著者名:五島邦治著『京都 町共同体成立史の研究』
評 者:小西 瑞恵
掲載誌:「日本歴史」696(2006.5)

 都市京都の研究史を回顧すれば、膨大な著書・論文が挙げられるが、その基調を形作ってきたのは、林屋辰三郎『町衆』(中公新書、一九六四年)であり、京都市編『京都の歴史』全一〇巻(学芸書林、一九六八〜七六年)や、秋山国三・仲村研『京都「町」の研究』(法政大学出版局、一九七五年)などであった。これらは戦後から一九七五年頃までの仕事であり、一九七〇年代から都市研究が隆盛期を迎えるなかで、京都についての優れた研究が積み重ねられていった。具体的には、戸田芳実・脇田晴子・網野善彦・黒田紘一郎・五味文彦・瀬田勝哉・川嶋將生の諸氏による研究で、理論的にも実証的にも、京都研究は豊かに成熟していった。しかし、研究が精緻になる一方、「町衆」論と研究との乖離も生じてきたと思う。
 この著書で五島邦治氏が提起しているのは、従来の「町衆」研究の基調を継承しながら、現在生じているさまざまな難問を解決する試みである。著書は「第一部 都市民の誕生と祭礼組織」、「第二部 町共同体の成立」、「第三部 地域の都市民」に分かれる。

 第一部の「第一章 平安京の成立と都市住民の形態」で、まず、京戸と平安京に住む都市民の実勢とのずれが指摘され、新興都市民を表すことばには、(イ)市人・市籍人・市廛百姓・市郭之人、(ロ)下級官人・有力貴族の下部、(ハ)豪富之室・富豪之輩、(ニ)漠然とした地域をさすことばを冠する者、があり、初期都市民をさす特定のことばは、成立しなかったとする。(イ)(ロ)(ハ)は、実は同一の都市民の実態をさし、新興都市民の実態そのものが、都市と地方をともに生活基盤としてそれぞれ分有し、その間を往来するという都市民としては不徹底なものであった。この背景には、本質的に都市と地方との未分化があった。しかし、平安京のなかにも都市的な文化の発生がみられることが、「焼尾荒鎮(しょうびこうちん)」(任官・昇任等の際の祝宴、荒鎮は大酒すること)と「御霊会」の分析を通じて語られる。

 「第二章 摂関時代の都市民」では、一〇〇〇年前後の都市民の実態が追究される。具体的には、都市型官人と、もう少し身分の低い大工・瓦師などの都市民であるが、これらの住民を具体的に支配する行政上の末端組織について、検非違使の麾下にある保刀禰とよばれる人々について分析し、下級官人であるとしている。平安京内部における地域的な隣保としての保証制度が慣習として成立し、地縁的な社会が確立しつつあった。祭祀の面からも、保刀禰や「有勢人」が地域の要請に応え、都市的祭礼を指導しつつあった。

 「第三章 平安京の祭礼と都市民の成熟」は、祇園・稲荷・松尾の三社の祭礼を分析して、平安京の祭礼の特異性を指摘し、祭礼を支えた地縁共同体の母体である商工業を基盤とした新興都市民の動向を論じたものである。三社の旅所についての分析は、「第五章 稲荷旅所の変遷」と併せて、最近の研究史で最も議論が集中している重要なテーマであるだけに、実に興味深い。

 また、「第四章 郊外の御霊会」は、北区紫野と右京区花園伊町鎮座のふたつの今宮神社を例に、平安京の近郊に起こった御霊会を主催した主体と社会構造に迫ったものである。九四〜一〇〇頁に掲げられた「有力都市民の呼称」と「都市を中心とする高家従者」の一覧表は、保刀禰に代表される地域の有力都市民の実像を明らかにしてくれる。

