著者名:鈴木哲雄著『中世関東の内海世界』
評 者:川尻 秋生
掲載誌:「千葉史学」48(2006.5)

 鈴木哲雄氏が、「岩田選書 地域の中世二」として、三冊目となる著書を刊行された。まずこのことを慶びたい。目次は以下のとおり。

序 地域の区分
T 中世の利根川下流域
 第一章 古代から中世へ−下総国葛飾郡の変遷−
  付論 地域史の方法としての東京低地論
 第二章 古隅田川地域史ノート
 第三章 古隅田川地域史における中世的地域構造
U 中世の香取内海世界
 第四章 香取内海の歴史風景
 第五章 御厨の風景−下総国相馬御厨−
V 中世香取社と内海世界
 第六章 中世香取社による内海支配
 第七章 河関の風景−長島関と行徳関−
結 二つの内海世界を結ぶ道
あとがき

 序章では、本書で扱う二つの内海の名称を提示する。「香取内海」(現在の霞ヶ浦・北浦・印旛沼・手賀沼を含む広大な内水面)と「江戸内海」(現在の東京湾)である。その上で、二つの内海と利根川・鬼怒川水系との組み合わせにより、古代・中世の関東を、二つの大きな地域に区分することができるとする。

 第一章では、まず、古代・中世の葛飾郡の概要を述べる。古代では、「高橋氏文」の説話から古代の下総国葛飾郡の姿を推測し、漁業との強い結びつきをみる。ついで、平安前期では、平将門の乱から平忠常の乱を経て、相馬御厨を中心とした荘園公領制の成立までを概観するが、鈴木氏の持論である「開発」についての持論が紹介されて興味深い(注に自著を引用していただきたかった)。本書全体の総論に相当する部分であろう。
 なお、本章は、本来、葛飾区郷土と天文の博物館の地域史フォーラム「古代末期の葛飾郡」の報告がもとになっている。そのため、付論として、当日フォーラムに参加された諸氏の報告要旨が記されている。

 第二章は、古隅田川周辺の地形的特徴にもとづいて、「古隅田川地域」という地域(三地帯に分類)を設定し、現地形や地図から古代・中世の利根川を復原すること、浜川渡遺跡を主として用いて景観・開発などを推測すること、板碑分布から中世村落景観を復原することなどを行う。
 それぞれ有用な研究であるが、なかでも利根川の流路復原は、学問的に高い価値があると思う。また、地域史調査の具体的方法をうかがえて興味深い。

 第三章は、第二章を前提として、古隅田川流域の中世的地域構造を明らかにしようとした論考。国境としての古利根川流域で河川交通の発達とともに、香取社の支配が強まり、それによって中世利根川文化圏が成立した。しかし、この文化圏は、武蔵国との関係が強化された結果(「市場之祭文文化圏」と命名)、近世初頭にはもともと下総国に属していた下河辺庄の一部や葛西庄が武蔵国に編入され、国境が移動したとみる。国境の変化を政治権力ではなく文化の変容を通して分析した手腕は鮮やか。
 ただし、一部で武蔵国六所神社や氷川神社の影響を想定されているが、なぜ、「中世香取文化圏」が「市場之祭文文化圏」に取って代わられた理由について、もう少し踏み込んだ解釈がほしいところである。

