢になぞらえると還暦に相当する。マスコミ界でも戦後日本の足跡をたどる記事や本の刊行が目立った。一例だけ紹介すると、「朝日新聞」の夕刊が二〇〇五年七月二十五日から八月十二日まで、「国家再建の思想」を連載した。中曽根康弘元首相を中心に、戦後政財界・芸術界などの、中曽根氏と関わりの深かった多くの著名人を登場させながら、敗戦後の日本が「再建」を成し遂げた節目節目の出来事を顧みている。再建の過程をたどるのが今稿の目的ではないので一切を省略するが、ただ印象に残っているのは、中曽根氏が、日露戦争で日本が勝って傲慢になったこと(バルチック艦隊の撃破等)、大東亜戦争(中曽根氏の呼称)での中国侵略は否定できないこと、そのために戦後は萎縮してしまった旨を発言されており、そして右発言は、濃淡の差こそあれ、今回の渡邊氏の著書と一致するばかりでなく、いっそう強調されている(特に日露戦争勝利とその結果の傲慢と認識する処)。更に同紙は、同じく夕刊の八月二十二日から九月九日まで十五回にわたって「満州の遺産」を連載。登場する人士は小澤征爾・なかにし礼・山口淑子など、いずれも渡邊氏と同じく多感な青少年(少女)時代を満州ですごした人々で、懐古と悔恨の数々が綴られている。更にこの昭和史ブームとでも言えそうな趨勢は現在も続いており、先日本屋に立ち寄ったら、保阪正康著『松本清張と昭和史』、半藤一利著『昭和史』(戦後篇)などが店頭を飾っていた。

 以上渡邊氏とは直接関係ないことを前口上としたが、実は渡邊氏の今回の大著が、ご本人に特別な意識があったかどうかはともかく、歴史的にある必然をもってものされた作であることを喚起したかったからである。読者は彼が二三〇〇頁余に心血を注いだ告発の書に、謙虚に耳を傾けなければならないだろう。

 さて、この大部の本を本格的に論評する資格など評者に備わるはずもなく、その内容を手際よく紹介することも評者にはできない。よって以下は恣意的にならざるを得ないのだが、評者が最も興趣ふかく、時にはハラハラドキドキしながら読んだのは、四冊目を中心とする後半部だった。即ち、著者が旧制新京一中に入学して勤労奉仕でソ満国境近くに強制動員されて、敗戦も知らされず命からがらに逃亡し、捕まって収容所で辛酸をなめ尽くしたのち、既に両親ともにいない(母は逃れて北朝鮮へ、父はソ連へ抑留)、新京(現在の長春)にたどり着き、一年以上の居候生活を体験し、昭和二十一年になってやっとのこと、興安丸で帰国するまでの経緯を綴る処である。

 そこには体験した者にしか語れない真実が活写されている。中学生という、最も豊饒であるべき少年期が無惨に砕かれてしまった怒りが鮮烈に描出されていて、この部分だけをもう少し圧縮して公刊したら、満蒙開拓団をはじめとする在満邦人を置き去りにして逃亡した帝国陸軍幹部への激烈な告発の書として、まちがいなく新聞書評子にも取り上げられ、戦後六十年を顧みるにふさわしい話題作として、大反響を呼んだであろう思うのである。

 しかしながら、著者の渡邊昭五氏は、内的な必然性からであろう、第一冊目の昭和初期から起筆しているのである。日本近代史には門外漢の評者ではあるが上記を承知の上で、少なくもこの大著がどのように構成されているかくらいはなぞっておく。

 『昭五昭和史』は、全四冊、あわせて十二章から成り、ほぼ昭和前半期を網羅、五年から二十一年までが中核をなす。一冊目が一・二章、二冊目、三〜五章、三冊目、六〜九章、四冊目、十〜十二章(これに「あとがき」「あとがき追加」が付く)。内容的には、一〜三章までが戦前の日本が右傾化・軍事国家化していく昭和一六年頃まで、四〜七章は昭和十七年から二十年、著者の国民学校と新京一中時代と第二次世界大戦の日本軍の実情、八〜十二が敗戦後の著者の実体験、という構成である。しかして、各章を多くの節に分けており、いささか煩わしくなるが、一章を14節、二章18節、三章12節、四章12節、五章6節、六章13節、七章16節、八章15節、九章17節、十章10節、十一章10節、十二章4節。合計で一四七節を数える。そして以上の節は敗戦に至るまでの著者の胸中に刻みこまれている昭和史の一齣一齣が積み上げられる感が強く、読者は各章各節のタイトルを追うていくだけで、敗戦に至る破滅の過程をたどることができる。  

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 さて、著者の渡邊昭五氏はその名が示すとおり昭和五年(一九三〇)の生まれである。生家は東京の品川。父君は軍人で単身渡満、本人は母君と一緒に昭和九年に満州に渡り、人口四万人の公主嶺の町の官舎に入居したと記す(二章4節)。公主嶺は新京(現長春、満州国の首都であった)のすぐ南西、後に著者は、公主嶺から新京までの距離を汽車通学で一時間半と記す(二冊四四一頁)。公主嶺を旧関東軍の基地体制を整える町とするので(一冊一九七頁)、父君は関東軍の将校だったと推して間違いないだろう。因みに昭和九年は満州建国二年目である。

