著者名:正木喜三郎著『古代・中世 宗像の歴史と伝承』
評 者:佐々木恵介
掲載誌:「史学雑誌」114-8(2005.8)

 本書は、今年四月に亡くなられた正木喜三郎氏の第二論文集で、氏が長く住んでおられた宗像地域の古代・中世の歴史を多様な視点から明らかにされたものである。「第一編 古代の宗像」(四章)、「第二編 中世の宗像」(九章と付論三編)、および「別編 宗像中世史の問題点」からなり、八〇〜八二年に発表された別編を除くと、八〇年代後半から九〇年代前半の約一〇年間に発表された論文で構成されている。以下、第一編と第二編をそれぞれまとめる形で本書の内容を紹介していきたい。

 まず第一編では、おもに大化前代を対象として、宗像の海人の存在形態や、胸形君と大和王権との関係、宗像三女神に対する祭祀の変遷などがとりあげられている。宗像の海人は、本来は潜水型漁撈民であり、それが弥生時代末期から古墳時代初期に通商航海民へと変貌・成長する過程で、遠距離航海の守護神である宗像三女神を奉斎するようになった。四世紀には、彼ら海人を統率する族長として、胸形君がこの地に登場し、その胸形君が大和王権から公認された結果として、宗像市の東郷高塚古墳(全長六一メートルの前方後円墳)が造営されることになる。その後、一時王権との関係が不安定だったこともあるものの、五世紀後半には、大型の前方後円墳が連続して造られ、沖ノ島の祭祀も最盛期を迎える。これは大和王権が対朝鮮政策のなかで、秦氏系の高い技術や軍事力を持つ胸形君を重要視したことの反映であり、宗像三女神も大和王権の航海・軍事・対新羅関係に関わる国家的な守護神へと変貌していく。その一方で、宗像郡海部郷の海人を管掌した阿曇氏や、同郡外縁部に関係地名の遺る物部氏など、中央氏族の影響も宗像に及ぶことになり、その過程で神功皇后や武内宿祢にまつわる伝承がこの地に伝えられる素地が形成されていった。さらに奈良時代に入っても、宗像神は国家から厚遇され、宗像郡も神郡とされるが、それには持統朝の太政大臣で宗像氏を母に持つ高市皇子の存在が大きく影響している。

 次に、おもに一〇世紀半ばから一四世紀前半頃までを対象とした第二編についてみていきたい。一〇世紀半ばの純友の乱直後、大宰大弐源清平によって、宗像大神に菩薩位と正一位勲一等が授けられるとともに、宗像社の神主職から人事・財政等をつかさどる宮司職が分離された。この宮司職は九七九(天元二)年には太政官直任の大宮司職となるが、宮司職・大宮司職に任命されたのは、九世紀以前の宗像氏のなかでは、むしろ傍流の人々であった。この後、大宮司以外の宗像氏一族のなかには、当時管内の直接支配を強化しつつあった大宰府の府官となって、大宰府官長と結びつく者が出現し、大宮司のなかにも、『小右記』に小野宮領筑前国高田牧司として登場する妙忠のように、「氏」を通字とする前後の大宮司とは異なる系統に属する者が存在するなど、一二世紀初め頃までは、宗像氏は内部に不安定な要素を抱えていた。しかしそのなかで、歴代の大宮司は、開発所領を宗像社に寄進し、これと荘園化した封戸・神田とをあわせて、社領の一円不輸化を進め、さらに一二世紀前半には、令子内親王(鳥羽天皇准母で同天皇の皇后)を本家に推戴して、九州の寺社領のなかでも独自性の強い社領(宮領、境内郷などと呼ばれた)を形成した。この境内郷は、宗像氏長者=大宮司職の地位にともなう渡領として相伝されていくことになるが、ほば同時期に、源清平をモデルとした清氏という架空の人物を祖とする大宮司家の系譜も成立する。その後、宗像大宮司家は、平家の家人、ついで関東御家人となり、中央権力に敏感に反応しながら、在地での地位を維持し続けた。そして一三世紀の後半、大宮司長氏の時代には、社領を宮方・別符方に分けるなどの所領の統制策がとられると同時に、系譜上の祖清氏に中納言の官職を加えて、大宮司家の神官領主としての権威確立がはかられた。また、漁撈・航海・物資運送など海の支配に関わる分野でも、大宮司家が宗像社の神官・社僧といった宗教的支配組織を利用しながら独占的な直轄支配を行い、それによって西日本における海上交通のなかに重要な位置を占めることとなった。

 本書の内容をごく大雑把に紹介すれば、以上のようになると思われるが、著者はこれまでの研究史を丹念に整理しつつ、文献史料はもとより、考古学的知見や現地に伝わる伝承などを縦横に駆使して、古代・中世の宗像の姿を明らかにされている。ほかの地域に比べれば相対的に史料に恵まれているとはいえ、これだけ克明かつ具体的に、中世以前の一地域の歴史が描かれている例は珍しいといえよう。なお、八・九世紀の宗像郡については、先著『大宰府領の研究』(文献出版、九一年)所収の「大宰府と寺社(二) 宗像郡司考」(初出八七年)で、詳しい検討がなされており、また、『宗像市史通史編二 古代・中世・近世』(九九年)には、ほぼ第二編に相当する著者の通史的叙述がある。
 本書の編集作業を担当された桑田和明氏の後記によれば、本書計画の段階で正木氏は病床に臥され、校正等もご自分でなさることは不可能だったという。にもかかわらず、こうして本書をまとめられた桑田氏と版元の岩田書院のご尽力には深甚の敬意を表したい。ただ、右のような事情を記した直後に甚だ申しにくいことではあるが、本書には誤植がかなり目立った。これについては、本誌第一一四編第二号九〇頁で小倉慈司氏が提案されているように、出版社のホームページで正誤表を公開する方法がとられるとよいと思う。
 
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