 第四章は、本書の中でもっとも著名な論文。河川交通の視点から平将門の乱を読み直し、将門の本拠とした豊田・猿島郡は、鬼怒川=香取内海を押さえる交通の要衝に位置し、将門は「内海の領主」の性格を持っていたとする。また、鎌倉期の鬼怒川=香取内海に面する荘園公領もその多くが内海の荘園ともいうべきもので、鎌倉武士の多くが利根川=江戸内海地域、鬼怒川=香取内海、相模川=相模湾地域、那珂川=涸沼地域などに基盤を持つ内海の領主であったとする。
 従来の馬を中心とした将門のイメージを一新させた功績は大きく、また、鎌倉武士と水上交通の関係を説く部分も新鮮。また、子飼の渡や下大方郷の堀越渡での合戦が、陸の道の支配権のみならず、水の支配権をめぐる争いであったとの指摘も、合戦と水上交通の関係を考える上で示唆的である。ただし、将門が水系の関係で下野国府に特別に関心を示したとするのは少し考えすぎではないか。また、源頼信と平忠常の説話(『今昔物語集』巻二五)で、香取内海の水先案内人となった真髪高文を、鬼怒川=香取内海に引きつけて、真壁郡の兵であったとするのは如何であろうか。香取神宮にほど近い香取市吉原三王遺跡からは、「真髪」の墨書土器が出土しており、高文は香取・鹿島を結んだ水上交通に関わった在地の有力者ではなかろうか。

 第五章は、相馬御厨の成立過程について、現地比定を行いながらその成立を詳細に跡づけた論考。まず、大治五年(一一三〇)に平常繁が中世的郷である相馬郡布施郷を伊勢内宮に寄進したが、この段階ではまだ相馬御厨と呼ばれるほどの広さはなく郷程度の規模であった(「布施御厨」と命名)、そして、永暦二年(一一六一)に寄進された段階で、領域を持った荘園としての相馬御厨が成立したと考える。なお、下河辺庄の東限を太日川に比定する説も新鮮。
 この研究によって、相馬御厨成立の歴史的経緯が明らかになったといえるだろう。また、地名比定については異論もあろうが、現時点でのもっとも整合的な解釈だと思われる。なお、著者は、大治五年の寄進の契機を、前大蔵卿藤原長忠が前年の一一月に亡くなり、領家がなくなったことに求めておられる。しかし、前大蔵卿を藤原長忠に比定するのはあくまで可能性であり、故人ならば「故大蔵卿」と表記したのではなかろうか。ここではむしろ、当時、国司の任期のうち最初の三年間は立荘を厳しく抑制したものの、任終の年には認可したとの点を重視すべきではないか(大庭御厨でも同様の点を指摘できる)。大治五年は、大治二年正月二〇日に任命された(『中右記』『二中歴』)下総守藤原茂明の最終年に当たり、寄進しやすくなったと考えるのである。寄進を認めた国司庁宣が、任期の最終月の大治五年一二月に出されていることも、そのことと関係するように思われる。

 第六章は、これまで、香取社の個性(梶取社としての性格)の面から研究されてきた「浦・海夫・関」支配について、一宮、そして国衙論の視点から分析する必要性を主張する。任期の定められていない大禰宜職と、任期がある(六年)神主職(大宮司職)が相伝する所領には違いがあることを指摘し、「神宮寺・柴崎(両浦)」の支配権は神主に付属することを確認する。その上で、柴崎浦が「海夫注文」の柴崎津(茨城県神栖市芝崎)に比定できることから、常陸国側にも支配地があったことを示し、一四世紀になると、神主職も大禰宜家に取り込まれた結果、所領も大禰宜家に一元化され、ついに、香取内海や利根川下流域に対する支配権が、鎌倉幕府に取り込まれたことを明らかにする。
 従来とは視点を変えて、「海夫注文」を見直す作業に新鮮さがある。ただし、柴崎浦を仮に「海夫注文」にみられる柴崎津と同じものと認めても、他の津は神主職が相伝する所領には見えない。この点をどのように考えるのであろうか。
 また、半井家本『医心方』裏文書にみえる加賀国の海民や船は、加賀国が官物の海送国であったという点を考慮しなけれけばなるまい。加賀国の例が「海夫注文」にも適合できるのか否かは慎重に考える必要があるのではないか。
 なお、九州の宗像社でも同様に海夫の支配を行っていた(『宗像市史』一)。地域を越えた比較も、今後の重要な課題であろう。