 昭和一二年(一九三七)四月に公主嶺の国民学校(昭和一六年から二二年まで小学校を改称)に入学(四章5節)。著者自身が「無責任で優雅な生活」と回想するので、最も楽しかった時期だったろう。泣く子も黙る関東軍の将校の御曹子として、徐々に生活必需品が品薄になっていく時代に、何不自由なく過ごしていたことと推察する。記憶もおぼろと書いているので、二冊目までに書かれていることの過半は、著者が後年昭和史を回顧しながら、日本が泥沼に沈んでいく過程を追尋・追究する形となっている。しかして右は、歴史、政治・経済・軍事、対外関係等多岐にわたっており、歴史的に前半の昭和史を勉強しなおすことになる。著者の思いこみ的な見解が強すぎる処なきにしもあらずだが、随所にデータや地図、統計資料等が用意されており、記録として残そうとする意思は汲みとれるのであるが、アクの強い独特の表現を除くと、歴史認識その他で、やや独自性に欠ける憾みがある。

 その詳細は割愛せざるを得ないが、一点だけに絞って紹介する。「神格化された東郷平八郎の罪」(一章13節)に代表される戦争賛美への難詰。東郷元帥の名を不朽ならしめた日本海海戦の勝利が日本を傲慢ならしめたことは冒頭に紹介した中曽根元総理にも言及があった。日本海海戦の奇跡的な勝利が、戦術史上からは航空機に主力が移る時代が訪れたにもかかわらず、巨艦巨砲主義に固執しすぎ、殆ど役に立たなかった戦艦武蔵・大和の建造に進んだこと、これと陸軍の三八式歩兵銃による白兵突撃戦法を墨守して兵卒の高い消耗率を生じさせたこと。上記は著者が随所で強調する処である(例えば六章「徒死徒戦の昭和一九年」等)。なぜこの道を歩きつづけたのか。著者に言わせれば、教育法がすべてである。歴史教育では楠木正成偶像化であり、皇統における南朝正統論であった(中世文学研究者にふさわしい検証が備わる)。著者の眼は「国是の陰の演出者たる陸幼閥」(一章7節)に代表されるような軍人教育のあり方に注がれ、「キューポラ型」の教育(一章8節)に凝縮されている。

 「キューポラ型」を著者は「鋳型」、一つのパターンにはめこまれて応用力のきかないタイプの意に用いていると推するが、ともかく本書を通して「陸軍バカ」・「キューポラ型の首脳」が頻出し、評者からすれば使いすぎ・シツコすぎの感がするのであるが(著者も中学三年になる時に陸軍幼年学校を受験して落ちている由で、この時期渡邊氏も軍人に憧れる少年であったと推察)、陸軍幼年学校(以下「陸幼」と略記)はその学校でのトップクラスのみが合格した。中学四・五年で受ける陸軍士官学校(以下「陸士」)・海軍兵学校(以下「海兵」)も同じ。成績優秀者だけが合格したわけで、全国から陸幼・陸士併せて千二百程度が合格し、そのトップクラス二百名程度が陸軍大学校(以下「陸大」)に進み、陸大のトップクラス一・二名が戦争指導者となる。つまり成績・記憶力・復習力等に抽んでたごく少数者が将官となり、その中でも優れた者が参謀本部に入り、作戦計画を練り、自身では直接動かずに、将棋の駒を動かすように兵を配置し動かせた。彼らは戦争のことは専門として年少の時からたたきこまれているが、広く社会一般、政治・経済・外交等、物事を客観的・ダイナミックに分析・行動していく応用力が決定的に欠落し、折から衰退・追従に堕落していった政党政治家の退廃が相乗して、日本破滅に導いていったと、著者は主張するのである。

 もっとも著者の渡邊氏もこの時期は先述のごとく関東軍将校の独りっ子として天真爛漫な少年時代を何不自由なく送っていたはずで、上記の辛辣きわまる論述も、後年からの回顧と調査の結果に基づく言説になる。さすがに調査はいきわたり、特に軍部の中枢にあった幹部の陸士卒業年次は綿密に探索しており、当時の新聞や軍事史等にも眼は配ってあって、客観的に記述しようとする意図は充分にくみとれる。しかし、何といっても、後半の新京一中入学後の臨場感あふれる実体験の迫力に比べると一歩及ばず、ここまでを約半分に縮めたら、効果は倍以上になったであろうと、ちょっと残念な気がする。

 以下は言わずもがなの寸感であるが、評者は以前に岩波の新日本古典文学大系で『太閤記』の校注を担当したことがある。その時に感じたことであるが、豊臣政権にも参謀にあたる吏僚と野戦で戦う武断派がいた。吏僚派の筆頭が石田三成であり、武断派には加藤清正・福島政則・淺野長政・黒田長政等の猛将がいた。秀吉の朝鮮侵略、特に慶長の役(二・三年、一五九七・九八)には作戦の指令のみを伝える吏僚(三成)と苦戦する武断派の間にに対立が顕在化し、淺野長政は他にも経緯があって、慶長四年には武蔵府中に蟄居させられることになる。上記の対立が遠因となり、同五年の関ヶ原合戦では、武断派は秀吉の子飼いないしは有力な武将であったにかかわらず、ことごとく家康側の東軍について猛威をふるい、東軍の勝利に帰した。彼ら武断派が三成方に付いたらどうなっていたか、歴史に「もし」はないが、西軍勝利もあり得た。実情を無視する吏僚の机上の作戦は往々に齟齬をもたらすことがあり得たのである。 

