著者名:原田敏明著『宗教 神 祭』
評 者:小池 淳一
掲載誌:「宗教研究」348(2006.6)

はじめに

 一八九三(明治二六)年生まれの原田敏明(以下、著者と略記する)の論集が、その蔵書や資料類の寄贈を受けた皇學館大学の牟禮仁氏をはじめとする関係者によって編まれた。既に著者が一九八三(昭和五八)年に没してから二〇年余の時が流れている。にもかかわらず、こうした書物が出版されたのは一九世紀生まれの著者の思索が二一世紀になっても輝きを失っていないことを示すものだろう。
 本書は著者の広範な学問的営為を第一部に、著者の学問を論じた六編の論考を第二部に、伝記、年譜、著述目録を第三部に配した原田学の入門書としての性格を持っている。本稿では以下、第二部を参考とも導きともしながら、第一部から評者が読みとった著者の宗教研究の特色について述べていきたい。ここではまず、最初に第一部に取り上げられた論編の内容を整理、紹介し、次に、著者の資料論的基礎について、主として民俗研究の観点から若干の考察を述べてみたい。そうした検討をふまえて、本書の意義と価値とを最後に述べて書評としたい。なお、内容に言及する際にはなるべく本書の当該頁を示し、著者や他の論者の論考はタイトルと当該頁を示すこととする。

 一 原田学の視角−本書の構成と内容 

 本書は皇學館大学神道研究所に寄贈された著者の毎文社文庫のなかで、著者が生前に刊行を期していたと推察される原稿を軸に構成されたものである。それらの原稿と刊行にあたっての経緯は「編集後記−出版の経緯」に明記されている。

 第一編の「本編」は八つに分けられている。
 第一は「宗教」と題され、十一編の論考が収められている。宗教の基本的な性格や認識、伝播論、寺の社会的機能などが論じられている。
 第二は、「信仰」と題され、三編の論考と事典類の項目解説六編から成る。村の宗教を日本民族の宗教信仰の根幹とする主張(二九頁)や天照大神をSun-Goddesではなく、Great Glorious Goddnessととらえるべきである(三〇頁)といった著者の思考の結晶が示されている。
 第三は「神・神社」と題されて、七編の論考と事典類の項目解説一三編で構成されている。神社や神宮、さらにその社会的な性格を論じるとともに、生活の規範化がまつりであり、生活することで宗教を体験する、といった見解(五三頁)が提示されている。
 第四は「神体」と題されて四編の論考と事典類の項目解説二〇編を収録している。神を象徴し、神聖なるものを示すものとして、注連縄や幣束、神籬、オハケなどが取り上げられている。特に榊巻きについて、伊勢神宮祭祀の重要な要素にもつながる指摘がなされている(八五、九六−九九頁)。
 第五は「祭」と還され、五編の論考と事典頬の項目解説二三編が集められている。宗教の社会的発現、共同性の発露を祭に集約的に見いだせることが示されている。
 第六は「司祭者」と題して、四編の論考と事典須の項目解説七編を掲げている。宮座の形成に関する知見(一七四−一七六頁)や神職が生まれていく過程についての考察(一七六−一八二頁)が述べられている。
 第七は「評論 他」と題されて、紹介、推薦、追憶といった主題の文章一一編が置かれる。柳田國男との関わり(二一〇−二一三、二一七−二二〇頁)や古野清人との交流(二二〇−二二七頁)など、著者の学的軌跡を考える上で示唆に富む記述が見られる。
 第八は「補論」と題されて、記紀の性格を考察した三編と墓と庶民社会との関わりを論じた一編を取り上げている。著者の研究の柱の一つであった古代の文献や民俗的な資料の扱いに関する見識を知ることができる。

 以上、第一編にまとめられた著者の思索と学問的な営為は、断片的であり、啓蒙的な色彩を帯びたものも少なくない。しかし、それゆえ、著者の主張が明確に示されている点もあり、原田学の視角にふれるためには格好のものと言えよう。事典類の項目解説も短文のなかに、著者の見解が織り込まれており、著者の広い視野と創見に富んだ主張に基づく位置づけをかいまみることができる点で意義深く、再読、三読の価値があるものといえる。
 もちろん、著者自らが整理、刊行することが可能であったなら、こうした部立てや整理あるいは収録にあたっての取捨選択は大きく異なったものとなったであろう。しかし、多岐にわたり、いささか錯綜もしているかに見える論考が、このようにまとめられたことにより、著者の研究上の志向が明確になり、客観的な評価の糸口となるのではないだろうか。