 第七章は、中世香取社が支配した長島関と行徳関の実地踏査を行って、それぞれの位置を推定する。ついで、長島関は江戸内海の湊と考定できること、両関は海から河への荷の積み替え場所であり、陸路との接点であったことを述べる。
 実地踏査が日記風につづられており、現代から近世へ、そして近世から中世へと時間を遡らせていく手腕はみごと。

 結では、二つの内海を結ぶ陸路および平安時代の東海道について考察する。まず、中世では、関宿−栗橋間が水路のみでは接続できないとの認識に立って、太日川から香取内海への瀬がえの場所を、流山付近から我孫子市船戸のルートに想定する。ついで、平安時代の東海道を考古学的知見も織りまぜながら具体的に検討し、茜津駅を流山付近、官道を鰭ヶ崎台地上(相馬御厨の南限と一致するという)に比定する。さらに、相馬御厨の西限は、鰭ヶ崎台地を南北に走る「直線古道」官道に重なると説く。
 わかりやすい説であり、今後、この分野の研究史の一ページを飾ることになることは間違いあるまい。ただ、なぜ、流山ルートの方が説得力があるのか、その根拠をもう少しはっきりと説明する必要があるのではないか。このことは、『更級日記』のルートをどのように考えるのかという問題にもつながる。

 以上、はなはだ粗雑ながら、内容の要約と評者の意見を述べてきた。本書の第一の特長は、何といっても、従来、陸上主体と見られてきた東国の生活・文化を水上交通、とくに二つの内海を機軸に再構築した点である。その点は、将門の乱を水上交通の点から見直した第四章に遺憾なく発揮されている。
 第二に、相馬御厨について、その成立や立地などを詳細に解明したことである。部分的には反論が可能かも知れないが、今後の研究の基礎になったことは誤りあるまい。
 第三に、具体的に地域史の研究方法を提示したことであろう。歴史史料はもちろん、地理学・地質学・考古学などを総動員しながら、「足」でかせぐ重要性を具体的な作業工程を示したことで、今後のフィールド・ワークの手本となるだろう。

 以上のような研究は、鈴木氏ならではの学問的姿勢があって、はじめて可能になったと思う。著者は、すでに二冊の著書『社会史と歴史教育』(岩田書院、一九九八年)、『中世日本の開発と百姓』(岩田書院、二〇〇一年)を世に問うておられるが、「二つの内海」を論じた原点には、学校での地域史教育があったように思う。本書でもっとも早く執筆された第二章は、鈴木氏が以前勤務されていた高校の紀要に載せられた論文であり、生徒といっしょに板碑の調査をした成果が反映されている。ここにこそ、鈴木氏の地域史に対する「暖かい眼差し」の原点があると、評者には思える。
 ただ、全体を通して欲を言えば、考古学的成果の使い方にもっと慎重であるべきではなかろうか。現在では、特徴的な遺跡・遺物を除いて、「何々遺跡で何々が出土したからこのように言える」式の論証はほとんど使わなくなってきている。
 また、各章がそれぞれ別の経緯で書かれているために、文体や注の付け方、また難易度にばらつきがある。読みやすさを考えれば、ある程度の統一は必要ではなかったか。
 総じて本書は、学問的価値はもちろん、地域史研究における具体的方法論の書であると言えよう。したがって、研究者はもとより、これかち地域史研究をはじめたい方、あるいは、学校で地域史を教えている教員の方にも、是非お勧めしたい。
 鈴木氏は、現在、札幌に勤務地があり、なかなか中世東国地域史を研究する時間がとれないのではないかと危惧する。自然を含めた環境が激変するなかで、地域史研究はとくに緊急性を有する分野である。今後とも、著者が地域史研究を継続し、より一層発展させることに期待したい。
 なお、評者は、同じ東国史研究を行いながらも、古代史を専攻する。それもあって、あるいは御高著に対して、的はずれな、そして妄評を加えた部分があるのではないかと恐れる。そうした点があれば、筆者ならびに読者に深くお詫び申し上げたい。
 
 
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