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 閑話休題、昭和十八年(一九四三)四月に、著者は憧れの新京一中に入学する(四章12節・五章1節)。新京(長春)は、旧満州国時代の首都であった。著者によると公主嶺国民学校一クラス五・六十名の中から十名内外の合格であったというから、エリート中学で、将来が嘱望されていて、得意満面の入学だったと推察する。因みにその二年前の十六年十二月八日に帝国陸海軍はハワイの真珠湾を空襲しマレー半島にも上陸して、今次の世界大戦に突入している。 

地平線そのさきに行っても、地平線しか見えない。家などは一軒たりとも見えない。どこまでもつづいている高粱(こうりゃん)畠の、広望千里の景は、私の心に深く染みついている(二冊四五七頁)。

 満州国の面積は日本の国土の三倍と言われ、軍需物資の供給源となった一部の重工業都市を除き、内陸に入れば入るほど、高粱畑が続いたと言われる。評者は檀一雄の『夕日と拳銃』を映画で見ており、その内容は殆ど覚えていないが、なぜかはてしなく続く高粱畑だけが印象に残っている。

軒さきにツララがさがって、暖かな春さきなどは、太陽にあたるとポタポタと、一日中の昼間のみ聞える風物詩を奏でる。その水滴が、軒したに敷かれた砂利の上で、再び凍って、水筍(つらら)となって一列に美しい模様をつくる。二重のガラス窓の間には、空気中の湿気が凍ってガラスに幾何学的な模様を描く。一つとしておなじもののないそのデザインは、日中に溶けて、一夜を越す朝になると再びできている(同前)。

 多分著者には日常的に体験した春先のごく自然の光景なのだろうが、何と細緻でみずみずしい描写だろう。読む者をしておのずと心を和ませる力を持っている。しかして、こういう秀逸な自然描写は前半部では殆ど見られず、著者の時世批判が圧倒しているのである。もう少し満州の気候・風土を実感させる描写があって然るべきだったと思うのであるが、少年時代の優雅な生活が記憶を失わせたのであろうか、昭和十年代の政治状況への怒りに終止していることが惜しまれる。

 ところで、著者にとって新京一中は決して楽しく学べる所ではなかった。著者が入学した時の校長は退役の陸軍中将であった由で渡邊氏はこの退役中将を、虐殺として現在でも論議かまびすしい南京攻略に参加して更迭された人物であると言う。当然のこと一中は軍国一色に染められ、「軍人勅諭」の暗誦に始まり、軍事教練の強化(配属将校が三名もいた)などで、トチれば容赦なく平手打ちのビンタが飛んだ。評者も外地で国民学校三年の八月に敗戦を迎えるが、校門に入ると直立不動の姿勢で挙手敬礼を強制されたことを思い出す。

 一中時代の悪夢はそれだけではない。著者は入学した年の夏休み明けから寄宿舎に入る。本人にとっては初めての母離れ生活。自由を満喫できるはずであったが、しかし今日でもまま運動部に見られる上級生のいじめに遭う。六人部屋の中で、部屋の掃除、弁当箱洗いから下着の洗濯まで、軍隊における新兵同様の扱いを受ける。それだけではなかった。中世以来の武家・寺院社会よろしく、新入りの美童は、男色の対象になり、著者もすぐに目をつけられ、鶏姦される。甘やかされて、性の何たるやを知らずに育てられた少年にとっては、精神的な衝撃がひどかっただろう。寄宿舎生活は一年ももたなかった。

 著者が口を酸っぱくして当時の体制を難じるのは、こういう、他人の私生活まで理不尽に踏みこんでくる横暴の根源を当時の軍事優先体制に求めているからである。即ち、鋳型にはめられて軍事だけを叩きこまれた高級軍人が、複雑に重層する世界の政治・経済・外交・教育・芸術・文化等あらゆる領域に介入し、挙国一致の美名のもとに、日本をほしいまま動かしていった戦時体制そのものに求めるのである。第四章の「兜の緒をしめ忘れた皇国軍閥」には、当時の国民生産力・石油供給力等々をちょっと冷静に分析すれば、緒戦の勝利に酔いしれることなく、和平をさぐるべきであったのに、その機会を次々につぶしていった愚策蛮行が日本全土を焦土化したと結論するのである。

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 先を急いで、以降は、第四冊(九〜一二章)に移る。昭和二十年(一九四五)五月二十八日、新京一中の三年生一二八名(諸種の事情で同行者はこの数)は、「東寧開拓団勤労隊」として、引率教員二名に付き添われ、ソ満国境の東寧に勤労動員されることになる。なぜ新京一中の生徒が動員されるに至ったかは諸説あって今でも真相不明。動員される生徒たちも、当時はどうやら、既に経験ずみの単純な勤労動員の延長くらいに気軽に考えていたらしい。

