著者名:鈴木哲雄著『中世関東の内海世界』
評 者:和氣 俊行
掲載誌:「史潮」59(2006.5)

中世東国史研究に地域史研究の視点からまた新たな成果が加わることになった。それが本書である。本書の著者である鈴木哲雄氏は、従来より中世の東国を主要なフィールドとした中世百姓論をテーマとして研究を進められており、すでに大著『中世日本の開発と百姓』(岩田書院、二〇〇一年)を世に送り出している。本書は著者の従来よりの研究テーマと密接にリンクする、中世の関東地域の歴史構造・歴史風景の解明を目的としたものである。
 本書の構成は以下の通りである。

  序 地域の区分
  T 中世の利根川下流域
   第一章 古代から中世ヘ−下総国葛飾郡の変遷−
   付 論 地域史の方法としての東京低地論
   第二章 古隅田川地域史ノート
   第三章 古隅田川地域史における中世的地域構造
  U 中世の香取内海世界
   第四章 香取内海の歴史背景
   第五章 御厨の風景−下総国相馬御厨−
  V 中世香取社と内海世界
   第六章 中世香取社による内海支配
   第七章 河関の風景−長島関と行徳関−
  結 二つの内海世界を結ぶ道

 著者は、まず「序 地域の区分」において、峰岸純夫氏に代表される、中世の利根川を境とみなして関東を二つの地域に区分したうえで、当該地域の中世社会像を解明していくという従来の手法(峰岸純夫「上州一揆と上杉氏守護領国体制」同『中世の東国−地域と権力−』所収、一九八九年、初出は一九六三年)に対し、利根川などの大河川を境としてではなく、地域の核として捉えることを提示する。それは、香取海を史料表記に基づいて「香取内海」と名付け、東京湾を近世に「内海」と呼称されていたことに基づき「江戸内海」と名付けたうえで、中世の関東を各水系から次の五つの地域に区分するものであった。すなわち、香取内海に流れ込む鬼怒川・小貝川水系に含まれる下野東部・常陸・下総などの地域を「鬼怒川=香取内海地域」とし、中世の利根川流域と江戸内海地域を一体の地域世界とする、上野・下野南部・武蔵・下総西部・上総・安房などの地域を含めた「利根川=江戸内海地域」として、この両地域を中世関東の二大地域区分とした。さらに相模国と伊豆国に囲まれたかたちの相模湾を中核とする地域に「相模川=相模湾地域」を、鬼怒川=香取内海地域の北側には那珂川水系を中核とした「那珂川=涸沼地域」を設定し、この他、明確な地域名の提示こそなされていないが、房総半島の太平洋側や九十九里浜も独自な水系として把握すべきであるとしている。
 このような水系に基づく著者独自の新たな地域区分を中世の関東に設定したうえで、本書は中世関東における地域社会像の再構成を試み、その際、特に鬼怒川=香取内海地域と利根川=江戸内海地域という二大地域に視点を置いて考察を加えたものである。ごく大雑把に分類すれば、「T 中世の利根川下流域」が利根川=江戸内海地域に、「U 中世の香取内海世界」と「V 中世香取社と内海世界」とが鬼怒川=香取内海地域への考察となる。そして最後の「結 二つの内海世界を結ぶ道」において、二大地域を結び付ける水陸の交通ルートについてふれている。以下、各章ごとの内容について簡単にみていこう。

 第一章は中世の利根川下流域について、古代から中世へかけて下総国葛飾郡が解体されて成立した葛西御厨が位置する中世の葛西地域(=東京低地)の歴史風景の復元を試みたものである。結びでは、当時の葛西地域(=東京低地)は水陸の交通上の要衝であったと位置付ける。
 第一章付論は葛飾区郷土と天文の博物館で一九九四年一一月一三日(土)・一四日(日)に開催されたシンポジウム「東京低地の中世を考える」における、各発表者の研究報告に関する著者の論評が中心である。加えて、関東の地域社会論を深めていくうえでの、東京低地の地域的一体性およびその地域設定の有効性を説く。
 第二・三章は、利根川=江戸内海地域研究における成果で、著者の地域史研究における初期段階のものに位置付けられる成果である。
 著者はまず、利根川=江戸内海地域に位置する、現埼玉県春日部市内を流れる古隅田川に着目する。古隅田川は、名前のごとく、従来は隅田川の本流であった歴史を有する河川であり、本流当時は武蔵・下総両国の国境河川であった。しかし、著者は古隅田川を国境として位置付ける国郡制的枠組みにとらわれずに、むしろ同河川の両岸およびその周辺地域に一つの地域社会「古隅田川地域」を設定する。これは萩原龍夫氏が利根川の河川交通および下総国一宮=香取社による河関支配を前提として、利根川の両岸地域に「中世利根川文化圏」という地域概念を設定したことに通ずるものである(萩原龍夫「中世利根川文化圏と宗教」『歴史教育』一五−八、一九六七年)。「古隅田川地域」もこの圏内に位置している。次いで「古隅田川地域」における原始から古代・中世にかけての集落遺跡の分布や、同地域内の板碑の分布や製鉄遺跡の存在、鎌倉幕府による東国での開発事業などに着目し、さらには鎌倉末期の検見帳や近世以降の検地帳などを分析して、同地域の中世的村落景観の復元を試みている。それによれば、古代から中世にかけての「古隅田川地域」は、洪積台地上および利根川等の大河川の自然堤防上に中世農民の生活の場が存在し、その周辺に不安定な水田耕地が広がっていたという。
 さらに、第三章の章末では、近世初頭の利根川東遷事業にともなう国郡領域の再編成についても言及する。著者によれば「古隅田川地域」を内包する「中世利根川文化圏」の下総国側は、一五世紀初頭に成立した「市場之祭文」で確認できる、武蔵国側に成立した商業圏「市場之祭文文化圏」に包摂されていったという。「古隅田川地域」という地域概念を設定し、その歴史的経過および地域景観を分析・解明することにより、「地域」の枠組みの変化が国郡領域の再編成の前提となる過程を論証したものである。

