著者名:福江充著『近世立山信仰の展開−加賀藩芦峅寺衆徒の檀那場形成と配札−』
評 者:林 淳
掲載誌:「宗教民俗研究」14・15合併号(2006.3)

 本書は、第九回山岳修験学会賞を受賞した『立山信仰と立山曼荼羅』に次ぐ、著者の二冊目の研究書である。著者の精力的な史料の掘り起こしと解読によって、立山信仰についての、われわれが抱いていた一般的な漠然としたイメージは崩れさり、より具体性をもった立山信仰のイメージが構築されつつある。本書も、前書同様に、いままで未紹介であった多くの史料群(檀那帳を中心に)を駆使し、膨大なデーターベースに整理しなおし、さらにそれを地図上に落として、視覚的に檀那場の実態を提示している。データーベースの情報は、ただちに誰にでも活用できる性格のものではないが、本書の中で公開されたことによって、そこに書き込まれたデーターが、いつか他の研究者によって、予想外の文脈のもとで再利用される日を待つことになった。著者の意図が、できるだけ史料の内容を客観化して、他の研究者の利用に耐えうるものを提供しようとするところにあることはまちがいない。著者の研究のスタンスからして、データーを使いながら独断的な解釈を加えることは極力避けられている。もし読者が、データーの部分を読み飛ばして、著者独自な解釈や結論だけを拾い上げて、読み取ろうとするならば、徒労におわるかもしれない。そうした読み方は、本書には適してはいない。同じようなテーマに関心のある研究者が、著者が提示しているデーターに目を通しつつ、自分の研究とつきあわせていくという読み方が、本書にもっとも相応しく、有効性のあるものと思われる。以下、章立てを紹介しておきたい。

序 章  芦峅寺衆徒の廻檀配札活動に関する研究史と本書の視座・活用史料
第一章  立山山麓芦峅寺宿坊家の檀那帳にみる立山信仰
第二章  尾張国の立山信仰
第三章  信濃国の立山信仰
第四章  房総半島の立山信仰
第五章  江戸中期江戸の立山信仰
第六章  幕末期江戸の立山信仰
第七章  立山信仰にみる石仏寄進の一例
第八章  芦峅寺宝泉坊の江戸の檀那場の血盆経唱導
第九章  芦峅寺宿坊家の廻檀配札活動とその収益の行方
第十章  幕末期芦峅寺宿坊家間の檀那場をめぐる争い
第十一章 加賀藩領国内の立山信仰
結語
あとがき

 序章は、研究史を回顧して、これまでの多くの研究は、配札活動に関して「総説的な内容」であり、史料にもとづく緻密な検討はないがしろであったと評される。著者によれば、衆徒による廻檀配札活動こそが、立山信仰の性格を最も的確に表わすものであり、本書の課題もその点にしぼられている。それとあわせて、山籠・山岳斗籔型修験から御師型修験への移行があったことも指摘されている。

 第一章は、檀那帳、廻檀日記帳をデーターベース化したものであり、江戸、三河、能登における衆徒の廻檀配札活動と信者数などの地域的差異を示す。江戸では信者数は、三〇〇〜五〇〇名、三河では一〇〇〇〜一五〇〇名、能登では五〇〇名であり、都会の信徒の経済力が比較的豊かなことが推定される。また江戸では仏前回向、立山曼荼羅の絵解きなど御祈主体型であるのに対して、三河、能登では護符頒布主体型であることの相違が言及されている。
 第二章は、尾張国に檀那場を有していた福泉坊、日光坊の檀那場の分布状況を調べて、互いに入り組まないように配慮されていたこと、一村あたりの檀家の分布密度が高いところが多く、「面」を形成した「良質な檀那場」であることが確認されている。
 第三章は、信濃国の檀家の分布状況を地図に落としていくと、檀家の分布は「線」「筋」あるいは「帯」程度であったことを示す。檀那場を「面」的に考えてきた従来のイメージは、修正を必要とする。信濃からの「ざら越え」を廃止することによって、加賀藩は立山を完全に支配することができるようになった経緯が説明されている。
 第四章は、衆徒が房総半島に形成した檀那場を追跡したものであるが、それほどの収益があがったわけではなく、わざわざ遠方に訪れることに「何か不思議なものを感じる」と、著者は漏らす。檀那場は、真言宗系の寺院勢力が強い地域であることから、真言宗的な要素を含む天台宗系の立山の衆徒によっては、教線拡大には都合がよかったのではないか、という推察が加えられる。