一行は旅行気分で哈爾浜(ハルピン)・牡丹江を経由して、二泊三日かかって三十日に東寧駅に到着。乗り込んで来た憲兵の命令で窓のブラインドをおろさせられ、後に南方作戦への転用のための関東軍兵士を乗せたの車輌とのすれ違いであったことを知る。更にトラックに乗せられ、ソ満国境近くの最前線、関東軍の要塞地で、ソ連の最前線基地ポルタフカの見える、綏芬河(すいふんが)に運ばれる。

 東寧以下の地名や位置は分かりにくいだろうから、地図を頼りに評者の浅薄な知識で一応の説明をする。旧満州国は現中国の北方、吉林省・黒竜江省に属し、北朝鮮国境を北上した所。新京(長春)はそのほぼ中央に位置し、新京を北上してハルピン、そここから東南に折れて牡丹江、更に東南に進んだ、国境に近い所に東寧があった。東寧の北が綏芬河で、その位置をおおよそで言えば日本海に近く、旧ソ連のウラジオストックの北北西にあたる。

 実に辺鄙な所に連れてこられたもので、内地から派遣された「農兵隊」と共に開墾に従事した。住まいは囚人まがいの殺風景な掘っ立て小屋で、三度の食事は塩(調味料)だけの、高粱の雑炊だけ。おのおのリュックに詰めてきたカンヅメで飢えをしのいだ。用をたす設備のことなど、我が家を離れての、尽きせぬ労苦が細叙されるがこの際割愛する。

 八月九日、夜明けの五時頃、近くで砲声が轟き、弾道の音がヒュルヒュルと上空をすぎる。関東軍最前線から伝令の下士官が馬で来て、退去命令を伝える。午前八時すぎ、リュックやボストンバッグなど、持てるだけの荷物をいっぱいに持って、一二〇名余は隊舎を出発、逃避行の始まりであった。ソ連機の機銃掃射を受けながら東寧駅に着くも最後の避難列車は出たあとで人気は全くなく、山中を逃げるしかなく、敵機の機銃掃射が断続的に続く中を、夜間に懐中電灯なしの行軍が続いた。翌十日の夕刻、一昼夜歩いた末に道河駅に着くもここも無人。山越えにかからざるをえなかった。

 あとから知ることだが八月九日はソ連参戦の日、ソ連の大型戦車を中心とする機甲師団の侵入に機銃掃射が加わり、綏芬河に駐屯していた第二七一連隊第三大隊長石島大尉以下五〇〇名の兵士は、殆ど全員が戦死したと記す(四冊三五頁)。一行は、追跡するソ連軍を後ろに感じながら、ボウフラ入りの飯盒炊爨(すいさん)を食し、所々転がる死体や泣き叫ぶ乳飲み子に出ない乳首を吸わせる母親を傍観して逃げ、眠りながら歩くことも覚えて、雨に濡れて重くなった荷物を捨てながら、歩き続けた。

 八月十四日朝(徹夜で歩き続けて六日目)、彼等は日本軍のトラックに遇う。日本軍前線基地へ食料を運んで帰る途中で、荷台は空だった。三台に分乗して突貫工事急造の山道を走り、荷台や車輌の下に眠りながら、馬厰(ばしょう)(地図で確認できない)の難民収容所(国民学校の講堂)に入る(一七日)。

 八月十八日午前六時、乾パンの朝食をとって牡丹江流域の平野部に出て石頭(位置未確認、牡丹江まで三・四〇キロ。新京まで四分の一踏破)に向かって徒歩走破開始(当地は一般農民や満蒙開拓青少年義勇軍が多数入植した土地)。十九日昼すぎ、ようやく東京城(とんきんじょう)(東寧の西、牡丹江の南、旧渤海国の都)に到着。略奪し尽くされている将校官舎に入り、十日ぶりに広い部屋に落着く。

 八月二十日朝、ソ連軍機械化部隊が入城。初めて日本軍とは比較にならない大型の戦車や装甲車を見る。二十一日、日本軍の武装解除、新京一中生組は、兵卒に類似した服装(戦闘帽・ゲートル)だったために、一般難民とは離されて、捕虜収容所(二階に下士官と将校、一階のコンクリート敷きに一中生組)に入れられる。渡邊氏たちは、ここで初めて日本の敗戦を知るのであるが、なお流言蜚語が飛び交っていた(武装解除は擬態で、やがて反撃が始まる等)。付け加えておくと、関東軍は日本が全面降伏する以前の十九年七月頃には作戦上の理由と称して参謀本部を北朝鮮国境近くの通化(新京のはるか南)に退いており、彼等の家族は二十年の八月十日には新京を脱出し、同月二十一日には日本に帰国していたという(八章6節)。満州国皇帝愛親覚羅(アイシンギョロ)溥儀(ふぎ)日本に亡命する予定で奉天(現瀋陽)にて待機しているところ八月三十日にソ連軍の拘束され、シベリアに送られている。著者が関東軍司令部に対して怒りをぶつけるのは、前線の兵士や開拓民を見殺しにして、勝手に逃亡したことが核心となっている。

 以後、八月二十六日に著者たち一中動員の百余名一行は、東京城から南へ十二キロ離れた馬蓮河の久田見開拓団跡地に移動させられる。単に柵に鉄条網で囲われただけの地で、住まいも自前で作らねばならず、合掌造りの三角小屋を建て、自活に近い生活を送る。九月中旬の東京城の開拓会館跡に移るまでこの生活が続き、十月十日に、やっと収容所生活から解放され、新京に向かっての帰宅行が赦されるのである。

