著者名:小栗栖健治著『宮座祭祀の史的研究』
評 者:関沢 まゆみ
掲載誌:「日本歴史」698(2006.7)

宮座に関する研究には大別して、その歴史的な展開過程を追跡しようとする歴史民俗学的視点に立つものと、その社会的な機能や構造に関する社会人類学的な視点に立つものとの両者があるが、本書は前者の視点に立ち、中世から近世へそして近現代へという宮座の歴史的な展開過程についての解明をめざしたものである。これまで宮座の歴史的な展開過程についての通説的な枠組みとして知られているのは、周知のように萩原龍夫が提示している荘園鎮守社を中心とした荘宮座から、惣村結合による惣村宮座へ、そしてさらには近世村落の氏神を中心とした村宮座へ、という展開である。そしてその移行期においては「複合宮座」(安藤精一『近世宮座の史的研究』吉川弘文館、一九六〇年)、「重層的宮座」(大越勝秋『宮座』大明堂、一九七四年)などと呼ぶべき形態がみられたこともその後の研究者によって指摘されている。しかし、このような宮座の歴史的展開の具体的な過程について、確実な文献史料にもとづく実証的な追跡が十分に行われてきたとはいいがたい。
 本書はとくにこの荘宮座と惣村宮座との重層的な関係についての歴史的な解明を課題として設定した労作である。

 第一部「村の祭祀」では個別村落における宮座の歴史的追跡、第二部「荘園と郷の祭祀」では荘園・郷における宮座の歴史的追跡、そして第三部「宮座論」では第一部と第二部の各論において明らかになった点を整理し、あらためて惣村宮座の展開と荘園鎮守社の歴史的意義について論じている。いずれも中世史料と近世史料を豊富に伝えている村落を対象として選び、現地史料をもとに宮座の歴史を具体的に追跡しているが、基本的にそこで古文書の全文紹介と解説を丁寧に行う姿勢が親切でよい。
 本書の分析視点としてはとくに次の二つの点がその特徴といってよい。第一は、村落に伝来する古文書の記録情報の中から、現在の宮座の運営方式や役職名についての初見の記事が追跡されて現行の民俗の歴史的な深まりが明らかにされている点である。第二は、宮座の株座的な特権が新興勢力の台頭によって揺らいでいき、その再編の動向ほか伝統勢力と新興勢力との力学的な関係が歴史的に具体的に追跡されている点である。

 たとえば第一部では、滋賀県蒲生郡竜王町橋本の左右神社文書の中から、オトナ(長老)が応永二年(一三九五)の時点にまでさかのぼって確認され、また天文二二年(一五五三)の宮座の特権をめぐる確執を示す史料により、旧来の北村と南村という二座の状態から新しく志村を加えた三座へという新しい勢力の台頭が指摘されている。また滋賀県八日市市今堀町の今堀日吉神社文書の中から、八人老人(オトナ)(応安元年〈一三六八〉)初見)、神主(応永四年初見)、頭役(永徳三年〈一三八三〉)などの諸役が確認され、十五世紀後半には惣に公認された屋敷の所有者にも「村人」と「村人ニテ無物」という階層差(永徳元年)が存在したこと、それが十六世紀末期になると「家数之事」として家数を数える上で奉公人が数えられていることなどから新しい勢力の台頭が推定されている。そして、それが東座と西座の二座の宮座が存在した状況(長享二年〈一四八八〉)から東座に左座と右座ができ、西座にも左座と右座ができて合わせて四座(永禄九年〈一五六六〉)の宮座へと展開したことが確認されている。一方、このように台頭してきた新しい勢力と旧勢力との確執、対立がおこったときに、成員資格を拡大するとか新座を作るというかたちで解決していく事例ばかりでなく、宮座の解体へ向かった例もあったことを滋賀県大津市曽束町の貴船神社の宮座の事例をもって示してもいる。その事例では文禄から慶長年間以降、侍仲間と平の確執、対立によって、安永五年(一七七六)には宮座が解体してしまっている。現在の民俗調査では宮座の慣行が確認できない村落であってもまた古文書を残していない村落であっても、これらの事例を参考にするならば、近畿地方の伝統的な村落においては宮座の存在はある程度一般的なものであったという視点を用意しておくことができよう。