 第四章から第七章にかけては鬼怒川=香取内海地域に関する成果である。
 第四章は鎌倉武士の基盤となった鬼怒川=香取内海地域の歴史風景の再検討を試みたもの。著者はまず平将門の乱の意義の再検討から説き起こす。将門の支配領域の拡大は鬼怒川=香取内海地域から利根川=江戸内海地域へと拡大し、やがて坂東九ヵ国を掌握するに至ったとし、その掌握過程からは水上交通に規定された将門の「内海の領主」的側面が見出せるという。将門以降の坂東武者(鎌倉武士)たちも、その基盤となった荘園・公領はいずれも鬼怒川=香取内海水系に連なる湖沼・河川を含んだ「湖沼の荘園」=「内海の荘園」であったとし、将門と同様に鎌倉武士もまた「内海の領主」的側面を有していたとする。結論では、このような歴史景観を持つ鬼怒川=香取内海地域は、河川を国境として捉えるのではなく、その流域をも含めて一つの地域世界として把捉すべきとする。
 第五章は鬼怒川=香取内海地域に位置する荘園・公領の代表的な事例として、下総国相馬御厨に注目し、その成立過程および御厨の歴史風景の再現を試みたものである。相馬御厨は、平常重が私領下総国相馬郡内の布施郷を国司に申請して布施別符とし(この時同郡内の黒崎郷をもあわせて申請し布施・黒崎別符となる)、さらに同別符を伊勢神宮内宮に寄進して成立した布施・黒崎御厨を前身とする。やがて同御厨は領域的な再寄進が行われて相馬郡のほぼ全域に及ぶ国免荘相馬御厨が成立するに至ったとされる。また、相馬御厨の四至に対して独自の考えを織り込みながら詳述するとともに、中世御厨の風景を示しているとされる『彦火々出見尊絵巻』から、同御厨の歴史風景を復元・想定する。
 第六章は中世香取社による香取内海地域の支配の在り方について、香取文書の「浦・海夫・関」関連史料に焦点をあてて、中世下総国衙と一宮=香取社との関係から再検討したもの。
 著者は村井章介氏による常陸国鹿島社の社領構成の検討法(村井章介「鹿島社領」『講座日本荘園史』5、一九九〇年)が香取社のそれにも有効であるとし、香取社においては、鎌倉期には神主(大宮司)職は遷替職、大禰宜職は相伝職であったものを、南北朝期に至り、大禰宜職を相伝する家から両職を兼帯するものが現れて以降は、両職に伴う社領も大禰宜家の私領として再構成されていったとする。その際、本来大宮司職領に付帯していた香取内海における「浦・海夫・関」の支配権も、大禰宜家の私領的性格を有する権利の一つとして把握されるに至ったとする。また、そもそも香取社が香取内海の「浦・海夫・関」に対する支配権を保有するようになったのは、下総国衙において国衙神事権のもとに香取内海の「浦・海夫・関」を統括していた国行事職を、同国一宮である香取社が掌握するようになったことに起因するという。最後に、香取社による香取内海の「浦・海夫・関」支配は、従来の豊田武氏に代表される香取社の「梶取社」としての個性からの説明(豊田武「香取社の海夫」豊田武著作集第七巻『中世の政治と社会』所収、一九八三年、初出は一九七七年)だけではなく、国衙・一宮論の枠組みのなかで説明できる可能性を指摘する。
 第七章は中世利根川の河口付近に位置し、遠藤忠氏に代表される先行研究(遠藤忠「古利根川の中世水路関」『八潮市史研究』四、一九八二年)により対の関として考えられている長島関と行徳関の歴史風景の復元を試みたもの。従来の両関の推定地に修正を迫る、中世香取社による河関支配をふまえたうえでの、著者独自の推定地案が示されている。それらは机上の推論ではなく、著者自らが実際に現地に赴いて踏査した成果に基づいて主張されたものであり、非常に説得力があるように感じる。

 「結 二つの内海世界を結ぶ道」では、中世関東において、鬼怒川=香取内海地域と利根川=江戸内海地域という関東の二大地域を結ぶ役割を果たした基本ルートは、現在の千葉県流山市の鰭ヶ崎台地付近から陸路で真東に同県我孫子市方面に抜ける、古代以来の坂東大路=東海道であったと推定する。これにより、著者による中世の関東における陸運・水運を駆使した一大交通網構想が完成となる。

 以上、本書の内容に関してごく簡単に紹介してきたが、中世東国の水上交通(水運)に関しては、まったくの門外漢の評者であるために、数多くの誤読や曲解をしていると思われるが、ご寛恕を乞いたい。最後に、本書に対して一言コメントが許されるならば、関東の二大地域(利根川=江戸内海地域と鬼怒川=香取内海地域)への個別研究に、両水系の上流域に位置する北関東側からのアプローチも欲しかったと考えるのは評者だけであろうか。ただし、二つの内海である江戸内海と香取内海はいずれも南関東に位置しており、その限りでは、本書のような問題設定の場合、北関東における考察は二次的なものにしか成り得なかったであろうと思われる。
 地域史研究の立場から、水系に着目して中世の関東を地域区分したうえで地域史像を再構成するという著者の手法は、中世東国史研究において非常に有効な手法であることは間違いなく、評者も学ぶところ大である。本書は、今後の東国史研究のさらなる深化・発展のために寄与することは間違いないと思われる。
                    (わき としゆき・法政大学非常勤講師)
 
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