 いわば、綏芬河から新京に帰り着くまでの難行程が本書の白眉で、本書のみが持つ独自性として光彩を放つ。その惨状は体験した者にしか描けないほどの、平凡な言葉を使えば筆舌に尽くしがたい苦難であった。今、このあらましだけを紹介しようとしても相当な紙数を費やすので大半は割愛せざるを得ないが、それにしても、寄宿舎生活での一年弱を除いて不自由なく育った著者(多くの生徒たちも同じだっただろう)が、よくも耐えられたものだと、著者自身も回想しているが、評者もそう思う。

 夜間の暗闇のなかでの細い道を縦列行軍になって、「歩きながら、体が前に倒れそうになって、ハッと目が覚める。何秒か…歩きながら眠っているのである。私は生まれて始めて、一、二秒の瞬間に熟睡できることを体験した」(四冊三八頁)。我々がよく、面白くない講演を聴いている時に襲う睡魔である。地図を見ると、東寧と東京城の間には老爺嶺山脈とラオイエリン山脈が、横断している。粗末な食糧による腹痛・下痢等もひどかっただろう。

次は同行のクラスメイトGの手記からの引用である。

私はふと何かにつまづいた。そこで子供が泣いていたのだ。手さぐりでさわってみると、一人は五歳くらい、もう一人は二歳か三歳くらいの感じだが、男か女か解らない。「どうしたの」。「かあちゃんが、ポンポンいたいって、ねんねしているの」。私はまた手さぐりさわってみると、婦人が一人横たわっている。「奥さん、どうしたんですか?…起きてくださいよ。しっかりして下さいよ」。全然反応がない。一緒にいた一人が云った。「小母さん死んでるヨ! 脈がないんだ」。私はあわてた。「さあ、二人ともお兄ちゃんたちと行こう。お母さんは死んでるんだよ」。「嘘だい!お母ちゃん死んでなんかいないヨ。ポンポンいたくて、ねんねしてるんだい」。私はその子を無理矢理に母親から引きはなそうとするけれど、母親の死体にしがみついてはなれようとしない。今考えると、その時間が長かったのか、短かったのか解らない。「G!迷子になるぞ! 早く来い」。誰かが怒鳴った。「おい、来てくれ! この子をつれてゆこう」。「馬鹿!そんなことをしていると貴様も狼の餌食だぞーっ」。 私はその瞬間はじかれたように学友の影をもとめて後を追った(四冊五六頁)。

 昭和四十年代だったか、「コンバット」という、米軍兵士たちを主役とする戦争ドラマがテレビで上演されて人気を博していた。人間が「極限状況」に置かれた時の行動が中心テーマであった。逃避行におけるこの事件は、彼等が「極限状況」をいかにして克服して生き抜いたかの、生々しい記録である。
 その他、約六十万の兵士が次々にシベリアに連行されていくさまをも、目のあたりにしている。著者たちの相次ぐ収容場所の変更は、連行されて空になった場所への移動でもあった。開拓農民の集団自決の噂、自決らしき銃声の音。後のことになるが(九章15節)、解放されて牡丹江に向かう零下五・六度の闇の中の行軍の時、二十名余の敗残負傷兵と行を共にし、片足を失って松葉杖をついた傷兵が遂に歩けなくなり、哀願にも似た声に続いて発せられた監視兵の闇の中での銃声。そして不気味な静けさ。誰しもが落伍者となった場合のおのれの運命を仮想しながらの、ひたすらの夜間行軍。まさに阿鼻叫喚の現出である。

 収容所での生活もひどかった。転々と移動させられるが、殆ど食糧支給なしの収容所生活。八月の末頃に、日本政府の政策によって次々と派遣された内地農村の二・三男を主とする満蒙開拓団の一群、「寧安開拓義勇軍」二百名ほどと同居することになる。共にいた兵士はシベリアに連行されていなくなり、ただ一人残る引率の斉藤先生はソ連軍が牡丹江近くに連行して強制労働に従事(注記しておくと、二人の引率教員のうち、一人が新京に連絡に行っているうちに敗戦となった)。残るは新京一中組と開拓義勇団組だけ。育ちのよい一中のボンボンと、決して豊かではない日本の農村の二・三男では肌が合うはずがない。そしてこういう時になると体力が勝敗を決する。勝負はおのずから決まり、一日一食分程度しか支給されない下等な藁まじりの高粱の雑炊は三分の二を彼等が占め、争いになると内務班式の力が物をいった。労働らしい労働もなく、終日日向ぼっこしながらシラミをとり、飢えに耐える。便所から始まって、書くに憚られる不潔な生活環境。栄養失調の症状が見た目でも認知できるようになる。自生のアカザやタンポポ等の雑草も、九月も半ばをすぎると枯れてしまう。

 飢餓が限界に達すると、深夜、監視の目をくぐって柵を越え、近辺の畑の作物を盗みに出ることになった。著者の渡邊氏も小心であったにかかわらず、一度柵を出たという。そして遂に、二名の脱走者が出る。二人は成功して、新京に向かったという噂が広がった。