 また第二部第一章では、琵琶湖の湖上交通と漁業をめぐる特権で知られる滋賀県滋賀郡堅田荘の荘園鎮守社である堅田大宮の宮座の変遷をとりあげて、先行研究の森龍吉氏の見解に対して再考を迫る。森氏によれば、中世の堅田荘では惣庄的な村落運営の主導層である殿原衆(禅宗檀徒)とそのような主導層に参画できない全人衆(真宗門徒)とに階層分化しており、堅田大宮の宮座運営は宮ノ切、東ノ切、西ノ切、今堅田の地侍層である殿原衆に独占され本村・神主村・大村・新村の四座が形成されていた、それが南北朝期以降、全人衆の台頭などとともに惣村が成立しやがて永禄〜天正年間(一五五八−九二年)にいたっては旧来の四座が新たに北座と南座の二座に集約再編されて堅田大宮の宮座は惣座化の傾向を強めた、しかし、この二座への再編以降も全人衆の宮座への参加は認められず、このような宮座の形態は近世を通じて存続し明治初年にいたって消滅したという。
 それに対して本書では新たに『居初家文書』に依拠しつつ、森氏がいうように荘園鎮守社としての堅田大宮が惣村氏神となったことによって旧来の四座がドラスティックに二座へと変化したのではなく、惣村の形成が新しい二座を生んだが、旧来の荘宮座の四座とこの惣村宮座の二座は中世から近世を通じて併存していたという事実を文書史料をもとに提示してみせる。つまり、惣庄の宮座と惣村の宮座の二重構造、重層構造がみられたというのである。
 そしてさらに、堅田大宮が荘園鎮守社から惣村の氏神へと変化しながらも四座と呼ばれる荘宮座が消滅しなかった理由について、座衆の資格を有していた殿原衆の保持していた鴨社供祭人という由緒、そしてそれによって保障されていた湖上特権、さらにそれを保持し存続するためのより強固な連帯、つまり、由緒、経済、祭祀という三つの要因をあげている。宮座の組織と儀礼をめぐる伝承力を考察する上では重要な指摘といってよい。

 本書はこうして宮座の歴史と民俗を分析する上で重要な事実を提示しているが、若干の問題点もないわけではない。いくつかの点のうち一点だけをあげておくならば、やはり史料批判の問題であろう。中世史料と近世史料の弁別に関しては評者の少ない経験からいっても近世史料の中の中世関係の記事の場合には常に慎重な読みが求められる。近世社会はまさに由緒が強調された社会であり中世に仮託された記事も近畿地方の近世文書の中には数多い。本書が中世の史実を再構成するために用いている近世文書とその伝える情報には必ずしも中世の史実とは確認できないものもあるのではないかと考えられる。たとえば、堅田大宮の宮座においても元亀元年(一五七〇)の堅田合戦において地侍の多くの家は滅亡し、その後、天正十二年(一五八四)の再建を経て、あらためて寛政五年(一七九三)、同六年に「宮座由緒書」と「座配記録」が作成され、家筋の保持がはかられたというが、近畿地方の寛政年間の古文書に特有の復古的な時代的傾向性が考慮されねばなるまい。少なくとも寛政期の記述をもって中世を語る史料として読むことはできないだろう。
 問題点をあげていけばまだいくつかあるが、本書が歴史学と民俗学の両者の視点から宮座を深く掘り下げていく視点を自ら実践的に提示した意義は高い。何より近畿地方の広い範囲に及ぶ直接の民俗調査の蓄積と古文書の博捜に裏付けられた本書が新たな宮座研究を導くことはまちがいあるまい。
                (せきざわ・まゆみ 国立歴史民俗博物館助教授)
 
詳細へ 注文へ 戻る