著者名:橋本裕之・垣東敏博編『若狭路の祭りと芸能』錦耕三遺稿集T・別冊
評 者:福原 敏男
掲載誌:「日本民俗学」246(2006.5)

 忘れられた民俗芸能研究者、錦耕三による民俗芸能誌がその調査・執筆後、半世紀を経て蘇った。モーション・キャプチャーどころかビデオさえなかった当時、錦は日本舞踊若柳流の踊りの譜を、自身の創意工夫によって表した舞踊譜を用い、王の舞の複雑な動きを記述し得た。その精密な舞踊譜(別冊)への執着を見ると、何が錦をしてここまで突き動かしたのであろうか、とも思わせられる。
 本書は、橋本裕之による「民俗芸能研究がたどりつきたかった場所−錦耕三の方法と思想−」の後に、以下のように構成されている。
 王の舞の研究 王の舞  王の舞(草稿)
 弥美神社の春祭り 山東村織田神社の祭礼
 湖畔のまつり 向笠の祭り
 藤井の春祭り 相田の春祭り−八村相田の祭礼−
 闇見祭り 能登祭り
 橋本は錦の一番の成果について、王の舞の演技を分節する舞踊譜的な試みと、王の舞の環境を記述する民俗誌的な試みを統合したこと、にあるとみる。これは、のちに林屋辰三郎が提唱した芸態論と環境論の統合ともいえ、その提唱以前に錦の方法論はこの理想に到達していた、というのである。
 前者に関しては、国学院大学での折口信夫の薫陶により、「芸能史の理論よりも、まず民俗芸能を採録して他種の芸能や他の地方の芸能と比較し検討し得る学術資料とする、即ち芸能を標本化することが大切だと考えた。その上で、もっと充実した芸能史をつくることである。」(本書より)と思い至る。折口が慶応大学において芸能史を講義したのは昭和三(一九二八)年からであり、この講義録はのちに、『折口信夫全集ノート編日本芸能史』としてまとめられる。錦が国学院大学を卒業したのは同年であり、折口の芸能史体系化の渦中に学んでおり、理論構築・体系化のための基礎資料の必要性が身につまされていたと思われる。卒業後朝日新聞に入社し、戦時中福井支局に在勤中、三方郡を中心に分布する王の舞に魅せられ、大阪本社勤務になってからも足繁く調査に通った。民俗芸能研究者としての知識に加え、徹底した取材が求められる記者としての職業意識、インタビューと聞き取り技術により、若狭(特に三方郡を中心として)で春の祭礼に行われる王の舞の詳細な舞踊譜をはじめとする貴重な記録を残した。
 後者に関しては、「芸能採集で一番大切なことは、ある芸能がどうした社会を背景にして育成され伝承されて来たかということ」であり、「そのためには芸能が基盤とする村落社会の構造とその変遷と村の経済の変遷をよく理解する必要がある」(本書より)と、芸能伝承の環境を考察する必要性を認識していた。
 王の舞の歴史的研究に関しては、その後、橋本裕之『王の舞の民俗学的研究』(ひつじ書房)によって補われたが、戦中より昭和二十年代、三十年代前半に行われた錦の調査は、掛け替えのない伝承を掬い取った。新聞社勤務の錦にとって、戦中、戦後の当時でも発表する雑誌はあったはずであり、なによりも師折口にみてもらいたかったであろうがほとんど未発表のままであった。敗戦という未曾有の社会的危機に立ち会い、当時は錦のみが学術的価値を認識し得た「王の舞の戦中・戦後」を記述する使命感が、発表・印刷という行為以前にあったのであろう。
 今回の遺稿集の刊行により、民俗芸能誌の古典とされている早川孝太郎『花祭』と双璧をなすと言っても過言ではない民俗芸能誌が相貌を現した、ともいえよう。
 若狭の王の舞を発見し世に知らしめ、また、その価値を地元の人に説き保存伝承に尽力した錦の仕事の刊行は、『若狭路の暮らしと民俗』(遺稿集U、宇波西神社の祭礼を含む、今年度岩田書院出版予定)を以って完結するのである。
 
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