著者名:平野榮次著作集U『江戸前漁撈と海苔』
評 者:寺門 雄一
掲載誌:「地方史研究」321(2006.6)

 オフィスビル、空港、高層マンション、娯楽施設が建ち並ぶ東京臨海部は、一九五〇年代まで「江戸前」の魚と海苔で知られた豊かな漁場であった。本書は故平野榮次氏(一九二五〜一九九九)が長年にわたって調査した、東京臨海部、特に東京都南部地域(港・品川・大田の各区)の漁撈習俗の報告をまとめたものであり、氏の主要な業績をまとめた著作集の第二巻(下巻に相当する)である。その構成は以下の通りである(項目の数字は紹介上便宜的に付したものであり、節に当たる部分は省略した)。

一  東京都の漁業
二  魚の捕採に関する習俗
三  旧大井御林浦漁業聞書 ─ 舟をめぐる習俗 ─
四  羽田沖の漁撈習俗
五  大田区糀谷地区の漁撈習俗
六  港区金杉地区の漁撈習俗
七  品川区浜川地区の漁撈習俗
八  魚の取引に関する習俗
九  海苔の取引に関する習俗
十  大森海苔習俗聞書
十一 初出一覧
十二 平野榮次の研究生活 ─ 東京の郷土研究の一側面 ─  (執筆:岸本昌良)
十三 平野榮次氏年譜
十四 平野榮次主要業績一覧

「先生って、フィリップ・アリエスのような日曜歴史家だったんだよね。」氏の通夜の席で誰かがこのように言っていたのをを思い出す。その研究ぶりを、アカデミズムに属さず多くの優れた業績を残したフランスの社会史研究者になぞらえたものである。
 氏は大学病院事務局勤務の傍ら、長年に渡り東京を中心に民俗調査を続け、成果を多くの調査報告書等で発表してきた。足跡は本書の十二から十四に詳しく紹介されているが、研究の質・学問に対する姿勢が研究職に勝るとも劣らないものであり、東京の民俗学研究の第一人者であったことは、東京都をはじめ多くの自治体の文化財保護審議会委員を務め、自治体史の編纂に携わったことが物語っている。

 順序が逆になったが、本書の本編ともいうべ一から十までの内容を簡単に紹介しよう。
 一は概説ともいうべき部分で、東京都の漁業を東京湾沿岸、伊豆諸島、多摩川をはじめとする内水面に分け、それぞれの沿革、漁法、漁具、漁期、漁獲物と漁業に関する習俗を簡潔に紹介している。二では、東京都南部地域の漁法を一覧した後、品川区内の各漁村の漁具・漁法を詳説している。三から七はそれらの地域の漁業をめぐる民俗の報告であり、大井御林浦(現品川区東大井)での船造りと操船に関する記録をはじめ、地域を丹念に歩き調査した成果が紹介されている。いずれの項目にも漁具・漁法に関する図版(スケッチ)が掲載され、読者の理解を助けている。また、各項目を読み比べることで、地域間の漁法、漁獲物、漁具の名称の違いを知ることもできる。
 八、九は大井御林浦の海苔問屋の文献史料に民俗調査の成果を加味し、漁民と問屋との経済的関係と、漁獲物がいかにして流通経路に乗っていったかを明らかにしたものであり、歴史学と民俗学を融合させ、地域の姿を生き生きと復元している。十は大森(大田区)をフィールドに海苔の生産と流通と、海苔生産に関わる衣食住、年中行事等を紹介したもので、特に海苔の養殖・生産方法の変遷を分かりやすくまとめている。

 十一の初出一覧が示すように、掲載書は複数に渡り、その多くは今では入手困難なものである。それを地域研究を志す者の共同財産として、形あるものにまとめたという点で、本書の刊行は大変意義深いものである。しかも一から十を通読することで、東京都南部地域の漁業について系統的に理解できる構成となっている。十四で紹介されているように、氏の業績は数が多く、発表場所も多岐に渡る。それを丹念に整理し、単なる遺稿集ではなく、書名通りの内容を持った出版物にまとめあげた編者(坂本要・岸本昌良・高達奈緒美の三氏)の努力と力量に心から敬意を表したい。本書は東京臨海部に限らず、沿岸漁業を学ぶ上での基本文献となるであろう。
 
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