 第二編「原田学研究」は、そうした著者、原田敏明の学問をどのように位置づけ、意義を考え、継承していくべきか、といった主題に取り組んだ六編の論者が収録されている。『日本の意識−思想における人間の研究』(一九八二年、岩波書店、一九九四年、同時代ライブラリー)以来、著者の学問を高く評価してきた住谷一彦が「原田敏明「宮座」論の普遍性と特殊性」を執筆しているのに続いて、住谷の盟友ともいえるヨーゼフ・クライナーの「日本文化研究と原田敏明の学説」、『日本古代宗教』を宗教人類学的にとらえ直す岡田重精「「原田学」における「日本古代宗教」論」、宗教社会学としての原田学を論じる石井研士「原田敏明の宗教社会学−宗教と社会の一般理論を求めて」、著者の古典研究を歴史研究との関わりで定位する早川万年「原田敏明の視座−古代社会論と古典の位相」、伊勢神宮研究における貢献、創見を整理して示した櫻井勝之進「神宮に関する四つの新見解」がそれである。
 著者の学的営為の射程はこれだけに尽きるものではもちろんないが、ユニークな点、思想史、人類学、社会学、古代史、神道史に関する寄与をこのように論じることで、著者の提出した見解や課題を今日的に再考し、知的な財産として活用していく方途が示されたと言えるだろう。冒頭に述べた原田学の入門書という評価はこうした第二部の存在をも加味したものである。

 そうした点からすると第三編「補編」も重要である。ここでは西川順土による「小伝」が補われて収録され、また遺族の確認を経た「略年譜」、詳細な「著述目録」が編まれ、掲載されている。将来において原田敏明全集が編まれる場合の出発点となる基礎的かつ最重要なデータの提示となっている。こうした作業は周到な準備と著者の学問に対する深い敬意と理解とがなければ不可能であっただろう。現代における研究がおかれているせわしい状況のなかで、こうした作業が実を結んだことはいくら評価しても評価し過ぎることはない尊いものといえるだろう。

 二 原田学における民俗−本書の資料的基礎の一端

 次に本書の論述の基礎となっている資料とその取り上げ方について、評者の専門とする民俗研究の立場から些か述べてみた。
 『日本社会民俗辞典』(第二巻、一九五四年、誠文堂新光社)に寄稿された「神体」(一〇六−一〇九頁)は、著者の見解とこの問題に対する姿勢を簡明に示しているものであるが、そのなかでも人と物とを神もしくは神聖な存在を象徴するとして同時に扱っている点に注目したい。このようにとらえることは思い切った扱いであるかもしれないが、同時に神聖なものとそれによって惹起する問題を系統的に理解するために有効な視座であろう。晩年の『村の祭りと聖なるもの』(一九八〇年、中央公論社)ともつながる問題設定である。
 神体に関しては、「榊巻き」(九六−九九頁)で伊勢地方の榊巻きについて民俗事例の報告に基づいて、伊勢神宮の心の御柱と関連づけて理解しようとしていること(八五頁)が注目される。すなわちこの地方では神社の本殿(正殿)の床下に置かれた石に榊の枝を毎年巻きつける行為が行われていることに注目し、単なる樹木崇拝でも石崇拝でもないとする。石に榊を巻きつけ、年々更新するところに本来の意味があり(九八頁)、神宮の祭儀との関わりを示唆する(八五頁)。櫻井勝之進はこれについて慎重である(三九二−三九三頁)が、伊勢神宮とその祭儀をこの地域の社祠の諸相と連続してとらえ、特殊なものとして囲い込まない視線を著者が持っていたことは興味深い。
 類似の発想は遷宮そのものの検討にも援用されている。関東、東海地方で屋敷内に祀られている邸内社が祠を毎年更新することと式年遷宮とを重ね合わせる理解である(一三二頁)。これはそのまま、外宮と内宮との関連や、神祇信仰における若宮の位置づけとも関わってくる(伊勢神宮論が著者の研究にとって「最終の環」であることは本書の住谷論文でも指摘されている。三一七−三二一頁参照)。それと連続して理解されるのが、若宮に関する見解である。伊勢の外宮の性格を大祭の検討を押して、若宮的な面影を見ることができるとする(一三二頁ほか)。伊勢の祭祀が歴史的に多様な史料に恵まれているなかで、こうした祭祀の構造を透視した見解が提出されている点に著者の民俗事象に対する姿勢がよく表れている。ここでは大社古社の祭祀と民俗的な小祠との関わりを多角的に検討している点に民俗的神道研究の可能性を読みとることができよう。
 なお、こうした視点の基盤には柳田国男の研究との対峙があったらしいことがうかがえること(二一二−二一三頁)も興味深い。著者の柳田理解は単なる顕彰ではなく、敬意をはらいつつも盲従するものではなかったことが改めて確認できよう。

