著者名:小栗栖健治著『宮座祭祀の史的研究』
評 者:薗部 寿樹
掲載誌:「宗教民俗研究」14・15合併号(2006.3)

本書は、小栗栖健治氏の論文集で、「序にかえて」、第一部全六章、第二部全五章、第三部全二章及び補論、そして「むすび」という形に構成されている。
 「序にかえて」には「本書の視点」という副題があり、研究史を概観した後、本書の目的を提示する。それは、@封建社会における村落の宮座祭祀を具体的に実証する、A村落と宮座祭祀との関係を明確にする、B宮座祭祀の歴史的変遷と歴史的意義を明らかにするという三点であるという。本書本論の第一部から第三部は、それぞれの課題に即応する形で構成されたものと思われる。

 「第一部 村の祭祀」。
 「第一章『あけずの箱』と『村人』」では、近江国蒲生郡橋本村の橋本左右神社文書を素材に、文書の伝来、宮座と「村人」との関係、宮座の確執と新座の成立について考察している。橋本村・武久村の宮座であり、北村座・南村座・志村座からなる、複雑な構成の左右神社宮座の基礎的事実を摘出した好論である。
 「第二章 惣村の組織と宮座」は、近江国蒲生郡今堀郷の宮座組織、頭役及び宮座財政について述べたもの。本章は、内容的には仲村研氏らの先行研究でほとんど既に指摘があるところの再論である。本章を新稿として収録することに、いささか疑問を感じる。
 「第三章 鎮守社の再建と宮座の動向」は、摂津国有馬郡貴志村御霊神社厨子銘文などを素材にして同社の再建について実証的に論じたもの。手堅い。
 「第四章 荘宮座から村営座へ」は、近江国栗太郡曽束荘の宮座に関する好論。本章でとりあげられた永禄九年(一五六六)の下司公文連署任附状は面白い史料だが、七六頁掲載の写真を見る限りでは、字体や筆勢にやや疑問を感じる。近世の写であろうか。
 「第五章 近代における宮座の変容」では、近世・近代における播磨国多可郡黒田村瀧尾神社の「お当」の変化を丁寧に論じている。近代における「お当」組織弛緩には、近世における家格制宮座の弛緩が前提としてあったのではなかろうか。
 「第六章 村の宮座と祭礼」は、近江国滋賀郡今堅田の野神神社における野神講・野神祭りの詳細と勾当内侍伝承の背景を探ったもの。第二部第一章の姉妹編というべき論考である。

 「第二部 荘園と郷の祭祀」。
 「第一章 在地支配の構造と宮座」では、近江国滋賀郡堅田荘における堅田大宮の祭祀組織について詳細に解明している。(掲載論文初出一覧をみる限り)小栗栖氏のデビュー作でもあり、本書のなかでもっとも熱のこもった好論である。
 「第二章 荘園の開発神と宮座」・「第三章 郷村の祭礼」は、ともに近江国滋賀郡仰木荘の宮座組織と伝承、祭祀などについて実証的かつ詳細に解明した論考である。評者は、仰木荘に関する小栗栖氏の優れた研究成果に触発されて「村落神話」の議論をたてた(薗部『村落内身分と村落神話』、校倉書房、二〇〇五年、第五章及び付論)。特に拙著の付論は小栗栖氏との対話から生まれた産物である。あわせてご参照いただければと思う。
 「第四章 『村生人』と宮座」では、近江国栗太郡綣村保大宝神社の荘宮座である村生人講と新興勢力の村宮座である長老講・天王講について論じている。決して豊かではない史料群を駆使して、的確な分析がなされている。
 「第五章 山岳信仰と荘郷の祭祀」は、近江国比良山の山岳信仰と荘園鎮守社及び村落祭祀との関連を解明したもの。本章は、本書のなかではやや異彩を放つ存在だが、宮座祭祀の背景やその拡がり、及び歴史的意義を考えるうえで、重要な論考といえるだろう。

