著者名:佐久間耕治『底点の自由民権運動』
評 者:河西 英通
掲載誌:「自由民権」19(町田市立自由民権資料館 2006.3)

「現代社会と自由民権運動研究」
 (前略)
〈異なる民衆)論 −佐久間耕治『底点の自由民権運動』−

 佐久間氏はいわゆる「団塊の世代」の末期に属する一九五〇年生れである。アジア・太平洋戦争との関係を抜きには生じえなかった戦後第一世代は、いつまでその数量的なネーミングに甘んじているのだろうかと筆者は訝しく思っていたが、本書において佐久間氏はかつての自己を「全共闘の台所学派」と名づけ、氏自身の思想的立場を明らかにしている。
 全共闘世代が自由民権運動をどのように評価するかは興味深い問題であったし、いまなおそうだろう。既成革新政党への批判、一国革命ではなく世界革命への展望、組織論よりも運動論の優位など全共闘世代の視座から、自由民権運動をどう読み直すかという作業は、全共闘運動それ自身の歴史的評価にもつながることのように思える。すなわち、全共闘運動が近代日本における諸々の社会運動との相違をいかに主張しうるのか、言い換えるならば、全共闘運動が全共闘運動として歴史に名を残せるのかどうかという問題である。所詮、それはベビーブーマーの「錯乱」であったとするならば、話は別だが。
 佐久間氏は「夜郎自大の情念派」などと揶揄されるなかで民権研究を進めたと振り返っているが、すでに『房総の自由民権』(崙書房、一九九二年刊)も著しており、その市民運動スタイルの民権資料展の開催やWEB資料館の制作などには多くの研究者・顕彰者・実践者が驚き、感銘を受けた。本書も多くの新出資料を惜しげもなく紹介し、千葉県の自由民権運動の諸側面を照らし出している。まさに書籍の形態をとった資料展であり、資料館である。と同時に、氏は自由民権運動研究を含む近代史研究に多大な影響(権威?)を及ぼしているウォーラーステインの近代世界システム論、「反システム運動」論に果敢に対峙している。佐久間氏は世界システム論とは「ヘゲモニー国家をめぐっての国家間の競争という契機を重視する理論」であり、それでは「自由民権運動は、外延部(external arena)が世界経済へ組み込まれる過程に埋没」するのではないかと疑問を呈している。ウォーラーステインの所説に関する議論について、ここで深入りする余裕も能力もないが、彼の国家観をロック国家論よりもスピノザ国家論に後戻りしているという佐久間氏の見解は小気味よい。さらなる批判的分析を楽しみにしたい。
 ともあれ、本書は副題に「新史料の発見とパラダイム」とあるように、地に根ざして史料を発掘するとともに、民権運動を世界史上で語りうる理論を模索している。しかし、本書が読者を最も刺激するのは書名にもある「底点」論であろう。これは色川大吉氏の「底辺の視座」への一つの批判である。東京フォーラムの報告「地域の自由民権一二〇年−「底辺」から「底点」へ−」で、佐久間氏は色川氏との見解の相違点を丹念な対照表にして「底点」を説明したが、極言するならば、「底点」論は、「民衆は辺ではなく点として存在し、皆孤立しています」というある牧師の講話に求められる。佐久間氏はその講話に触れて以来、「底辺の視座」から脱却して、「底点」志向に傾斜したという。
 「底点」論は「後書き」の末尾にほんの九行に渡って記されているだけなので、さらなる議論を聞かせていただきたいが、以下、私見をのべてみたい。

 一九八〇年代末から九〇年代にかけて社会主義の権威は決定的に失墜し、「前衛−大衆」といった構図も最終的に神話化したが、同時に発見されたことは、「革命」に対置されるべき「体制」や、「前衛」に指導(?)されるべき「大衆」はなんら一律的普遍的に存在するのではないということではなかっただろうか。人々はさまざまな「体制」のもとで暮らし、さまざまな「大衆」をかたちづくっているのであって、大文字の体制や大衆がそのリアリティを代位できるわけではない。もちろん、被らが国家やまわりの地域から切り離された空間を形成しているというわけでもない。彼らは様々に生きているのであって、「一般的」に存在しているわけではないということである。そうした小文字の人々のあり方を照射したのは戦後歴史学の良き側面であり、とりわけ地域史や自治体史は人々の生活過程の多様で緻密な実相を明らかにしてきた。ひとつかみでは「体制」や「大衆」を捕らえきれなくなったとき、それらの概念が拡散・解体するのは当然である。「底辺」という幻想が「底点」という実存に回帰したと言うべきか。
 あるいは、「底辺」間の矛盾を指摘することも出来よう。たとえば、色川氏は、東北を「主体的に自立をめざす地域」「日本の西南に対する一個の歴史的個性を持った地域」ととらえ、東北の西南に対する総体的従属を指摘する一方、「東北」対「西南」の対立構図は否定している。なぜならば、それでは「支配層の利害の一致」や「民衆の苦痛の共通性、連帯への認識」が見失われるからであった(「東北史への視点」一九七八年、『色川大吉著作集4 地域と歴史』筑摩書房、一九九六年刊、所収)。しかし、東北民衆と西南民衆の共通性や連帯を自明視する立場からは、結局、民衆は虐げられた民衆として、地域は支配された地域として、過度に一般化・平準化されてしまう。つまり、「底辺の視座」である。しかし、近代日本において、「自然的属性・社会的属性・個人的属性」に起因する直接的な人間差別−たとえば、アイヌ・沖縄人・被差別部落民・娼婦・病者・障害者・貧民・坑夫・囚人に対する差別(ひろた・まさき編『差別の諸相 日本近代思想大系22』岩波書店、一九九〇年刊)−とともに、東北差別や裏日本差別(古厩忠夫『裏日本』岩波新書、一九九七年刊、阿部恒久『「裏日本」はいかにつくられたか』日本経済評論社、一九九七年刊)といった特定の地域空間に対する眼差しの形をとった間接的な人間差別が存在していたのではないだろうか。「底辺」は「底点」の重層構造・対立構造・分裂構造として捕らえ直すことが出来る。敷衍するならば、近代日本史像を連帯する地域や団結する民衆イメージからかたちづくるのではなく、地域間の競合・抗争・対立・差別・抑圧・排除などの諸関係や、民衆間の敵対・分裂・背離・怨嗟・蔑視・偏見などの諸関係、そしてそれらを克服・止揚・超越してゆく地域と民衆を展望しながら構想するのである(河西『近代日本の地域思想』窓社、一九九六年、「民衆思想史の意識論」『歴史学研究』第七二一号、一九九九年刊、『東北−つくられた異境』 中公新書、二〇〇一年刊、参照)。
 つまり、近代日本における「底辺」とは、諸「底点」の矛盾的な関係性であり、人々は〈異なる民衆〉として存在していたと考えてみてはどうだろう。
 (後略))
              (かわにし・ひでみち/上越教育大学教員)
 
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