 以上の分析に基づいて、著者の主張を全面的に展開したのが、第二部である。

 「第六章 「町人」の成立」で、「町衆」が中世都市民の代名詞となっているが、「町衆」の動向が積極的にみえはじめる一五世紀から一六世紀前半にかけて、実際に史料にみえるのは「町人」で、「町人」こそ、京都の自治的な地縁共同体である町を指導した中心的な存在であったとする。応永二六年(一四一九)の「酒屋等請文」五二通(北野天満宮所蔵)を分析し、@町人は具体的には商業座の構成員であって身分的な存在、A在地にあって民政を請け負う役割を担った公的な存在、であったことを予想させると結論している。さらに、一つの町の責任者(もしくは代表者)としての「町人」と「町」についての用例を検討して、最終的には幕府侍所の管轄にあったとし、室町時代の全期間を通じて、自治的な動向にあった「町」の責任者の意味を超える、住民全体といった広い範囲での使われ方は基本的になかったように思う、とすることが注目される。鎌倉では一三世紀はじめに、京都では康永二年(一三四三)七月の祇園社の綿本座商人と綿新座商人の争論(『祇園執行日記』)に初めて登場する「町人」は、店棚をもつ商業座人(寺社や諸司・公家などの神人・寄人・被官)で、そのまま社会的な信用を得て地縁的な町における代表者(上からは責任者)にもなっているという二面的な性格をもつ。しかし、京中に店棚をもつ人間は割合からいうとそれほど多くはなく、「町人」はもっと限定できるのではないかとし、織物の生産者である「大宿織手」(大舎人の織物座)や、土倉方一衆をつくり、幕府の政所勢力と結びついた土倉・酒屋とは区別する。「町」と「町人」の成立に密接に関係するのが、祇園御霊会・稲荷祭・松尾祭などの都市民(都市の商工民)の祭礼の敷地役であった。「敷地」は、京中の地域を領主の土地支配とは無関係に各神社に分割した一種の奉斎域で、敷地役は祭礼料を敷地内の住人に平等に分割するという方法である。これが地口銭で、通りに面した土地の間口に従って敷地域の住民が等しく負担するものである。その実施時期は、下京の敷地役の場合、祇園社は明証がなく、稲荷社では南北朝期にすでに行われていることが確認できる。この時確立した「町」という区画にあって、祭料徴収を請け負うなどの役割を果たしたのが、「町人」ではなかったかと推論する。

 また、「第七章 山鉾風流の成立」は、祇園祭の山鉾成立以前の神輿を中心とする祭礼行列と系譜が異なるとされる山鉾風流について、成立過程と負担形態を初めて明らかにした仕事で、最も面白く読んだ論文である。結論から先に言えば、前章で考察した「町人」が山鉾風流を造り進めた基盤である。二〇六・二〇七頁にある正安二年(一三〇〇)から康暦元年(一三七九)までの「神事渡御と山鉾風流の遂行状況」一覧表が示すように、神輿渡御があったとき山鉾は簡略化され、反対に神輿が延引もしくは中止されたとき山鉾は盛大に巡行がなされている。本来は神輿渡御を中心とする祇園会の神事部分を支えていたはずの敷地役が、延暦寺の訴訟による公的な祭礼の抑留に対して、私的な風流をもって自分たちだけでも祭りをしようという気概を都市民に作らせたのではないかという。祇園会では山鉾風流が敷地役によって負担され、神輿渡御は応永三二年を初見として、土倉方一衆による馬上功程銭によって維持されていた。貞治三年(一三六四)の祇園会で「土倉」が神輿を舁く勢力として動員されている例にみるように、馬上功程銭は幕府の指示による土倉の臨時的な神輿渡御役の負担が、課役として恒常化したものではないかと論じる。

 「第八章 「町人」組織と土倉・法華宗寺院」「第九章 天文法華一揆と惣町の展開」も重要な論文であり、「第十章 下京惣町文書」は史料の紹介・解説である。また、「第三部 地域の都市民」の「第十一章 上京一条小川界隈」「第十二章 下京岩戸山町」「第十三章 下京石井筒町記録から」についても記したいが、紙数が尽きてしまった。本書は京都の町衆研究を新しく書き換えた仕事であり、今後の都市共同体研究の発展に寄与するところが大きいと考える。広く読者諸賢に一読をお薦めして筆を欄きたい。
                         (二〇〇五年八月二九日成稿)
             (こにし・みずえ 大阪樟蔭女子大学学芸学部教授)
 
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