 ここで評者の体験を一つ。かく記す評者も、昭和二十年八月の敗戦を北朝鮮の平壌郊外の中和という所で迎えた、父は朝鮮総督府管轄下の、中和駅の駅長だった。警察署長・郵便局長・駅長の日本人三名が捕捉されて入獄し、貯金通帳すべてと引き替えに解放、九月に入ってだろうか、駅長の権威で貨物車一輛の荷物を積んで家族全員が引揚げ列車で南下した(その列車全員が引揚げだったのかは不明。我々のグループは父が団長で三〇余名だった)。どこまで進んだのか覚えていないが、列車が逆戻りし始めた。そのまま乗っていたら北朝鮮に抑留されるか、または鴨緑江を渡されたかもしれない。貨物車に積んだ荷物どころではない。引揚者三十余名全員が駅以外で停まった処で下車し、山中を歩いて南下した。幾つの集落を経由しただろう。ある集落では歓待され、次の集落では身体検査をされ、襟や靴底に隠していた現金をとられた。亡き母の遺骨の底に隠していた金だけは免れた。昼間は出来る限り人目につかない道を選ぶ。次の目的地はその日に野営を世話してくれた集落が教えてくれた。当時評者は国民学校三年生。殆ど記憶がないが、父が話したことである。 

 期日もはっきりしない。引揚者全員からなけなしの金を集めて案内人を雇い、真夜中の三時頃、奇跡的に全員が無事に、小さな継ぎ橋を渡って、三十八度線を越えた(川の名は失念)。開城に至る前か後か、大きな川(礼成江か)の橋を米軍に護られて渡ったことだけは鮮やかに覚えている。ソウルのお寺に一月くらい収容され(他の引揚者と共に)、釜山港から焼野原の博多に上陸したのが十月の末か十一月の初めだったと思う。

 新京一中組が体験した苦難と評者のそれは、距離といい期間といい、また気候を比べてみても、比較にはならないだろう。それにしても評者の山中行も大変だった。継母は、髪を切ってザンバラになり、幼い妹をリュックに乗せて、細い山道を歩き続けた。評者は途中、父の後からの言葉によれば赤痢状態となり、下痢を続けながらパンツも替えられず、歩き続けたことを覚えている。

 私事にわたりすぎた。新京一中組は十月十日に解放されるのだが、解放には、先に脱走した二名のうちの一名が新京に到着して父兄に働きかけ、父兄が在駐の新京ソ連軍の幹部に運動、それが東京城在駐のソ連軍幹部に通じて、解放に繋がったということである。

 同十二日に一行は牡丹江に向かって徒歩で出発、十四日に再びソ連兵に拘束されて所持品検査を受け(貴重品はすべて既に没収されていた)、収容所に入れられ、翌十五日徹夜行軍となり、先に記した、同じ収容所に入っていた敗残兵、片足を失い松葉杖に頼りながら歩けなくなった負傷兵の最期を見る。

 十月十六日昼頃牡丹江着。その日は野営、翌十七日の夜は駅待合室の冷たいコンクリート上で待機し、十八日早朝、他の難民団と共に、シベリア帰りらしい新京方面行きの無蓋の列車に折り重なるようにして乗り込んだ。約五十時間。氷点下の凍えた風を直接受ける無蓋車で、ぼろ切れや袋をまとって、文字通り抱き合うようにして飢えと寒さに耐えながら、二十日の午前十時頃新京駅に帰着する。著者はこの日時をはっきり覚えていないと言う。同級生のメモや記録によっている。帰着者は百名強。このあと著者は「判明している八名の犠牲者のほかに」(九章17節)と、他の処(四冊二七一頁)でも行方不明と死没者を八名あげているので、百名強の帰着は十五歳の少年グループとしては、きわめて高い率と言えよう。一同は「カイサン」というリーダーの一声と共に、バラバラに別れるのである。

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 この旧制中学校三年生渡邊少年の、昭和二十年五月二十八日から同年十月二十日までの約半年にわたる苦しい個人的体験は、七十歳を超えた現在に至っても、消そうと願っても消せない烙印を本人に与えている。夢と希望に胸ふくらませ、将来を嘱望され当人もその気でエリート中学に進んだその半ばに、遠足気分で出発した勤労奉仕が、死線をさまよう奈落となった。この体験がその後の著者の人生に大きな影響を与えたことは容易に察せられるが、のみならず、彼の人生観や性情、生きざまその他、諸々の内面の心象に、より大きく影を落としていると思うのである。渡邊昭五氏は存外に神経が細かく、つきあえばつきあうほど信頼に足る友人として、評者などは生涯つきあうつもりでいるが、時折耳にするのは、昭五は個性的すぎる・アクが強い・口が悪い・ケンカ早い等々の評言がある。確かにそういう面がなきにしもあらずで、常識人間である評者は諫める場合が多い。

 しかし顧みるに、著者には既述のような体験があった。大げさに言えば、多感な時、地獄の入り口をのぞいた人である。生きて行くための術を必死にまさぐった期間(とき)を持つのである。本書を読んだ友人たちの多くが、彼の人となりを諒解するだろう。