 第五章は、成立時期不明の檀那帳が江戸時代中期に成立したものであったことを確定した上で、その檀那帳を使って、江戸時代中期の檀那場の様態を分析したものである。それによると、商人・職人・新吉原関係者などをターゲットにしていたが、江戸時代後期になると檀那場も「成熟」し、幕臣、藩士など武家層が増加したという。檀那帳も、長帳形態から横帳形態に変化したことも指摘されている。
 第六章は、宝泉坊衆徒・泰音が江戸で形成した檀那場を検討したのもであるが、西尾藩主松平乗全も檀那になっており、その関連で家臣も多く檀那になっていたこと、新吉原には立山講がつくられていたが、それ以外は、江戸のあちこちに点在して、信徒が集住していることはなかったことを明らかにしている。
 第七章は、幕末に信徒からの寄進をうけて、姥堂境内に六地蔵尊石像が像立されたが、関係史料(泰音著)や銘文を解読したものである。寄進者、寄進目的などが明らかにされるが、六地蔵のうち三体は女性の施主によるものであった。近世後期の芦峅寺衆徒が、立山が女人往生の霊場をあることを強調し、女性の信徒をターゲットにした勧進活動の成果であった。
 第八章は、宝泉坊衆徒・泰音が江戸で行った血盆経の唱導活動をとりあげて、その受容層を分析したものである。それによると、主たる受容者は、泰音と師檀関係にある大名の妻、奥女中、家臣の妻、商人・職人の妻などであった。泰音は、師檀関係のある檀家を中心に、新規に勧誘者をとりこんでいったが、血盆経信仰は、身分を越えて江戸の女性の間に広がっていったという。

 第九章では、三八宿坊家のなかでも困窮化がすすみ、檀那場にも行くことができなくなった家と、順調に収益をあげる家とがあったことが指摘される。加賀藩は、困窮した宿坊には借用銀を貸し、収益をあげた宿坊からは祠堂銀を預け入れさせて、かなりの廻檀配札の収益は、加賀藩に没収されたという。
 第十章は、芦峅寺の衆徒間で生じた争論を対象にして、それらの争論を解決したのが一山の衆評による判断にあったことを明らかにしている。
 第十一章では、加賀藩領国の檀那場について考察し、籤引きで割り当てたことがあったことが指摘されているが、領国内ははとんど檀那場が形成されなかったと結論づけている。

 結語では、もう一度著者が、本書で明らかにした点を反復しており、論旨の力点がどこにあるかを知る上で、貴重である。

 章立てを一見すると、十一の論文が配列されているが、序章、結語をのぞくと、三つのパートに分かれていることがわかる。第一に、第一章から第四章までで、芦峅寺衆徒が尾張国、信濃国、房総をめぐって檀那場を形成した点が、比較考察されている。各地域ごとの檀那場形成の特質が分析されており、興味深い。第二に、第五章から第八章までで、江戸における立山信仰の展開を、衆徒の廻檀配札の側と、信者の寄進の側の双方から検討している。第三に、第九章以降であり、加賀藩寺社奉行所の祠堂銀・借用銀、芦峅寺一山内の争い、一山の裁決、加賀藩領内の檀那場形成のように、立山信仰を提供するメーカー側の内部世界に焦点をあてている。
 前書に関しては多くの書評が出され、本書に関してもすでに的確な評価が出されている現状で、屋上屋を重ねることになるような気がするが、評者の感想を提示しておこう。ふんだんに未紹介の史料を駆使して、立山衆徒の檀那場形成を緻密に追跡した著者の功績は、立山信仰研究のみならず、近世の山岳宗教研究において画期的なものであろう。衆徒たちのマンパワーの組織化には、目をみはるものがあり、近世の山岳宗教を「民間信仰」「基層信仰」で語ることが一面的であったことを思い知らさせる。同時代の山岳宗教の組織に関して、比較研究がなされていくならば、大きな稔りを生むであろう。つぎに評者の要望・疑問点をつぎに述べておく。

 第一に、近世を通じて立山衆徒の活動は継続していたのであろうが、とりわけ近世後期に活性化の時代を迎えたようである。慶長九年(一六〇四)の日光坊所蔵史料があり、芦峅寺衆徒の活動はその時点までさかのぼるというが、現存する史料は後期に集中している。その点から見て、近世中期の江戸の檀那場を扱った第五章は、貴重な成果というべきであろう。第五章の内容は、つぎにようにまとめられている。