 いささか問題に思われるのは、司祭者を論じて、当屋、当番神主から専任の神職が生まれていく過程を「宮座の祭」をめぐる考察のなかで概説している箇所(一七六−一八五頁)で、本書に収められた比較的短い文章では充分な論述となっていないように思われる。もちろん、著者の他の著作ではこうした問題が詳述されている(例えば、『村の祭祀』、一九七五年、中央公論社、など)し、変遷に関する個別の調査がその背景にはあるのだが、変化の契機を祭祀集団の内部にのみ求める一面的なものになってしまっていよう。
 民俗資料との関わりから見た場合、原田学の最大の特色は村を地縁的なものとしてとらえ、個人の個性よりも村の個性を重視する点であろう。これも本書では正面から論じられているわけではなく、前提として、あるいはそこからさらに導かれていく問題について論じられている。柳田国男に代表される日本の民俗信仰研究が祖霊を重視し、現世における血縁結合をその発想の根源におくのに対して、原田敏明は、村は何よりも地縁的な結合が本来の性質であり、村の氏神も唯一の至高神であり、無像性を有するという見解を主張する(本書においては住谷による的確な要約を参照。二九九−三〇一頁)。

 この問題を論じるには紙幅が足りないが、簡略な見通しだけを述べておきたい。原田にとっての村は、その集団性と祭祀の様式において注目されているのであり、地縁か血縁かといった結合論理の二者択一を迫るようなかたちで追求されているのではない(前掲『村の祭祀』、二六−二八頁参照)。そして集団形成の論理としては、有賀喜左衛門などが重視し、村落の社会的な伝承として論じられてきた同族概念−非血縁者も家に包含される点が特徴である−と接続するとしてとらえるべきものである。祭祀の様式についても、こうした実際の血縁の有無よりも当該地域の社会生活を重んじ、それを可能にする神格の創出をとらえようとしたものである。原田が用いる村や社会性、地縁といった術語にはこうした社会や生業の基盤あるいは自然環境から決定される要素の重視を読みとるべきであろう。
 総じて、本書において多様に展開されている著者の祭祀理解の根底に民俗事例があり、それらは原田学を構成するもう一つの要素である古典理解と対をなしているということが推測される。そこでは民俗に祭祀の起源や原初を読みとるのではなく、基本の構造や諸要素の連関をすくい上げる視線を見いだすことができるように思われる。

 おわりに−日本宗教の分析方法として

 本書には他にも多くの可能性の芽が登録されている。例えば本稿ではふれられなかったが、宗教の伝播に階層分化を重視する点(一二−二〇頁)はユニークであり、この視点を進めていく必要性を感じさせる。また柳田国男との関係は書評(二一〇−二一三頁)や追悼文(二一七−二二〇頁)から看取することができるが、古典と民俗との併用という点からは折口信夫の方法との接点や差異、原田の折口評価なども今後、検討がなされるべきであろう。本稿では評者の力不足から、本書の意義のごく一部にしかふれることができなかったが、日本の宗教に関心を持つ人々がそれぞれの立場から本書を入り口に原田学に接近することは大きな可能性を持つと思われる。
 評者は、かつて原田学の魅力とその重要性とを住谷一彦の『日本の意識』(前出)によって教えられた。今回、基層文化研究の思想史におけるダイナミックな交流と相互連関をふまえつつ新世紀の宗教研究を構想していく必要と可能性とを本書を通じて具体的に確認することができた。原田学は民俗と古典とに資料的基礎をおき、定説に果敢に挑んでいく周到で重厚な宗教研究である。日本宗教の分析方法を不断に問うための指標として今後もくり返し参照されるべき業績といえよう。冒頭にも述べたが、本書はそうした著者の研究への入門書としての意義を持つ。
 編集にあたられた皇學館大学の関係者に敬意を表するとともに、続いて、著者の宮座論の草稿(その存在については四二七頁にふれられている)の刊行も期待したい。
 
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