 しかして、著者の流浪体験は、以上で終わるものではなかった。彼は別の処で書いているのだが(九章16節)、寒風厳しい無蓋車の中で考えた。関東軍の基地が集中している公主嶺の官舎は、ソ連軍の侵入と同時に接収され、家族は収容所に収容されただろう、男どもはシベリアに連行されたにちがいない(事実父君はシベリアに抑留され、昭和二二年一一月末に帰国)、官舎は現地人の略奪に蹂躙され、家財道具一切合切、著者が愛蔵していた揃いの少年雑誌も奪われたにちがいない、と。この推定はすべて、ここまでに本人が体験した逃亡・収容所生活から帰納される結論だった。

 新京駅での解散のあと、困りはてて何となく一つのグループ五・六名の最後尾に随いていくと、行き着いた家が、田中坦(たん)の家、駅近くの、中学校ではあまり馴染みのなかった、小児科を看板とする田中医院の家だった。同級の坦はこの家の暢気な長男だった。以後、ざっと一年、翌二十一年十月まで、著者を含めて三名が、この田中医院に居候するのである。

 本書の記述から想像するに、院長田中貢先生はいかにも小児科の医者にふさわしい重厚誠実なお人柄のようで、名医としての評高く、敗戦後も在留邦人を中心に現地人の患者も多く、多忙な毎日であった。医院は院長と夫人の間に二男三女、夫人の妹、看護婦二人。これで十人の大家族となるのだが、これに三人の居候が一年も加わったのだから、非常時の生活費が大変だったろう。医院の盛況ぶりがしのばれるが、田中先生は居候をさほど気にしなかったという。

 著者たち三人の居候と長男の坦は、苦しい体験の反動だろうか、常に田中家の顰蹙をかいながらも勝手気まま生活を自由にすごす。時折課役される労働仕事に出るほかは毎日長春の街をほつき歩き、在留邦人のタケノコ生活を見て廻って昔日の新京を回想し、時にはコソ泥をはたらくという放縦な生活を送った。ソ連兵の強奪と強姦のひどかったことを聞き、国共内戦をも見聞する。終わり近く、二十三歳の看護婦S子さんと十六歳の少年(著者)との一日のプラトニックなデイトもあった。多分この一年は、著者にとっては、失われた青春の回復だったのである。

 昭和二十一年九月二十八日に長春を出発して、途中、車中でかつての公主嶺に別れを告げながら満州を南下、奉天(現瀋陽)を経由して遼東半島の左岸に位置する錦州のすぐ先、胡蘆島(十月一日着)で船を待つ(一一章3・4節)。十月六日引揚船興安丸にて出港、九日九州の佐世保に入港、十三日上陸。全身にDDTが振りかけられる。十月十七日午前十時三十分頃生まれた家の品川に帰るも、家は消えて、雑草の生える空地となっていた。やっとのこと「昭五ちゃん」を覚えてくれていた散髪屋に当たり、薩摩芋を振舞われて埼玉の疎開先を教えられ、品川駅に戻り上野へ出て、上越線に乗って深谷で下車、かなり歩いて、藤沢村という所で黄昏時に、「昭五さん…よく帰って来てくれたのねえ」と、泣きつく母と、二十年五月二十八日に公主嶺の官舎で送り出されてから一年六ヶ月と二十一日ぶりに再会をはたしたのである(一一章7節)。

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 さて、これで渡邊昭五氏の『昭五昭和史』第一期四冊はほぼ完結するのだが、著者は再び第十二章の「むすび」で「もう一度陸軍馬鹿」(1節)、「陸軍馬鹿に便乗してしまった海軍馬鹿――大和と武蔵の役たたず」(2節)を設け、執拗に日本軍隊を構造的に非難している。本書四冊を通読した読者はなぜこうも厳しく難ずるのだろうかと、いささか辟易するかもしれない。むろん著者の原体験が厳しすぎたことの反映、更にはまた、国をあげて奨励したはずの満蒙開拓団と前線にとり残された兵士たちをも見捨てて、護るはずの関東軍司令部が、戦線縮小を口実に、敗戦間近に新京から通化へ退却したことへの怒りが、行きどころを失って渦をまいているのかもしれない。

 しかして、評者もまた、平和で自由な時代を六十年も生き続けてみると、昭和前期の二十年間において、どうしてかくも、政党政治家をはじめ知識人たち、リベラリストたちが、軍部の前に唯々として跪いたのかと、素朴な疑問を持つ。目下、偶然に高田里恵子著『文学部をめぐる病い』(平成一三年松藾社刊、同一八年ちくま文庫による)を読んでいるが、本書は副題を「教養主義・ナチス・旧制高校」とするごとく、東京帝国大学独文科の戦前・戦後を通しての、独文卒業生の時代との関わり方を追尋した好著である。東大の独文科は、ドイツ文学のみならず、かの国の当代ドイツの思想の翻訳や思潮の紹介を通して、昭和十年代の日本の論壇(旧制一高・東大卒を中心とするエリート集団)と深く関わっていた。そこにはナチズムへの同調・賛歌もあったわけで、東大ではむしろ本道を外れて、ジャーナリズム界に活路を求めて文壇をリードした高橋健二の時代に対する、「努力・悔しさ・悲しみ・過ち」が、かなり客観的に詳述されている。昭和十年代の教養主義が体制内改革を志しながら否応なく時代の波にのみこまれていくさまが過不足なく描出されていて説得力をもつ。昭和十五年(一九四〇)に結成された大政翼賛会の初代文化部長を務めた劇作家の岸田国士は一身上の都合(自身への利害)を放棄してその地位に就いたというし、その後を継いだのが高橋健二だった。