「ある意味では江戸時代後期の廻檀配札活動における真骨頂ともいうべき強力な商業活動的性格がそれほど強くは感じられなかった。このほか、師檀関係の形成については、江戸の檀那場の場合、初期の段階では比較的勧誘しやすい商人・職人・新吉原関係者などを主なターゲットとして進められたようである。当初の檀那場はこれらの人々が中核となって支えていたと考えられる。その後、江戸時代後期へと時代が進むにつれて檀那場も成熟し、信徒たちの身分に幕臣や藩士たちの武士層も増加し、極端な部分では諸大名や前掲の松平乗全など、幕閣大名のなかにも芦峅寺宿坊家と師檀関係を結ぶものが出てきたのである。」(二六八頁)

 中期から後期にかけての相違として、「商業活動的性格」が指摘され、檀那場も商人・職人から武士層をも含むようになって檀那場も「成熟」したことが指摘されている。確かに頒布類の商品が増えて、血盆経納経予約が行われるようになったと記されているが、檀那場は「成熟」したと表現できるのであろうか。評者の語感では、果物であれ人間であれ、「未熟」であったものが、あるべき姿に成長して「成熟」するのであるが、立山信仰の歴史を予定調和的に「成熟」したのであろうか。著者は、近世の初期、中期と連続させながら、後期に開花したと見ているようであるが、評者は、芦峅寺衆徒は、以前からの活動をふまえながらも近世後期に質量ともに飛躍的に活動を新展開させたと見るべきだと思う。第七章の六地蔵寄進も、第八章の血盆経唱導も、第四章の房総への進出も、こうした新展開があったことを示唆している。衆徒が女人救済の売り物にして、武家層の女性にまで入り込んでいったのは、檀那場が「成熟」したというより、近世後期の都市にあった多様な民俗信仰が「成熟」したことの一例として把握すべきであろう。著者自身が書いているように、「江戸の人々と立山衆徒との関係形成の契機」(三五五頁)が解明されるならば、近世後期の立山信仰の特質がよりリアルに理解できるようになるはずである。

 第二に、評者の無理解を晒すことになるかもしれないが、伊勢、津島、富士、秋葉などの御師、行者の配札・祈祷の活動が契機になって、村においても神明社、天王社、富士塚、秋葉社がつくられ、村人が講をつくり、定期的に祭りを行うことは、近世以降には珍しくなかったが、立山信仰では、それに類似したものはなかったようである。本書にも、「壇那場に末社が勧請されることがなかった立山信仰は、衆徒がその檀那場に配札に訪れることができなくなると、たちどころに衰退していった。」(五二一頁)とあるが、他の宗教センターから派遣される宗教者の活動とは、その点で一線を画している。このことは、立山の宗教センターとしての社会的性格、歴史的特質に関わっているように思われる。加賀藩に支配されており、さらに立山が岩峅寺と芦峅寺とに権益が二分されており、センター全体として立山の神仏の霊威の個性を打ち出すことはできなかったのでなかろうか。そもそも衆徒は、いわゆる修験者でもなく、宿坊と農地を有して、冬に太平洋の村、町を廻檀する、加賀藩ご用達の「出稼ぎ」集団であった。第一点との関連で推測すれば、近世後期から幕末にかけて都市を中心に新展開した立山衆徒は、他の宗教センターの御師、行者より後発であって、村の社までは入りきれなかったという解釈も可能かもしれない。視点を変えるならば、村の中にまで入らずに配札が可能であったと言うこともできよう。村の庄屋が、芦峅寺衆徒を迎え入れ、世話をしたとしても、衆徒が配る札を、村の堂社で祀ることはなく、あくまで個別的に家、個人ごとに頒布して、祀っていたのではなかろうか。このあたりのことが、実証的につめることができると、立山信仰の特質も、他の宗教センターとの比較のなかで浮かびあがるのではないか。

 第三に、芦峅寺一山の構造やヒエラルヒー、そこでの合議の方法をもっと詳しく論及してもよかったのではないか。加賀藩からの命令系統、岩峅寺との交渉の仕方なども、史料上解明しがたいのかもしれないが、知りたいところである。第十章では、「芦峅寺の一山の衆議」(四七六頁)、「姥堂別当など、輪番制」(四七六頁)が指摘され、第十一章では、加賀藩領内の割当地が籤引きで決められることが解明されており、さらに掘り下げて、一山の内部構造やルールが系統的に明らかにされることが期待されるところであろう。

 以上、三点の要望・疑問点をあげておいたが、著者が史料の解読、データーの処理についやした時間と労力は、並大抵のものではなく、それが何よりも貴重な財産である。評者が提示した要望・疑問点も、著者の労作に刺激を受けて、それを延長させた先にあるものをかいま見ようとしたものである。本書が多くの研究者によって読まれ、そのデーターが再利用されることを期待して、擱筆する。
                               (愛知学院大学)
 
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