 「第三部 宮座論」。
 「第一章 惣村宮座の歴史的変遷」は、中世後期、近江国の宮座を第一期(成立期・一三世紀中期)、第二期(展開期・一四世紀前期)、第三期(変質期・一五世紀後期)、第四期(崩壊期・一六世紀後期)に段階づける。そしてこの発展系列を指標として宮座の全体像と歴史的特質を解明すべきであると提起する。意欲的な提言である。
 ただし、疑問点もある。「村人」身分の動揺が決定的になり、新たな近世的身分秩序に編成されていくことを第四期の「崩壊期」としているが、同じく「近世宮座への連続」という指摘もなされている。中世惣村営座の終焉・崩壊と近世宮座への連続・近世的身分秩序への編成という二点をどのように考えているのか、もう少し詳しい説明が必要であろう。
 また、中世前期の名主身分から中世後期の村人身分が形成されると小栗栖氏は指摘している(三四〇頁)が、中世前期の名主身分は荘園公領制支配のために領主が設定した身分であり、村落内身分ではない。村落内身分としての村人身分の形成を議論するのであれば、中世前期の住民身分との関連を考察すべきである。この点については、かつて拙著でも批判した(薗部『日本中世村落内身分の研究』、校倉書房、二〇〇二年、八四〜八五頁)。
 「第二章 荘園鎮守社における祭祀の歴史的変容」は、荘園鎮守社の祭祀組織と村の祭祀組織が重層的に併存することを、堅田荘や仰木荘などの具体的な事例を用いて論点整理したもの。

 「補論 祭りの歴史・意義・役割−播磨地方を中心に−」では、兵庫県加東市の上鴨川住吉神社の宮座祭祀を概説して、祭祀の背景にある地域社会の歴史に目をむけるべきであることを説く。
 「むすび−これからの宮座研究−」では、家格制、身分、地域社会の年中行事と宮座との関連などの、今後における宮座研究の課題を概観している。

 以上のように、本書は堅実な実証と深い洞察力で宮座の歴史的な展開を究明した、優れた研究書である。
 本書出版後、小栗栖氏と面談した折、ある先輩からなぜもっと大部の研究書をださなかったのかと叱責された旨のお話をうかがった。小栗栖氏には、他にも絵巻、地獄絵や妖怪などの多くの業績があることからの謂いであろうが、私はそうは思わない。近年、テーマも何もなく、ただ論考をならべただけとしか思えない論文集が(特に若い研究者に)目立つ。これは何も最近に限ったことではないのだろうが、決してよいこととは思えない。
 小栗栖氏が宮座に限定して論文集をたてたことは明確な問題意識に基づくものであり、そのことだけでもまず本書は評価されるべきであろう。冒頭に記したように、小栗栖氏の三点の問題提起が本書の三部構成に照応していることは、そのことを明確に示している。
 小栗栖氏は、現代の宮座慣行の民俗調査に強い。そして古文書の分析も周到である。これが小栗栖氏の研究の強みであり、本書の特長でもある。それが本書での論証に具体性と安定した信頼感を与えており、本書が高い評価を受ける所以である。

 しかし、この長所が、ひとつの盲点を生み出しているようにも感じる。小栗栖氏は、現代民俗慣行の調査記録と思われる記述と文書から導き出される事実とを、往々に、混在させた論述のスタイルをとっている。
 たとえば第一部第一章(二五〜二六頁)で、寛文一一年(一六七一)の史料から一老〜五老の「おとな」がいる事実を摘出している。一方、同じ段落で、年長の順に一番長、二番長と称する現代の慣行を紹介している。これは現代の慣行によって史料上の記載を理解する(またはその逆)利点がある。しかしその一方、歴史上の一老という呼称と現代の一番長という呼称の間に歴史的な意義の相違があるかもしれないという点を見落としてしまう可能性も否定できない。
 このことは、これと同じ段落で、まつり当屋と年行事を「官位」と呼んでいるという興味深い事実を指摘していることから、なおさら危うく感じられる。この指摘は現代民俗慣行として記載されているのであろうが、さらっと記されているだけに、この事実の背景にある歴史的な流れを把握する契機が捉えにくい。
 小栗栖氏には、民俗調査と古文書分析の両刀遣いを今後も進められる一方で、両者に横たわる差異のもつ歴史的な意味をもっと追究してほしい。それができる研究者は、数少ないのだから。
 これから小栗栖氏は、地獄絵論や祭祀儀礼に関する論著を次々と公表するだろう。しかし、今後とも、宮座研究のリーダーシップをとり続けていただきたい。「宮座研究から地獄絵研究へ」ではなく「宮座研究も地獄絵研究も」でいってほしい。二冊目の宮座研究書も大いに期待している。
 小栗栖氏の温厚なお人柄に甘えてやや奇体な言辞に走ってしまったかもしれない。小栗栖氏にご海容をお願いするとともに、読者諸賢には本書を味読されることを強くお奨めしたい。
 
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