 現在教育基本法の改訂で「愛国心」が問題となっているが、昨今の世論調査では改憲派が半数を越え、評者には自由にすぎると感ずる時さえある現代ではあるが、我々昭和十年代の狂乱の季節が頭のスミに残っている世代から見ると、決してあの時を他山の石としてはならないという思いが強い。

 いま一つ感ずる処がある。著者が眼前に見たような満蒙の悲惨な悲劇はなぜ生じたのだろうか。臨戦態勢を控えての補給物資の確保、領土拡張、大東亜共栄圏への幻想等、巨視的には諸々の戦略があっただろう。しかしより現実に迫られた事情としては、狭い国土に増加する人口、特に農地不足による農村の過剰人口が、座視することのできない焦眉の急務だったと想像される。日本の移民は明治十八(一八八五)年のハワイ(甘藷耕作)に始まり、米国・中国(上海・香港)南米(特にブラジル・昭和五年が最盛)へと拡がり、満蒙開拓は昭和十一年の広田弘毅内閣のもとで国策化され、百万戸移民計画が実施された。満州国の治安維持・関東軍の食糧確保等、さまざまな事由が介在しただろうが、過剰した農村の二・三男坊対策という面も要因の一つだったろう(国史大辞典参照)。つい最近も戦後の昭和二十五年にドミニカに入植した百七十人の人々が国の約束違反を訴えて起こした裁判の地裁判決が出て世間を騒がせた(二〇〇六年六月七日「朝日新聞」夕刊)。

 そこで翻るに、『経済社会の成立』(日本経済史1、速見融・宮本又郎編・岩波書店・昭和四三年)によれば、関ヶ原合戦の行われた一六〇〇年(慶長五)の日本の人口は一二〇〇万人、歴史上最も高い経済成長を遂げたと言われる期間の入る一七〇〇年(元禄一三)が二七六九万人、一七二〇年(享保五)に三一二八万人と三〇〇〇万を超し、以後横ばいが続き、一八七二年(明治五)でも三三一一万人で止まっている。近世前期経済で頂点をなす元禄期がほぼ三〇〇〇万人程度であったことは幸田成友の名著『江戸と大坂』(冨山房刊・昭和九年、著作集二による)に早くに指摘されており、間違いない処である。そこで、昭和二十年当時の日本の人口はいかほどだったかというと、七二一四万人、十九年が七四三三万人(『日本統計年鑑』総務省・統計局・二〇〇五年)である。

 昨今、少子化が叫ばれ、つい先頃には年間の出生率が一・二五となったことが大々的に報道され(一八年六月一日「朝日新聞」夕刊)さまざまな施策が提起されている。現在日本の総人口がざっと一億二千万七百人の由で、このままの趨勢が続けば、二〇五〇(平成六二)には一億人を割ると、上記統計年鑑は予測し、実態は予測を上回るペースで減少しているという。しかし、上述の歴史を考えるに、はたして戦前の「生めよ増やせよ」に逆戻りして、悪夢が訪れる危険はないのかを危ぶむ。評者は、秀吉の朝鮮侵略は気前のよい彼が家臣に所領を与えすぎて、日本にその余地がなくなったがための侵略ではなかったかと秘かに想像しているが、それはさておき、再び悲劇を起こさないためにも、我が国が相応の経済生活を送るためにはどの程度の人口が必要なのか、まずその数を設定することが肝要ではないか。また善隣諸国と平和友好的に共生していくための基本的な要件や規模等を様々な観点から算出し、そこから人口問題も考えていく必要があるのではないか。戦後六十年を記念してものされた『昭五昭和史』も、そう考えることによって、はじめて労苦も報われるのではないかと思う。

 以上、駄文を連ねてきたが、これ以上書き加えても二〇〇〇頁を越える大部の要諦を摘出できそうにない。著者本人は多岐詳細にわたって叙述された昭和十年代から二十年代初頭の諸々の社会の移り変わりや風俗の変貌に「自分史」を重層させて、つまり両者を連合・輻輳させて昭五の「昭和史」を企図していたと解され、その意図は途中から解ったのであるが、結果は片肺飛行になってしまった。本書の要所要所には、既に記したように、各種の統計資料や新聞記事の掲出がある。地図も配され、特に東寧から新京に到る道程には五つの地図を配して読者の便を図っている。ここまでに紹介できなかったのだが、著者は本人も体験できなかった戦時の日本の実情を示すために、おそらく今時大戦を最もシニカルな眼で観ていたであろう反骨の作家永井荷風の『断腸亭日乗』を、正確には数えてはいないが二十回以上引用している。この傍観者に映る東京の世相を紹介することによって、評者は、荷風を愛読するなどかつて聞いたことのない著者渡邊昭五氏の、本書に対する入れ込みを感得するのである。 

 このあと二期の『昭五昭和史』が出るのか、また何期まで続くのか、渡邊氏からは何も聞いていないが、戦後の荒波を生き抜いた『昭五昭和史』が、続刊されて、著者の人生がこのあとどのように展開して現在に到り、どう総括されるのかを期待して、拙い筆を擱くことにする。
 
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